オレンジがあればやっていける。 細かいしぶきが飛び散って、危うく目の中に入るところだった。さっき爪を切ったばかりだから、皮を剥くのに少し難儀する。 今朝もオレンジ。毎日、オレンジ。 シュラがつついているのはフェタチーズ。ここへ来るまで知らなかった食べ物だ。塩辛くてボロッとしていて、初めて食べたときは驚いた。 「ギリシアの食べ物はおいしいだろう?」と誰もが口を揃える。その都度僕は「ええ、そうですね。」なんて適当に頷くのだけれど、本心では同意していない。輝く太陽と雲のない空と同じで、誇らしげに「どうだ、すごいだろう。」と言っているのが鼻につく。否定することを許さない押し付けがましさ―そんな風に感じるのは、僕がこの地に慣れきっていない証拠だろうか? オリーブ、にんにく、トマト、レモン。茄子の詰め物。炙った肉。びっしょり湿ったナッツのパイ。ドロリと粉っぽいコーヒー。水飴みたいに濃い蜂蜜。 口に合わないわけじゃないけど。 恋しいのはオリーブよりもディルの香り。クラウドベリーにラズベリー。ライ麦の乾パン。チューブ入りの魚卵ペースト。酸っぱいニシン。茹でたザリガニ。白く柔らかいフェタじゃなくて、ハードタイプのイエローチーズ。 夏、太陽が沈まない夜。冬、聖女ルシアのお祭り。 懐かしいふるさと。 僕は北の海のさかな。ここの水ではうまく泳げない。 早朝当番が回ってくるたびシュラは僕の宮に泊まる。「教皇の間に近くて便利だから。」と言うけれど、磨羯宮なんて遠いうちに入らないのだから、多分うちに泊まる口実だ。真面目なシュラのこと、「遊ぶために泊まりに来た。」とは言えないのだろう。 チェス。一緒に組み立て始めて何ヶ月にもなる帆船の模型。街で見かけた美少女の噂。聖闘士じゃない同年代の少年達とおよそ変わらない楽しみ。笑い転げて夜が更けて、眠る頃には早起きの鳥が鳴いていることもある。 「だからあのとき、本当に女聖闘士だと思ったんだ。」 同じ時期に聖域入りした僕達は共通の話題が多い。 「長い手足にプラチナブロンド。なんてきれいな女の子だろうと。」 小房に分けたオレンジをつまみながら、シュラは昔の話をする。 「でさ、マスクを着けていないだろ…あ、まずい、殺される!って。」 「うん。ときどき思い出すよ。」 慌てて後ろを向いたっけ。僕より頭ひとつ分背が高かったシュラ。 訓練場へ続く階段の踊り場。初めて聖衣を身に着けそこを通りがかった僕は、大きなリュックを背負ったシュラに出会った。 「僕は君のこと、なんて無愛想な奴だと思ったよ。手を差し出しても顔をそむけたままだから。」 「『ふたりとも握手をしなさい。』って言われたんだよな。でもサガはすぐに俺の誤解に気付いて…」 そこまで言ってシュラは口をつぐむ。失敗した、という表情で。 聖域にはいくつかのタブーが存在する。それはあくまでも公の場で触れてはならない事項であり、個人が私的な状況で口にする分には一向に構わないのだが、僕とシュラとの間では、その名は絶対の禁句として存在する。 『サガ』と『アイオロス』。 あの日シュラはアイオロスに、僕はサガに連れられて、あの階段で初めて会った。 「もう、不自然なことはやめよう?」 僕のほうから申し出てみる。シュラは黙ってオレンジを口に運ぶ。 「僕は平気だよ。サガのこと、よく覚えていないんだ。」 嘘だ。サガのことを考えない日はない。 今どこにいるのか。生きているのか。なぜ突然姿を消したのか。噂の通り、アイオロスの謀反を察知して、関与したくないばかりに聖域を去ったのか。それとも何か重大な秘密を知ってしまい、追われていったのか。 聖闘士になって初めての大任がアイオロス討伐。教皇の命とはいえ、シュラは苦しんだことだろう。あれから3年以上たった今でもシュラはその顛末を語ろうとはしないし、僕のほうからも触れないようにしてきた。 そしてシュラは僕の前でサガの名前を出さない。 なかなか聖域になじめない僕の心の支えだったサガ。いつも優しく気にかけてくれたサガ。反逆事件もシュラのことも僕には大きな衝撃で、そんなときこそ冷静なサガのそばで平常心を取り戻したかった。けれどサガはもうどこにもいなくて、いつまで待っても帰って来なくて、僕はひどく落胆した。 落胆しつつも痛感した。自分が甘えた人間であると。誰かに寄り掛かりたいとか、支えて欲しいとか、知らず知らず他人の力を当てにしているのだと。 「今まで気を遣って、サガの話題を避けてくれていてくれたんだろう?」 「…そういうわけでもない。」 「もしよければ、君も話してみてくれないか。アイオロスを討ったときのことを。」 話せば楽になるなんて。自分がそうだからって。 柱時計が鳴り、シュラは立ち上がる。 「ああ、のんびりしすぎた!もう出なきゃ。」 慌ただしく水を飲み干し、ナプキンで口を拭く。 僕の勝手な思い込み。話せば楽になるなんて。話さなくても済む人だっているし、話したところで何も変わらない人だっているのに。 俺もよく覚えていないから、と静かにシュラは言ったのだ。 やっぱり僕は甘いのか。過去を引きずり、懐かしみ、ここの風土に未だ溶け込めず、いつまでも未熟なまま。 僕は「覚えていないから話せる」と虚勢を張ったけれど、シュラは「覚えていないから話すこともない」と言う。この違いはどこから来るのか。 シュラは聖衣を装着し、すっかり支度を済ませてドアを開けた。そしてちょっと立ち止まり、まっすぐ前を見詰めたままで言った。 「さっきサガのこと忘れたって…嘘だろう?」 出し抜けに図星を指されても、僕の心は少しも動揺しない。至極当然すぎることだからだ。それはそれで情けない気もする。 「本当は今でも、サガに会いたいと思うだろ?」 長い付き合い。僕の気持ちを全部知っているかのようなシュラ。 「会いたい。」 僕は素直に答えた。 「きっと会えるよ。近いうちに。」 「うん…ありがとう。」 僕は北の海のさかな。だけどずっとここで泳ぐ。 胸を張り、背筋を伸ばし、教皇宮へ続く階段を登るシュラの姿がだんだん遠くなる。 次に早朝当番が回ってきても、シュラはもう泊まりに来ないような気がする。チェスの勝負も作りかけの模型も、途中のままで終わることになるだろう。だからと言って僕達の関係が大きく変化することもないように思える。 変わるとしたら僕の内面かもしれない。 食卓に戻ってフェタを口に入れる。オリーブも放り込む。強くなりたい。強くなろう。濃厚なヨーグルトを大きいスプーンで食べる。 近いうちサガに会えると言ってくれたのは、慰めでも哀れみでもなく、僕を励まそうとしてくれたのだ。たとえ確信などなくっても。明るい見通しじゃなくっても。シュラはそういう奴だ。 もうひとつオレンジを剥く。 後ろばかり向いて感傷的になっているうちは強くなれない。自分の中で完結させよう。幼い日の思い出。 ギリシア。聖域。…サガが戻ってくる場所。 果汁が飛んで、真っ白いテーブルクロスに点々と染みた。 強くならなきゃ。僕もいつまでもサガ、サガじゃない。今を受け入れ、前を見て進もう。忘れなくてもいい。とらわれるのは止めにしよう。新しい気持ちで泳ぎだそう。 ああ、大丈夫。やっていける。ここのオレンジはこんなにおいしい。 20040515 私はギリシア料理スキですよ。ときどき食べに行くし、自己流で作ることも。 ギリシアのオレンジがおいしいというのは『深夜特急』の受け売りです。 |