Rose‐water






 空があんまり青いから、僕は不安になってしまう。急に黒雲が湧いて出て、嵐を起こしはしないかしら?
 「ここの薔薇はいつも見事だね。」
あなたはそう言って笑うけれど、こんなに綺麗に咲かれると、なんだか悲しくなるのです。




 頭上から降り注ぐ美しい言葉の響き。この頃また少し低くなった声で滑らかに読み上げられる古いギリシア語の詩は、淀みなく流れ落ち、僕の髪を伝い、耳を通って体の中へと浸透する。
 活字をたどっていた目を、僕はほんの数行分だけ閉じてみる。
 膝に感じる分厚い本の重み。花の香りをのせた涼しい風。梢から、鳥のさえずり。
 あ、と気付き、僕は慌ててページを繰る。勢い余って1枚余計にめくってしまったのに、サガは意に介さず、平然と詩句を続けている。
 驚いた。覗き込んでいるのだとばかり思っていたのに。サガは、音読しているんじゃない。暗誦しているんだ…。




 高潔で博識な双子座のサガ。僕の憧れ。6つ年下の僕が言うのもおかしいかもしれないが、まだ15歳なのに、大人のように落ち着いている。
 人望の厚さは慰問に行くとよくわかる。サガと組んだ日は、村の人達から受ける歓迎がひときわ大きい。どこの家の人も皆、外へ出て来て、心からの笑顔で僕達(正確にはサガ)を迎える。
 慰問は黄金聖闘士に課せられた任務。大体2人1組で村を訪ねる。
 集会所で陳情を受けるときなども、サガと一緒の日は何かいつもと空気が違う。そこに緊張感はなく、かと言って人々に侮られている感じもない。親しさと敬意をあわせたような心持ちで村の人達がサガを取り囲んでいるのがわかる。サガは静かに、丁寧に、ひとりひとりの話を聞く。
 僕を含め、他の聖闘士ではこうはいかないのだ。年若い少年に何がわかるものかと、こちらを値踏みする視線。あるいは、権威を崇めるが故の、幼い者への態度としては過剰とも言える畏縮。どちらもある意味当然の反応かもしれないが、年齢と経験は努力だけでは埋められなく、もどかしい思いをすることもしばしばだ。
 サガがそれらを軽々と乗り越えて、心を開いた人々と対話が出来るのは、人徳以外の何ものでもないと思う。もちろん、サガが努力をしていないとは決して思わない。けれど僕は頭の中に、「資質」という言葉を浮かべずにはいられない。
 正義を愛し、清らかに。慈悲深く、何より強く。
 サガの評価は聖域でも高く、彼を慕う者は数多い。僕より年少の黄金聖闘士達も、事あるごとにサガを尊敬していると口を揃える。
 そしてサガは、教皇様に重用されているのだ。




 「次期教皇最有力候補」。最近、そんな噂をしきりと耳にする。




 「アフロディーテ。何が悲しい?」
サガの長い指に頬を拭われて、僕はようやく、自分が涙を流していることに気付く。
 悲しい?何が?
 ただ、僕は…。
 サガと過ごすのどかな午後。薔薇がいつか散るように、こんな平穏な時間もやがて思い出となる日が来るのだろう。
 それはいつ?何年後?
 サガが教皇になったら?
 いや、もっと早く…もしかしたら、明日にでも…。
 「何でもありません。悲しくなんて、ない!」
僕は思わず叫んでしまう。そしてこの素晴らしい人を、ときどきとは言え僕が独占していること自体、幻想であるような気がしてくる。
 ある日突然、サガは僕から離れて行ってしまうのではないかしら?
 伸ばしっぱなしで目にかぶった前髪を払って、僕は空を仰ぐ。根拠のない淡い悲しみを振り切るために。本当にいい天気だ。青い空。鳥の鳴き声。見渡す限りの薔薇。
 「何でもないなら、いいよ。」
サガは少し困ったように微笑むと、僕が両手と両膝で支えていた本を、ひょいと片手で持ち上げる。大きな手。力強い腕。今の僕には不足しているもの。
 サガは立派な教皇になるだろう。そして平和で暮らしやすい、新しい時代がやって来るに違いない。その頃には僕も逞しく成長し、皆に信頼される聖闘士として…。
 そう望みながらも、僕は恐れている。
 いつか終わってしまうという予感に、心の表面がチクチクと痛む。まるで薔薇の棘が刺さるように。




 気まぐれな涙の理由をサガは追及しない。訓練のこと。詩のこと。昨日、月食だったこと。何事もなかったように話をしながら、僕達は紅茶を飲む。
 2杯目を注いで、僕は、小瓶に入った透明な液体をほんの少しカップの中へ垂らす。柔らかな芳香が立ちのぼり、口をつけると、紅茶の味はそのままに上品な薔薇の香気。
 異国の文字が書かれた瓶を手に取り、サガが言う。
「この間持って来たばかりなのに。もうすぐ無くなりそうだ。」
わずかに数滴ずつでもお茶を飲むたび毎回使っているのだから、瓶の中身は確実に減ってゆくのだ。
 僕はサガに頼む。
「また取り寄せて下さい。もう、これを入れないお茶では物足りないのです。」
 サガが教えてくれた魔法の水。
 東の国の、薔薇水。




 「今度はもっと大きい瓶にしようか。」




 サガがどうしてそんな風に言ったのかはわからない。別に他意などなかったのかもしれない。単に大きい瓶のほうが長持ちするし、何度も注文するより楽だと思っただけかもしれない。
 けれどサガがカップに落とした薔薇の雫はやけに甘酸っぱく香り、僕の胸に新しい感傷がうまれる。
「ううん、小瓶のほうがいい。サガ、小さいのにして下さい。」
サガは何も言わない。チク、と棘が刺さる。
「使い切ったら、また新しい薔薇水、取り寄せて下さるでしょう?」
 返事をするかわりに、サガは寂し気な笑顔を見せる。
 どうしてかはわからない。











 20031128






 サガに憧れる9才のアフロディーテ。ちょっぴり感傷的なある日の午後。
 ここに出てくる「東の国」とはイランのつもりです。
 以前遊びに行ったとき、お茶やデザートに薔薇水で香りが付けられていたのがとても素敵で…。


 北欧人は「滅びの予感」を持っていて、「今が楽しくてもきっとそのうち悪いことが起こるに違いない」とか、「この幸せは長く続かないだろう」という不安を感じやすい。
 それは太陽の光溢れる夏があまりに短く、冬がとっても長い気候に関係している。
 …と書かれた本を読んだことがあり、私のアフロディーテ像に大きな影響を与えました。
 もちろん、北欧の人全員がそうではないのだろうけれど。





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