やさしい手






 ニヤニヤしていると思ったら、ついにムウは声に出して笑い始めた。
「何だ、思い出し笑いなんかして。」
シャカの言葉にムウは、気を紛らわすようにひとつ咳払いをした。それでもまだ忍び笑いが漏れる。
「感じが悪いぞ。何がおかしいのか言いたまえ。」
やや強い調子で咎められ、ムウは無理やり真面目な表情を作った。膝に広げた布でいったん口を押さえてから水を飲み、わざとらしく低めた声で話し出す。
「さっき古い日記が出てきて…読み返していたら、自分の幼さがおかしくて。」
「日記をつけているのか?」
「小さいときの話だよ。シオン様と、交換日記みたいなことをしていた時期があって。」
「微笑ましい師弟関係だな。」
「茶化すようなことではない。連絡帳が必要だったのだ…昔から忙しい方だったし。」
 既に会食は始まっていたが、ざわついた室内には、シオンの煙管より流れ出た煙が未だに充満していた。
「食前の喫煙…何とかならないものか、まったく…。」
忌々しげな口振りのムウに、シャカはかすかな違和感を覚える。
「悪い習慣だ。こんなに離れた場所にまで届くのだから、周りに座る者はさぞ…」
煙の主は恐れ多くも教皇。いつになく止まらない悪態をシャカがたしなめる。
「毎度のことではないか。」
「そう、毎度のことだ。」
いつもそうなのだあの方は、とムウは嘆息しつつ繰り返した。
 広間の後ろの扉が控えめに開き、貴鬼が顔を覗かせた。ムウはすぐに気付き、スプーンをブイヨンカップのソーサーに置くと、軽く頷いた。貴鬼は目立たぬよう入ってきて、下座にいるムウの傍らまで足早に歩み寄り、何事か耳打ちする。ボソボソと二言三言交わした後、「あー…そうだった…。」と呟いたムウは、天井を仰ぎ、それきり黙ってしまった。貴鬼は返答を待ち、師の顔をじっと見詰めている。
 修復を担う者はつくづく大変だと思いながら、シャカは向かい合った席からその様子を眺めていた。いつの世も現役修復師はただ1人きりと決まっており、しかもムウは黄金聖闘士の職も兼ねている。使いものになる弟子を持っているからまだいいが、そうでなければ依頼が集中した日には体が幾つあっても足りないだろう。
 暫しの黙考を終えたムウは、貴鬼に早口で指示を出した。シャカの耳にもその内容は断片的に入ってきたが、専門用語だらけで意味はほとんどわからなかった。貴鬼は安堵の表情を見せ、来たときと同じく、飛ぶようにして部屋を出て行った。
 ムウは扉が閉まるのを見届けると、やがて話題を戻した。
「君のことも日記に書いてあった。」
シャカが皮肉な笑みを浮かべる。
「どうせ変なことだろう?」
「そんなことはない。」
 新しい皿が上座から順に運ばれ、給仕係が末席まで来たとき、ムウは料理を断ってレモン水を頼んだ。
「もう終わりなのか。」
シャカが訊く。ムウは肩をすくめて苦笑いする。
「疲れた顔をしているな。」
「この2日間ろくに眠っていない。」
「そんなに忙しいのか。」
「1体だけ…ちょっと難航している。」
そう言えば、心なしかやつれたようにも見える。シャカは先刻の貴鬼とのやり取りを思い出した。
 グラスに口を付け、ムウはごくごくと音を立ててレモン水を飲み干した。この人の場合、雑な身のこなしが濃い疲労を意味することを、シャカは知っていた。
 はあっと息をついたとき、氷がガランと大きな音を立てた。手の甲で口を拭う。宙の一点に固定された焦点の合わない瞳。ああ、疲れているのだ、とシャカは思う。
 「このごろ、手で食事をしないのだね。」
唐突なムウの問いだった。シャカは少しの間考えてから答えた。
「言われてみれば、確かにそうかもしれないが…。」
「何か理由でも?」
ほうれん草のパイにナイフを入れながら、シャカは淡々と応対する。
「別に深い意味などない。手食に向かないものが多いだけだ。」
「ふうん…。」
 沈黙が続いた。ぽつりとムウが言った。
「シャカ、手で食べてみせてくれないか。」
「……?」
「頼む…。」




 今日の昼食会で、あのいつもねむそうな顔をしている子が向かいにすわりました。
 話しかけてみたけれど、はっきりした返事はなくて、ぼくはがっかりしてしまいました。ここへ来てからまだ話をしたことがないのは、おとめ座のあの子だけだからです。
 食事がはじまってぼくはびっくりしました。おとめ座は、ナイフもフォークもつかわずに、手で食べているのです。
 ぼくはおぎょうぎがわるいと思いました。でも、きっとこれは、いつもシオン様がおっしゃっている「文化のちがい」によるものなのだろうと気がつきました。
 だんだん、おとめ座は手で食べるのがじょうずだなぁと思うようになりました。
 そして、だいじにだいじに少しずつ指先でつまんで口の中へ入れているところが、とてもきれいでやさしげで、ぼくはいつもガブガブ食べるのがはずかしくなりました。
 手でごはんを食べるなんて、ぼくは今までやばんだと思っていたのです。
 見ているうちに、なんだかうれしくなってきました。手で食べることがあんなに美しいなんて、ぼくははじめて知りました。
 シオン様はいつもぼくにカトラリーは正しくつかえとおっしゃいますが、ぼくもこんどは手で食べてみたいと思いました。あの子がとてもしあわせそうに、おいしそうに食べるので、まねしてみたくなりました。
 それに、なんでも全部きれいに食べるのです。えらいなあと思います。ぼくはのこすことが多いけれど、こんどからはおとめ座を見ならって、全部食べられるようにがんばろうと思いました。











 20040603






 「手食って美しい!」と思わせてくれる人にときどき出会う。
 でもきっとその人は、箸食でもカトラリー食でも、やっぱり優雅に食べるんだと思う…。





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