Shalimar tea






 血のような赤い果肉のオレンジを一山、ムウは果物屋で買い求めた。
 時計店のショーウインドウには金色や銀色の商品がいくつも陳列されており、ムウはその無遠慮なまばゆさを不快だと思ったが、幾度となく同じ舗道を歩いていても普段は何も感じないのだし、そもそも聖衣を扱う自分が金属の色に目を刺されるなどありえない、やはり熱が上がってきているのだと、何か悲観的な気分にもなってきて、ふらふらとアパートまで辿り着く。
 数ヶ月前からムウはこの部屋を借りていた。非番の日、特に連休の間、身心ともに寛ぐためには聖域を出る必要があると気が付いたからだ。
 孤独に耐え得る自己の性質には早くから気付いていたムウだったが、むしろ孤独を好む傾向があると自覚したのは最近のことだ。それが聖域を離れていた間に形成された志向なのか、もともとそういう部分があったのかはよくわからない。
 鍵を差し込もうとするとドアは既に開いていた。今の自分の体力では空き巣狙いとの格闘は無理だ。或いはもう、荒らすだけ荒らして立ち去った後かもしれない…ムウの頭の中を不吉な予感が駆け巡る。
 まあいい、大事な物は全部白羊宮だ。金目の物が見つからなくて気が立っている泥棒と鉢合わせしたら、このオレンジを渡して許してもらうことにしよう。いや、一緒に食べてもいい…。
 覚束ない足取りでムウは居間へ入った。シャカが所在無げにたたずんでいた。
「おかえり。随分ゆっくりだったな。」
「ああ…なんだ、君だったのか…。」
 ここを借りる前、聖域以外の場所に住まうなどもってのほかだと一部から非難を浴びた。余暇の過ごし方は自由なはずだと主張するムウをシャカが後押しした。郷里への帰省や宿泊施設への外泊は構わないのに、なぜアパートではいけないのか。
 ムウはシャカに合鍵を渡した。恩義を感じたからではなく、そうするのが自然なように思えたからだ。ただしシャカは、いつでも好きに出入りして良いと言われたにもかかわらず、ムウが来ている時だけしかここへは来なかった。
 特に何をするわけでもない。それぞれが読書に耽ったり、バルコニーで日に当たったり、文字通りただ時間を「過ごす」だけだった。シャカがどういうつもりでここに来るのか、自分と同じように聖域から脱出したい願望があるのかどうかムウは深く尋ねなかったが、独りになれる環境を求めていたムウにとって、シャカの存在は不思議とそれを妨げないのだった。
 「風邪をひいたらしい。これ、オレンジ…食べたら寝る。」
ムウはソファに足を投げ出して座り、抱え込んだ紙袋の中を探った。旬を外れた安価なブラッドオレンジは、薄い紙袋いっぱいに詰め込まれていて、熱のせいで感覚の鈍ったムウの手が少し乱暴にそれを取り出そうとすると、袋の口は容易に破れて広がり、そこから飛び出した果実達はゴトンゴトンと音をさせて床に落ち、シャカの足もとまで転がった。
 シャカはオレンジを拾いながら言った。
「紅茶に入れよう。作ってやるから、ベッドで休んでいると良い。」
けれどもムウは寝室には行かず、そのままソファに横になると、すぐ前のテーブルに数冊重なる雑誌の中からシャカが持ち込んだらしいグラフ誌を取り上げ、見るともなしにページを繰った。そのうち地面に唐辛子を広げて干す俯瞰写真が現れて、その濃い焦げ茶色の上に無数に散らばる赤い点は、ムウの脳裏でチカチカと点滅し、どんよりとした頭痛を誘ったが、やがてキッチンから流れ始めたオレンジの香りがそれを和らげ、ムウは本を閉じて新鮮な香気に身を任せた。
 果汁を混ぜ込んだ紅茶がシャカによって運ばれてきた。
「さっきより顔が赤い。私が来なければ、君、大変だったな。」
シャカはムウを一瞥して呟く。ムウは身体を起こして座り直し、熱い茶を冷ますべく、オレンジの輪切りが浮かぶ茶碗の中で匙を回した。その弱々しい手つきを見て、シャカはまたも小言のように呟く。
「体力を過信してはいけない。早めに助けを呼ぶものだぞ。何でもひとりで出来ると思うな。」
「出来る!何でもひとりでやってきた。」
反射的に、ムウは語気荒く言い放った。シャカは黙って紅茶茶碗に口をつけた。数秒もたたぬうち、その言葉はムウ自身によって訂正された。
「…いや、そうでもない…。」
 しばらくふたりは無言で茶を飲んだ。ムウは暑くなってきたのでセーターを脱ぎ、薄手のシャツだけになった。そして力なく立ち上がり、湯気が立つほど上気した身体を引きずるようにして寝室へ向かった。
「こじらせる前に聖域へ戻ってはどうだ。」
シャカの声を背に受けて、ムウは自嘲気味に言い捨てた。
「休みぐらい自由にさせろと啖呵を切って出てきたのに…風邪をひいたから、誰かに看病して欲しくて帰ってきましたなんて言えるか!」
 それからムウは、狭い寝室のドアを押すとすぐにベッドに倒れ込んだ。
「充分休みたまえよ。次の薬の時間には起こしてやるから。」
ドアを開けたままにしているため、居間にいるシャカの声は枕元までよく通った。
「夕食は私が用意しておく。簡単なもので良いな。」
「あー…ありがとう…助かる。」
 そう言った後で、ムウは、枕にくぐもった自分の声はシャカに聞こえなかったのではないかと思った。しかしわざわざ言い直しはしなかった。シャカは雑誌を読み始めたらしく、紙をめくる音と、コポコポと茶碗に茶を注ぎ足す音がした。オレンジの香りも届いた。











 20090615






 シャリマーティー…オレンジスライスを浮かべた紅茶。
 果汁を加える、果肉も入れる等、いろいろ作り方があるようです。





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