跡形






 久し振りに訪れるジャミールには、秋の風が吹いていた。
 紫龍はバックパックを背負ったまま、ぐるりと部屋の中を見回した。
 そうそう簡単には来られないが、もう幾度となく通っているこの家。机も椅子も絨毯の柄も、他人の家のよそよそしさより、なにか、たまにしか戻らない実家へ帰省したときのような懐かしさを紫龍に与える。
 「荷物下ろして座ったら?」
ムウに椅子を勧められた。けれどもすぐには腰掛けず、しばらく紫龍はキョロキョロと辺りを「点検」していた。
 壁のキズ。そのすぐ脇に温度計。棚に並んだ茶碗と魔法瓶。
 何も変わっていない、と紫龍は思った。安堵とも喜びともつかぬ感情が湧き、旅の疲れがいっぺんに吹き飛ぶ気がした。
 椅子に掛け、紫龍はバックパックを開いた。
「お茶と…酒と……これは干し杏、貝柱……枸杞の実…腸詰め…」
ひとつひとつ確認しながら、机の上に品物を並べてゆく。
「いつも色々持って来てくれるけれど、そんなに気を遣わなくてもいいのだよ。」
「気を遣っているわけではありません。老師が持って行くようにとおっしゃるし…ああそうだ、これ…」
次から次へと土産を取り出し、最後に置かれた平たい箱は、角がひしゃげて一部包装が破れ、紫龍が歩いてきた長い道のりを思わせる。
「貴鬼は?出かけているのですか?」
「知り合いのチベット医のところへ。薬の勉強をしに行っている。」
「じゃあ、戻ってから渡そう。」
荷物の中へ戻そうとする手を押し止め、ムウは箱を取り上げた。
「これを貴鬼に?」
「頼まれていたんです。もし覚えていたら買って来てくれって。」
「そんなことを?しょうがないな。」
苦笑いしながら、ムウは自分のことのように礼を言う。
「きっと喜ぶだろう。ありがとう。世話をかけたね。」
一瞬貴鬼に羨望を抱いてしまったことを恥じて、紫龍は下を向いた。




 ムウの心音を聞きながら、夏の間に使っていたらしい花ござが丸めて壁に立てかけてあるのを、紫龍は見ていた。
 パサついた髪の触感を頬に受けながら、先刻安堵した同じ室内とは到底思えぬ他人行儀な冷たさを、やるせなく凝視していた。
 見覚えのない文鎮。新しいペーパーナイフ。状差しに入った手紙の束。
 立て続けの「新発見」は、指で髪を梳かれる甘美な安らぎも、首すじを撫でられる切ない昂まりをも打ち砕き、紫龍はその都度、空白を埋められぬ苛立ちに耐え、きつく目をつぶる。
 それでも、長椅子の軋みが伝わる毎に、あの秘めやかなる夢心地に誘われる。ムウから香る白檀が柔らかく紫龍を包み、まぶたの裏に明るい光の輪を感じて目を開ければ、うすい苔色の瞳が待っていて、それは紛れもなく、紫龍が求めてやまなかった愛しい面影そのものなのであった。
 紫龍は考える。
 距離と時間に隔てられた恋人同士は長く続かないとよく言われるけれど、実際、それだけの理由で冷めるなど有り得るのだろうか?
 どんなに大きく心を占める存在でも、会わないことのほうが日常になれば、次第に色が褪せるのかもしれない。希少な非日常に憧れていたとしても、人は結局、空気のように流れる日常を守ろうとするし、愛そうとするものなのかもしれない。
 自分は違う。
 「ムウ!」
突然跳ね起き名を叫ばれ、ムウは驚いて紫龍の顔を見つめた。
「何?」
「あ、いや…ええと……」
思わず名前を呼んでしまっただけの紫龍は、急いで二の句を探す。
「貴鬼は…貴鬼はいつ帰るのですか?」
「どうして?」
「それは…早く渡したいと思って。」
目で机の方向を示すと、ムウは、ああ、と頷いた。
「来週か再来週。薬草採取の旅に同行しているから。」
えっ、と小さく叫んだ後、紫龍は呟いた。
「なんだ、じゃあ、会えないかもしれないのか…。」




 ムウの手が頬に伸びる。睫毛に触れ、唇にも触れ、そのうち再び全身を抱え込まれて、紫龍は衣擦れの中に埋もれる。
 耳元でムウの声がする。
「さっき嬉しそうな顔をしたね。」
「さっき、って?」
「貴鬼がしばらく戻らないと言ったとき。」
耳によく馴染んだ、心地良い声である。
「してません。してない。」
「したよ。」
 戯れの囁きはやがて途切れ、ムウは紫龍の袖を緩めて手首に口づけた。幾筋もの電流は鮮やかに紫龍の体を走り、行き着く場所へ集まって凝(こご)った。
 目眩にも似た浮遊感。紫龍は急な流れに放り出される。
「君が来ていると知らせれば、すぐにでも戻るだろうけれど…」
ムウが腕を差し出す。
「呼んだほうがよければそうするよ。」
紫龍は答えず水底を蹴り、つかまった腕の隙間から部屋の様子を窺う。そして深い満足のもとに瞳を閉じる。
 壁のキズ。温度計。棚に並んだ茶碗と魔法瓶。
 見覚えのない文鎮。ペーパーナイフ。手紙の束。
 中身が半分だけ残った紹興酒の瓶。飴の空き缶。春の終わりに自分が来た名残。
 手首の傷跡を確かめる眼差し。
 まぶたを閉じる前に見たものを、紫龍は順番に数えた。温かい指先が襟元から入り込み、無意識に首をすくめたとき、心配いらない、とムウの声が聞こえた。











 20061013






 ウチの紫龍は毎度自力でジャミールまで来ています。
 元気だなぁ〜。愛ゆえ若さゆえなのです。





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