(3)燕子花






 聖闘士の存在を知った日を境に、世界はガラリと変わった。
 どうにもならないという諦めで固く塞がった俺の心に、ぽつりと風穴が開けられた。錐の先でつついただけのような小さな穴だったけれど、ひゅう、と空気が通る音を聞いたとき、ああ何とかなるのかもしれないと思った。
 未知なるものへ恐れを抱く余裕などなかった。これしかないと思った。誰かが止めたかもしれない。よく覚えていない。何と言ってあの場所を出たのか、断って出て来たのかどうかさえ定かではない。
 混沌とした日常。あそこで生活していた頃のことはあまり思い出せない。記憶の全体の輪郭を浮かべることは可能だが、ひとつひとつの出来事を引き出すのは難しく、漠然と幸せではなかった気はしても、では具体的にどんな不幸を体験したのかと問われれば、俺は返答に困るだろう。
 けれど抜け出したいという願いを常に抱いていたのは確かだ。それは単にあの道場を出たいという意味ではなく、既に定まりかけている運命の枠から外れたいという願望だった。それを実現させる手段を思いつくだけの知恵も力も持たず、諦めることばかり上達してしまった俺に、あの日迎えの車がやって来たのだ。
 聖闘士になってどうするとか、なれなかった場合はどうなるとか、先のことは深く考えなかった。何がどうなったとしても、少なくとも今より悪くはならないはずだ。そう信じて車に乗ろうと決めた。
 窓の景色はいつもの道路から見知らぬ町並みへと移ろい、眺めながら俺は、新しい環境で変わってゆく自分の姿を想像していた。
 聖闘士になる。強くなる。
 強くなれば幸せになれる。
 幸せって何なのか。どういう状態が幸せなのか。それを想像出来ないことに気付いて、初めて悲しいと感じたのもあの車中だった。俺の記憶の始まりに親の姿は既になく、俺自身が、身寄りがなくて他人の家に置いてもらっている子供としての自分しか知らない。
 とにかく強くなりさえすれば、全てうまくいく。
 いつしか、強くなることが俺にとっての最大の望みになっていた。五老峰へ渡り老師にお会いするまでは。聖闘士が存在する意味や、正義について教えていただくまでは。




 「紫龍、具合が悪いの?疲れたの?」
貴鬼に問われ、俺は現実へ引き戻される。
「いや…どうして?」
「ずっと黙ってたから。」
相変わらず身の回りのことは貴鬼が世話をしてくれている。世話と言っても、だいぶ何でも自分で出来るようになっているから、俺の話し相手になってくれていると言ったほうが正しい。ムウはもうこの部屋に姿を見せない。あの日はたまたま、使いに出ていた貴鬼の代わりに来ただけだったと後で知った。
「大丈夫だ。今朝は目眩もないよ。」
そっか、と貴鬼は頷き地図帳をめくった。「中国西部」と見出しの付いたページが開かれる。
「紫龍。日本ってどの辺?」
「もっと先だよ。ここはまだ中国だ。」
西蔵自治区の西の果て。一面茶色の地勢図。
「ほら…ジャミールがこの辺りだろう…」
俺が指差すひときわ濃い茶色をした部分にたいして興味を示さず、貴鬼はすぐに顔を上げた。
「ねえ、日本ってどんなところ?」
「この辺みたいに高い山はないな…あと、細長い島国だから、ちょっと行けばすぐ海に出る。」
「海かぁ…おいら、まだ見たことないんだ。」
貴鬼は遠くを見るような目つきで言った。
 俺は、海をどう説明しようか迷った。水の色は青くて…いや、違う。水たまりを大きくしたような?…まるで子供だましだ。川よりも魚が美味しい。…そういうことじゃないか。
「でもね、ムウ様がよく話してくれるから、見たことないけど知ってるよ。」
いい表現を見つけられず悩んでいるうちに、得意そうな言葉が聞こえてくる。
「ムウ様は物知りだからね。修復だけじゃなく、いろんなこと教えてくれるんだ。何でも出来るしすごいんだよ、ムウ様は…」
師がいかに博識であるかを語る貴鬼は、いつも誇らしげだ。




 「聖闘士になるために直接必要な知識ではないのだが」と前置きして、老師は色々な話を聞かせて下さった。どれもこれも面白かった。本もたくさん与えてくれた。見聞を広めよと口癖のように老師はおっしゃった。必要なのは強さだけではないと、だんだん俺はわかってきた。ぐん、と世界が広がる気がした。
 心にゆとりが生まれた俺は、生きる喜びや楽しさを覚えた。ただ空を見上げたり散歩をしたりするだけでも、心躍る瞬間があるものなのだと初めて知った。例えば木の芽が膨らんできたとか、今日の風は昨日の風より柔らかくて気持ちがいいとか、そんな小さなことがいちいち嬉しかった。
 いくつもの四季が穏やかに流れた。訓練と学習。その合間の優しい時間。こういう生き方を知っていれば、道場で暮らしていた頃ももう少し楽しかったのかもしれないと、俺はときどき思った。だけど戻せない年月を恨めしいとは少しも思わなかった。今が満たされているのだからそれでいい。俺は不思議と過去に寛容になれた。それこそがまさに「幸せ」と呼ぶべき状態なのだと気付かぬうちに、俺は聖闘士になる日を迎えた。




 地図帳をケースにしまいながら貴鬼は言った。
「ムウ様が、気分が悪くなければ少し歩いてみなさいって言ってたよ。」
ケースの背に竪琴のマークが付いている。どこか見覚えのある装丁だとずっと思っていたら、道理でこの地図は、老師がお持ちの植物図鑑と同じ出版社のものだったのだ。英語で書かれているが、これはギリシアの本だ。
「平気そうだったら下へ行ってみない?」
「けど…この建物には階段がないんだろう?お前、そう言っていたじゃないか。」
そう指摘すると貴鬼はペロリと舌を出した。
「そんな馬鹿なことある訳ないだろ…嘘だよ、ウ・ソ!」
もっともムウ様もおいらも階段なんて滅多に使わないから、埃だらけだよ…愉快そうに言って、ベッドの下へ靴を揃える。
 何日ぶりかで俺はまともに歩く。貴鬼の不思議な力の助けを借りずに。
 部屋を出て手洗いを通り過ぎると、壁に埋もれるようにして目立たぬ引き戸があり、開けると急な階段が出てきた。
「ゆっくり、ゆっくりー!転んでも知らないからね。」
「平気だよ。」
もし弟がいたらこんなふうに会話をするのだろうか。




 自分がいかに恵まれた環境で修行していたかを思い知ったのは、日本へ戻りかつての仲間達と再会したときだ。
 得意になって修行中の苦労をひけらかす者達がいた。規定の練習量をこなさなければ師に鞭を打たれ、罰として食事も与えられず、過酷な訓練に明け暮れるだけの日々。死ぬ思いをしてようやく聖闘士になったのだと話す。
 厳しい訓練を乗り越えて聖闘士になったのは皆同じなのに、馬鹿馬鹿しいと聞き流していた。どうせ誇張して話しているのだろうとも思った。ところがだんだん、彼らの修行生活にはただ辛いだけの思い出しかないのではないかという気がしてきたのだ。
 6年前のあの日、聖闘士になるべく城戸邸から世界中へ散って行った孤児達の中で、俺ほど肉親と縁の薄い者はいなかっただろう。親の死に目をはっきりと覚えている者、兄弟と生き別れになった者、兄弟と一緒に城戸邸に来た者…誰もが何らかの形で心の中に家族との繋がりを持っていた。
 争うように苦労自慢を続ける旧友達を見て思った。世の中は案外、平等に出来ている。五老峰での毎日は、老師の温かい教えと春麗の笑顔に満ちていた。親兄弟の絆と無縁の俺を、何かが、誰かが哀れんで、埋め合わせをしてくれたのかもしれない。理不尽な境遇に閉塞感を持ちながら過ごした日々がすっかり遠のいた俺は、のうのうとそう思ったのだ。
 そして、こういうふうに考えてしまう自分は嫌な人間かもしれないと、ちらっと思った。ささやかな幸福に飽き足らず、血の繋がった家族の存在になお憧れて止まない己の欲深さをも、本当は自覚していたからだ。




 階段を下りたすぐ前は、狭い書庫のような部屋だった。
「これ、戻しておかなきゃ。」
地図帳を抱えた貴鬼が先になって進んだ室内には、天井まである書架が四方に据えられ、びっしりと本が並んでいた。一番上の段に細い空間があり、そこがこの地図の定位置らしい。
「届かないだろう?脚立は?俺が…」
貴鬼の身長でその場所へ収めるのは無理だと思い、俺はそう申し出た。しかし貴鬼はニッと笑って首を横に振り、本を持ったままふわりと宙に浮かんでみせる。
「あ、そうだった…便利だな、その力。」
ヘヘェと笑って貴鬼は、空中でくるりと回転した。
 書架に入りきらない本が床の上に積み上げられている。ギリシア語の表題。崩れそうに飴色の背表紙。古い紙の匂い。高い本棚。老師の書斎と雰囲気が似ている。大きく違うのは、ここには踏み台や脚立の類がないことだ。
 ジャミールへ来て以来、不思議なことばかりに遭遇する。特殊な能力を持つ人々がいると話には聞いていたが、実際目の当たりにして初めは面食らった。
「本を移動させるより、自分が浮いたほうが楽なんだよ。力加減もしやすいしさ…」
こっちが聞く前に貴鬼のほうから説明してくれるので、大方の疑問は解消するのだけれど。




 小さな窓から陽が射す。光の道筋に塵が踊る。
 塵をつかまえようとしたある朝のことを思い出した。両手で挟んで閉じ込めようとしても、指先を丸めて空気ごとすくおうとしても、捕らえることは叶わず、寝床から腕だけ伸ばして仰向けに、光の中をキラキラと漂う物体を見つめていた。
 あの朝はどの朝だったか。城戸邸か。道場か。もう、五老峰にいたのか。
 「紫龍。紫龍。大丈夫?」
貴鬼に腕を揺すられる。
「よくボーッとするね。やっぱりまだ寝ていたほうがいいね。」
本当にどうしたのだろう。今日は調子が良いと思っていたはずなのに、意識が体の外へ飛ぶような、気が遠くなって過去へ引き戻されてゆくような、そんな奇妙な錯覚をときどき起こす。
「ムウ様に眠り飴もらってきてあげようか。」
 この間、貴鬼がいなかった日、ムウの前で俺はしゃべりすぎた。何を言っても頷きながら聞いてくれるので、調子に乗った俺はつい余計なことまで話しすぎてしまった。
 老師の知り合いだとわかって緊張が緩んだのかもしれない。変な気分だった。嬉しいようなずっと聞いていて欲しいような、子供じみた気分になった。兄がいればこんな感じだろうかと思った。
 ムウが身に纏う甘く柔らかい香りは、何故か俺を安心させた。帰りを急ぐやるせなさが紛れた。眠り飴を口に入れてもらって、声がだんだん遠くなって、心が平らになって、とてもいい気持ちで、……
 鼻先を同じ香りが掠めた。いつの間にか隣にムウが立っていた。
「あ…終わったのですか!聖衣…!」
頭で考えるより早く口が動き、言葉が飛び出した。自分でもびっくりする反射だった。ムウは急に声を掛けられたのに驚きもせず、軽く笑った。
「もうすぐですよ。ペガサスもドラゴンも、あと少し。」
今度こそ本当にね、と付け足して微笑む。光が当たって、茶色い髪の表面が金色に見える。貴鬼と同じ緑の目。チベット族の風貌ではない。
「ムウ様。もう寝室へ戻って、紫龍を休ませようと思います。」
貴鬼がハキハキした口調でムウに告げる。
「ここまで歩いたときは大丈夫だったんですけど、紫龍はときどきぼんやりします。」
いつもこうして真面目な顔で、俺のことを報告しているのだろうか。
 ムウは俺の手を取り、両方の爪の色を何度か見比べた。
「心配いらないでしょう。でも、今日はもう横になるといい。眠らなくてもいいから。」
そして部屋をぐるりと囲む書架を示して言った。
「紫龍、退屈だったら本を読みなさい。どれでも自由に読んで構いませんよ…貴鬼もだよ、本をたくさん読むのだよ。」
はぁい、と貴鬼は返事をした。それがいかにもうんざりした調子だったので、俺はおかしかった。師というものは、必ず弟子にそう教える決まりでもあるのだろうか。老師もいつもおっしゃるのだ。本を読め、本を読めと。
 俺は読書は好きだけど、貴鬼はどうやら違うらしい。ムウは続けた。
「貴鬼、よく覚えておきなさい。何か困ったことが起きたとき、本は自分を助けてくれるからね。」
本当に老師と同じことを言う。
 だけどこの人は、俺の師でなければ兄でもない。人生のほんの一瞬、通りすがりの人なのだ。











 20041214




 (4)へつづく





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