夏の終わりのバスローブ






 「老師に何と言って出てきたの?」
不意に体を回転させられ、紫龍はよろけた。ハイしっかり立っていて、と声を掛け、ムウは紫龍の腰に紐を回す。
「白羊宮へ行ってきます、って。」
「そうか…。」
交差してギュ、と締める。結ぶ。結び目の先を中に押し込む。
「あの…まずかったでしょうか。」
「いや、まずくはないけど。」
 ページをめくると、次に使う小物の拡大写真が出ていた。同じ形の布を探し出し、ムウは手に取り本と見比べる。
「『伊達締め』、これだな。使ったほうが着崩れしにくいらしい。」
腰骨を締め付けられる感覚。くすぐったくて紫龍は無意識に身をかわそうとする。
「あー、浴衣なんて初めて着るから変な感じがします。」
フラリと揺れた体をムウの両手が支えて正す。
「ほら動かないで…私は見るのも初めてなのに、こうして図解と首っ引きで着せているんだよ?」
床に広げられているのは図書館から借りた本。表紙には『東アジアの衣食住』とある。
「だってそれは…訳してもらうより、読める人に着せてもらったほうが早いと思ったから。」
紫龍がややむきになって言ったのを、ムウは微笑ましく聞いていた。
「ギリシア語は難しくて。」
「フフ、どうなっても知らない…。」
 涼しい風がひとすじ吹き込む。いつしかセミの声は止み、入れ替わるようにコオロギが鳴き出していた。
「あ、ここのは白い。」
窓のすぐ外に咲く花を見つけ、紫龍は独り言を呟いた。宵の訪れを待って開くこの小さな花は、聖域の至る所に自生している。
「オシロイバナ?」
巻きつけた帯をくぐらせながら、ムウが聞き返す。
「そう。天秤宮にはピンクと黄色しか咲いていないんです。それで老師がいつも…。」
途中で紫龍は言うのをやめた。その胸中を推し量り、ムウは複雑な思いに駆られた。
 いつか真正面から考えなければならない問題だということは、ふたりともわかっている。先延ばしにしている自覚があるだけに、多分余計な痛みを抱え込んでしまっているのだろうということにも気付いている。
 カゲロウが1匹、パタパタと部屋の中を飛んでいた。目で追いかけながら、紫龍はじっと立っていた。
 帯が結び上がった。
「こんな感じでいいのだろうか?」
鏡に映した紫龍はパッと顔を輝かせる。
「うん、いいです。わ…ほんとに浴衣だ!」
嬉しそうに何度も鏡の前で回る姿を、ムウも目を細めて眺める。その頭にカゲロウがとまるのを見て、紫龍はつまみ取ろうと指先を伸ばす。
「何かついている?」
察して屈んだムウに聞かれ、紫龍は必要もないのに声を潜めた。
「シッ…ここに…カゲロウが…。」
「カゲロウ…。」
この小さくはかない虫を捕らえようとしている指を、ムウは柔らかく遮った。
 紫龍の髪の毛は着付けしやすくまとめられていたが、幾房かほぐれて肩へ落ち始め、今は中途半端な状態でクリップが引っ掛かっているだけだった。
「好きにさせてやればいい。短い命なのだから。」
クリップを外し、ムウは手櫛でとかしてやる。青磁色の細かい縦縞の上に、漆を刷いたごとく広がる黒髪。光沢のある長く美しい髪。
「紫龍。」
「はい。」
「老師にお話ししようかと思っている。」
「………。」
 カゲロウが飛んで行った。けれどふたりはそれを知らなかった。




 トントントン。




 扉を叩く音がして、紫龍がピクリと反応する。音は2度、3度と続き、聞こえていないはずはないのにムウは動き出そうとしない。こめかみから頬骨へ唇が滑り降りたとき、紫龍はつかまっている背中を軽く揺すった。
「気にしなくていい。時間外だ。」
耳の脇に穏やかな声を聞き、思い直して目を閉じるのだが―。
 トントントン。トントントン。
「ずっと叩いている…きっと、居留守だとわかっているんだ…。」
上の空の口調。せわしなく瞬く睫毛。
「急用だったりして…。」
こういう状況で集中出来る紫龍ではないことをムウはよく理解していて、不本意ながらも戸口へ向かわざるを得ない。
 見当はついている。壮大で上質なこの小宇宙。
 案の定、そこには数時間前まで慰問を組んでいた聖闘士が立っていた。
「シャカ…。」
細く開けた扉越しに、ムウは淡々と応対する。
「悪いが今日は早く休みたいのだ。込み入った話なら明日にしてもらえると…」
「さっき村で借りた小銭を返しに来た。」
シャカは財布を覗き込み、硬貨を選り分けて取り出した。
「ああ…次に会ったときでよかったのに。その為にわざわざ?」
慰問の帰り道に立ち寄った小さな食料品店で、たまたま紙幣しか持たないシャカに小銭を貸したことをムウは思い出した。
「金銭の貸し借りにルーズになってはいけないからな。さあ、遠慮なく受け取りたまえ。」
それはどうも、とムウはきっちりジュース1杯分の硬貨を受け取った。まるで礼を言って金をもらうような構図が少々腑に落ちなかったが、基本的にシャカの言っていることは正しい。
 おやすみ、と言ってさっさとこの場を切り上げてしまいたいムウだった。出来れば早く帰って欲しい。しかしシャカは一向に立ち去る素振りを見せない。
「まだ何か…?」
シャカの視線が自分を通り越したところに向けられている気がして、ムウは振り返った。いつの間にか紫龍が立っていた。
「シャカ、こんばんは。」
真面目な紫龍は頭を下げて挨拶をする。
「うむ。こんばんは。」
長い付き合い。礼儀正しい人間を好むシャカの性格をムウは熟知している。
「今着ているそれは、日本の民族衣装かね?」
「はい。」
「『キモノ』という衣服ではないか?」
「ええと…『浴衣』です。」
何やら会話が弾んでいる。シャカが折り目正しい紫龍に好印象を持つのは当然としても、意外に紫龍も楽しげな様子。
 行きがかり上、ムウはシャカを中に招き入れることとなった。




 居間に通されたシャカは、床に投げ出された本と風呂敷の上に散らばる紐を見て、納得したように頷いた。
「そうか、君はこの本を見ながら着たのだな。」
「いえ…自分で着たのではなく…」
言い淀んだ紫龍の脇からムウが口を挟む。
「私が着せた。紫龍はギリシア語を読めないので。」
何となく気恥ずかしく思われて紫龍は俯いた。つられてムウが、前髪を触りながら落ち着きなく視線を動かした。滅多にないことだけれど、それが照れたときのムウの癖だとシャカは知っている。
「本を見なければ着られないほど、難しいのかね?」
話の流れが若干変わり、紫龍は少しホッとする。
「難しいと言うか…ほとんどの日本人は洋服で生活しているので、機会がなければ、こういうものの着方は知らないままです。俺も今日初めて着たのです。」
なるほど、と相槌を打った後、シャカは急に思いついたように言った。
「そうだドラゴン、上のほうへ見せびらかしに行ってはどうだ?カミュやディーテさんなど、エキゾチックだと言って大騒ぎするぞ。」
紫龍はいいえ、と首を振った。
「これは…今では夏に着る伝統衣装のようになっていますけれど、もともとバスローブみたいなもので…だから、あまりきちんとした場所へは着て行けないのです。」
「バスローブか。それでは遠出は無理だな。」
 ムウはテーブルの上の、桃が入った籠を引き寄せる。
「シャカもどうだ?さっき村でもらった桃だ。」
時々、慰問先で寄進を受けることがある。それが花や食べ物の場合、聖域に持ち帰り届け出をした後は、受け取った聖闘士が引き取る慣例になっていた。
「君は桃だったのか。私は、開けてみたら梨だった。」
シャカが小声で呟く。
「梨よりも、桃のほうがいいな…。」
「おお、何ということを。この罰当たり聖闘士!」
顔を見合わせてニヤリと笑う。前はこんな場面にいちいち驚いていた紫龍も、一緒になって笑った。
 近くの果樹園で収穫された白桃は、皮は薄く産毛も柔らかく、丸齧りするのに適した品種だった。軽く歯を立てただけでも果汁がほとばしり、熟れた果物の甘い香りが辺りに広がる。
 紫龍はひと口齧り、着慣れない浴衣の袖をバサバサと扱いかねて、手のひらを伝う果汁に慌てた。
「どれ。」
ムウが袖をたくし上げる。当然のようにムウはそうしたし、紫龍も当たり前の顔でされるがままになっていた。
 それはふたりが共有する日常を思わせる動作の流れだった。手首へ落ちる桃の雫を舌で舐め取ったのも、舐めやすく腕を差し出したのも、居合わせる者の存在を意識しないごく自然な一連の動きで、だからシャカは見ないふりをする時間を与えられず、まともに目撃することとなってしまった。
「…あ、」
ムウも紫龍もようやく気付くが、シャカが平然としている分きまり悪さが倍増され、その場に微妙な緊張が走る。
「ちょっと…拭くものを…。」
前髪をかきあげながらムウは立ち上がった。
 後に残された紫龍は、狼狽を隠しきれず顔を上げられない。少々気の毒になり、シャカのほうから口を開く。
「私はそろそろ失礼する。邪魔をしたな、ドラゴン。」
「え…。」
冷や汗をかく紫龍に、シャカはかすかな笑みを向けた。
「いつも後になってから邪魔をしてしまったと気付くのだ。悪気はない。」
 台所から水の音と、茶を煮出す匂いが流れてくる。シャカはソファを立ち、ムウによろしく、と短く告げて部屋を出ようとした。
「いいえ、邪魔ではありません!」
金色の髪を揺らして歩く背を、紫龍の声が追いかける。
「立ち会ってくれる人がいたほうが…」
思いがけない言葉にシャカは立ち止まる。振り向けば、真っ直ぐな視線とぶつかった。
「きっと、ちゃんと誰かに知っておいてもらったほうが…いいんです。」
一途な黒い瞳。黒い髪。青磁色の浴衣。きれいな色合いだとシャカは思う。
「じゃあ、また来るとしよう。フフ…ムウは嫌な顔をするかもしれないがな。」




 白羊宮の前で、シャカと紫龍は西の空に輝く明るい星を見上げる。コウモリが折れ線を描いて飛ぶ。オシロイバナが咲く。虫が鳴く。長い昼が終わって夜が来る。
「老師は…ご存じだと思いますか?」
何を、と紫龍は言わなかった。それでもシャカにはわかっていた。
 暮れて間もない夕闇の中に、シャカの着る白いクルタが浮かぶ。長めの裾が風になびき、伽羅の香りが漂った。
「さて、どうだろうな…。」
紫龍の足下で乾いた音がする。
「まあ、そのうちムウが…何とかするのではないかね?」
シャカは悠長な口ぶりで答えた。紫龍は笑って「ええ。」とだけ言った。
「ところでその履き物、日本のサンダルかね?」
「『下駄』です。」
 もうすぐ夏が逝く。
 ムウとは違う残り香が、紫龍を取り巻いた。




 早番と遅番が交替する時刻を控え、教皇宮の詰め所には幾人もの黄金聖闘士が待機していた。特に禁じられてはいないが、通常私語を交わす者はほとんどいない。
 そんな静けさの中で、今日に限ってやけに口数の多いシャカにムウは閉口していた。
「まだ滞在しているのか…?」
ぴったり隣の椅子に座り、ムウにしか聞こえないぐらいの声でボソボソと話し掛けてくる。
「ええ、いますよ。」
勤務中だし人目もあるしで、ムウは他人行儀である。
「さぞ楽しいのだろうな。フフフ…結構なことだ。」
「………。」
冷やかしなら受け付けないとばかりに、ムウは押し黙る。
「毎日、君が着せてやるのかね?」
「何の話でしょう。」
「あのバスローブだよ。」
「…は?」
「バスローブ。」
意表を突いた単語が飛び出して、思わずムウはシャカの顔を見返す。
「君が、毎日あのバスローブをドラゴンに着せてやるのかと聞いている。」
 シャカの言葉は明瞭に響き渡った。特別大きな声を出した訳ではない。しかしさして広くもない静まり返った部屋の中、突然普通に話すのと同じだけの音量を出せば、嫌でも全員の耳にその内容は入ってゆく。
 呆気に取られるムウだったが、直ちに我に返り、そこにいる全ての人間の視線を一身に浴びていることを認識した。
「……誤解を招くような表現はよしなさい…!」
鋭く言い放ちシャカを睨みつける。が、既に遅く、同僚達の興味本位な質問が降り注ぐ。
「何でもありません。シャカの勘違いです。失礼しました。」
取り乱さず冷静に言い切るムウだった。自分が蒔いた種ではあるけれども、シャカは感心しつつその様子を眺める。
 しかしドアの向こうから、早番を終えた「天秤座」の小宇宙が伝わり始めると、落ち着き払った表情が見る見る崩れていった。




 ああ、ドラゴン。まだ少し時間がかかるらしいぞ―。











 20040825






 キリ番2000・朝衣綾様よりご注文「ムウ×紫龍+シャカでお題『浴衣』」、このような仕上がりとなりました。
 朝衣様、いっ如何でございましょうか…。
 浴衣とバスローブではちょっと使い方が違いますけれど…紫龍はシャカにわかりやすくそう説明したのです。




 <うらばなし>
 髪をほどくくだりで、紫龍に「ムウ…ダメ…っ…せっかく着せてもらったのに…!」とか何とか言わせる方向もチラっと考えましたが、キリリクでお転婆はやめようと思いボツに。
 (作者これでも一応、品行方正に書いたつもりでおります。笑!!)





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