風に乗って






 初めは自分の髪の毛が、風に吹かれて跳ね上がっているのかと思った。
 すぐにくすんだ緋色の花びらが降っているのだと気付き、カミュは驚いて空を見上げた。
 4階の出窓から、アフロディーテが薔薇を撒いている。




 「はるばるようこそ、カミュ!」




 2年もここで暮らしているというのに、何もない部屋だった。テレビもソファも植物の鉢さえもなく、仮の住まいのつもりでいることが一目でわかった。
 カミュは、脱いだコートを椅子の背に掛けた。この部屋には洋服掛けがないからだ。
 「来てくれて嬉しいよ。君が初めてのお客だ。」
出窓に腰掛けたままカミュを迎えたアフロディーテは、乾いた花びらが詰まった広口びんをカーテンの脇に置くと、肩下までの長さの髪を両手で束ねて持ち上げた。
「今日はいい陽気だね。こうして日向にいると少し汗ばむぐらいだ。」
春風が襟元の後れ毛を遊ばせ、カミュの知らないコロンを乗せて吹き抜ける。
 「あの地図、わかりにくかったかい?遅かったから心配したよ。」
カミュは緊張していた。だからすぐに言葉が出なかった。久し振りに会うアフロディーテは、思い出の中の彼よりも髪が短く、姿が少しほっそりとしていた。
「いえ、バスが止まっていたので…駅から歩いて来たのです。」
ようやく発したカミュの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、アフロディーテは聖歌の一節をハミングしながら、窓から身を乗り出し、空を見上げている。
 髪を切ったのですね。そのコロンの名前は?痩せたのでは?
 いつ聖域に戻るのですか?それともまたどこか違う場所へ?…口を開いた途端に、あれもこれも矢継ぎ早に尋問してしまいそうな気がして、カミュは胸の高鳴りを抑えながら、テーブルに2人分用意されていたグラスの片方に口をつけた。何かは思い出せないけれど、どこか懐かしいような風味が鼻の奥に向かって広がり、その正体に思いをめぐらせるうちに、いつしかアフロディーテが口ずさむ旋律は止み、代わりにカサカサと乾いた音がカミュの耳に届いた。
 水色の春空へ、アフロディーテが薔薇を撒いている。
 「それはポプリ?」
カミュが尋ねると、アフロディーテはカミュに背を向けたまま、花びらを撒きながら答えた。
「そんなシャレたものじゃないよ。ただ…バラバラになって乾いただけ。」
そして「私の心と同じように」と、誰に向けられたものでもないらしい小さな独り言が付け加えられる。
 カミュは、いつもすっくと立っていた記憶の中の白薔薇が力なく項垂れる様を目の当たりにし、心を震わせた。もうずっと長い間、限られた者だけが目にすることを許される、こんなアフロディーテに憧れ続けていた。寄り掛かるべき対象にいつか自分を選んでくれることを、淡く夢見て何年も過ぎた。
「アフロディーテ…!」
カミュは思わずその名を呼ぶ。
 しかし、振り向いたアフロディーテは既に、隅々まで水を渡らせ、凛と張り詰めた大輪の薔薇そのものだった。
「何だい、カミュ。」
明るい金髪の合い間を縫って、柑橘系の香りを乗せた風が吹き、言葉を継げずにいるカミュの赤毛を弄ぶ。
「カミュ、君も手伝ってくれないか。そろそろ捨て時だから、こうして空に放ってやるのだ。」
乾いた緋色の花びらが、ひとつかみ、アフロディーテからカミュへと無造作に手渡され、指の間からこぼれ落ちた数枚が、風に乗って、ひらひらと窓の外へ飛び出した。舗道を歩く人が不思議そうに見上げるのを、カミュは少し恥ずかしいと思ったが、アフロディーテは何とも思わない様子だった。
 カミュは、アフロディーテが聖域に戻る日も近いだろうと思い始めていた。
「カミュ…誕生日に、きれいなカードを送ってくれてありがとう。」
いや、遠くてもいい。いつになってもいいのだ。
「気に入ってくれて良かった。」
 わざわざ放り投げずとも、握り込んだ手を軽く緩めるだけで、春の風が自然と花びらを攫ってゆく。大きく腕を振って花を撒くアフロディーテにそれを教えようかと思ったが、カミュはその美しい動作に見とれてしまって何も言えなかった。











 20080613






 なにやら傷心のアフロディーテ様と、なにやらちょっぴり変態ちっく(?)なカミュ先生であります。





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