泥酔番長






 日頃酒が強いとか顔色ひとつ変えないとか噂されているらしいが、実のところ私はそれほどアルコールに強くない。赤くならないのをいいことに辛うじて理性を保っているだけで、本当は動悸が激しくなっているし、思考もかなり危なっかしい。放っておけば椅子から崩れ落ちるだろう。
 顔に出ない上に気分が悪くなることもないので、自制さえしていれば誰にも酔っていると気付かれずに済む。幸い呂律も乱れない。霞んできている頭を何とか働かせ、乱れ始めた気分を努めて抑えて、同僚達が思い込む「酒に強いムウ」を訂正しないままでいる。
 白羊宮の玄関に到着するなり緊張が解けその場へ倒れ込む。ここへ戻ればもう見栄を張る必要はない。私は自然に任せて心ゆくまで酔いを回す。貴鬼が出迎えテレポーテイションで寝室まで運んでくれる。だらしない師に愛想を尽かすことなく世話してくれるのだ。有難い。
 ベッドに突っ伏していると貴鬼がすぐに水を持ってやって来て、私はそれを飲みながら取り留めなく一方的に話をするらしい。あの子はいつも最後まで相手をしてくれるのだそうだ。有難い。全く有難い。
 記憶が完全に飛ぶことはない。おぼろげに、ひどく開放的な気分に変化してくることは自覚している。やがて私は眠ってしまう。翌朝眠りから覚め正気に戻ってからも大体のことは覚えているが、一応貴鬼に確かめる。
 私は何を話した?私の記憶は正しいか?
 正しいですよと貴鬼は答える。記憶の通りならば許容範囲かもしれないとも思う。まあいいか、いいのだろうな。うやむやに私は納得する。




 今日は酔うために飲んだ。




 人を殺しかけた。私は出来るだけ誰の命も奪わないように戦う主義だが、今日は外せなかった。敵の1人に深手を負わせた。或いはもう死んでいるかもしれない。
 落ち込んだ。相手にしてみれば、私が落ち込んだところで済む問題ではないだろう。それがわかっているから尚のこと自己嫌悪に陥った。仮にあのまま傷が癒えず死んだとしても罪に問われない異常な事態、異常な立場を厭わしく思った。
 酒の力を借りることにした。部屋に閉じこもり飲んだ。
 小さく割ったチョコレートを口に含み、溶けかかったところにラムを流し込む。舌に溜まった甘い澱が洗い流され、私はまた新しいチョコの欠片を放り込む。ラムを舐める。その繰り返し。意図した通り直に酔いが回る。構わずチョコとラムを続ける。喉に焼けるような刺激を覚えると同時に、嫌なことを忘れられそうな明るい兆しが徐々に見えてくる。
 普段と同じように動いているつもりなのに、伸ばした手には何故か妙な勢いがついていて、テーブル上のグラスを倒してしまう。こぼれた液体を拭き取るために新しいティッシュの箱を開けようとして、蓋の部分の小さな紙片を点線に沿って剥ぐという単純な作業がやけに煩わしく感じられ、びりびり引き破ってしまった。
 いいぞ。実にいい。
 自分なのに自分ではない。コントロール出来ない状態に快感すら覚える。こうして束の間、私は私を放擲する。誰にも、貴鬼にも、世話をかけずにいられるのなら問題ないだろう。個人的に乱れることは許されていいと思う。そうだ、何の遠慮がいるものか。明日の任務は休み。修復のほうも立て込んでいない。この調子でどんどん…。




 ところがこんな日に限って突然紫龍が来るのだ。




 天秤宮に用があり急遽聖域入りすることになったのだと言う。私は今更引き締めることは不可能なところまで酩酊してしまっている。急場しのぎに繕ったとしてもどうせ3分と持つまい。覚悟を決め、みっともない姿のままで迎え入れる。思いがけなく会えて非常に嬉しいのだけれど、もしかすると幻滅されるのかもしれないなあと、諦め似た気持ちも感じている。
 「お酒を召し上がっていたのですね。」
紫龍は潔癖な性分だ。既に真っ直ぐ歩けない私を見てどう思っているのだろう。
「寛いでいたのに、急に来てしまってすみません。ご迷惑かと思ったのですが…」
迷惑なことなどあるものか。何を詫びる必要があるのだ。自分が悪いかのように頭を下げる紫龍。いつだって遠慮深くて控えめで、もっと我儘を言ってもいいのにともどかしく思うこともあるけれど、慎みは美点であることに間違いないのだからこれはこれでまた良しだろう。
 その紫龍が小声で言ったのを私の耳は聞き逃さない。
「でも、会いたくて。…会えてよかった…。」
 おお、なんと感動的なことか。見よ。この素直さ、健気さ、愛らしさ。少々酔っていようが何だろうが、こんなにも私を慕ってくれる。どうだ、どんなもんだ!これが我々の絆だ!私の紫龍だ!吹聴して回りたい。聖域中に知らしめたい。今なら本当にやりかねない…。




 紫龍を寝室へ通した。いきなりである。直接である。




 今し方孤独な酒宴を繰り広げていたその場所へただ戻っただけなのだから、何らやましいことはないと、もっともらしく開き直る。すかさず良心が詰問する。ではこの高揚感は何だ?訪ねて来てくれて嬉しい、失望されなくてホッとした、ほかにも何かあるだろう?
 私は敢えてそれ以上深く考えない。考えようとしない。それだけでもう邪な思惑を抱いていることが十分証明されたようなものである。
 いや、そんなことはどっちでもいいのだ。考えるべきは、いかに紫龍と楽しく過ごすか、それに尽きる。場所なんて別にどこだっていい…と強引に論旨をすり替えてしまうあたり、やはり今の私は普通ではない。
 紫龍は私が促すままにベッドに座り、チョコレートを口に運んだ。
「これ、おいしいですよね。」
邪気のない笑顔。私を見上げる、切れ長の涼しい目元。
「アテナからご下賜でしょう?天秤宮にもありました。」
澄んだ瞳。淀んだ空気の中に吹き込む、清涼な微風…。
「チョコレートっていいですね。疲れが取れるし、ホッとする。」
白いシャツ。第二ボタンまで外した襟元から覗く、くっきりと美しい鎖骨。
「ときどき無性に食べたくなります。」
私も無性に食べたくなります…。




 ダメだ。




 人の魂は体を抜け出た後、45°上にしばらく留まっているのだと聞いたことがある。そこから自分の死体と、それにすがって泣く者の姿を見下ろすのだと。今の私はそれに近い状態だ。理性を伴った意識がぽっかりと宙に浮かび、抜け殻の行動を他人事のように観察している。止めようともせずに。
 チョコレートの包みを開くのにも似た気安さでシャツのボタンを外す。ティッシュの蓋を引きちぎったときのように無神経に脱がせる。ぞんざいにしたくないとは思うけれど、アルコールに支配された私には、力を加減することはもう難しい。だったらやめておけと警告する音と、どうでもいいとうそぶく声が、ぼやけた頭の中で同時に響き渡る。
 紫龍が大きく身をひねったとき、はずみで押し倒す形になった。これはなかなか自然な好展開だ。脇腹を中指の先でスッと撫でれば戸惑った声が上がる。
「ちょっと…待って下さい。」
 私は今まで、いかにも所有物だと言わんばかりの態度とか、紫龍の気持ちを無視した行為だとか、欲求まかせに突き進むことは絶対にすまいと心がけてきた。合意の下でなければ虚しいだけだし、何しろ紫龍を大事に思えばこそ、嫌がることはしたくないのだ。
「待って…離して下さい!」
嫌がることはしたくない。
「ムウ…!」
したくない。したくないのだけれど。
 細い外見に似合わぬ強い力で胸を押し上げられた。忘れていた。そう言えば紫龍は聖闘士だった―。




 それでいい。君は、選んでいいんだよ。こんな酔っ払いに好きにされるのは屈辱だろう。




 重心が覚束ない体は容易に撥ね除けられ、その隙を突いて逃れ出た紫龍は、素早くシャツを掴むと肩から羽織り背中を向けてしまった。私のほうは、突き飛ばされたところで酔いが醒める訳でもなく、むしろ急激な神経の昂りにより一気に泥酔状態。ベッドに身を沈めたまま動けない。
 紫龍が近付く気配がする。シーツに顔をうずめた私にその姿は見えないが、髪の毛が手の甲に当たるから、屈み込んでいるのだとわかる。何か言わなくてはと思い、頭の中の引き出しを片っ端から開けて言葉を探すけれど、どこもかしこも霧が立ちこめていて欲しいものはなかなか見つからない。
 酔った勢いだけでこんな風にしたと思われているのなら、困る。自分が困るのではなくて紫龍を悲しませることが不本意だ。
 可愛いかったから。嬉しかったから。だから抱き締めたくなった。月並みな常套句しか浮かばない。けれど真実に限りなく近い。
 あのまま白状するのが怖かった。本当は強くない自分も、酒に頼った理由も、全部吐露してしまいそうで怖かった。呆れられて幻滅されて、見限られるのが怖かった。
 同僚の前で弱みを見せることには抵抗があるけれど、紫龍にはありのままの自分を知らせたいとも思う。そのくせ嫌われたくなくて、失いたくなくてビクビクしている。矛盾。すべてを明かして尚且つ受け入れられたいと願っている。…勝手な願望!
 君はその都度、選んでいいのだ。「私」であるというだけで応じようとする必要はない。見ての通りいろんな私がいるのだから。その上で君に選ばれなかったとしても、拒絶されたとしても、仕方がないじゃないか。
 私は…、




 なんだか疲れた。うまく考えられない。眠くなってきた。よくわからなくなってきた…。




 視界不良な霧の中、ポツリ、ポツリと紫龍の声が塊となって落ちてくる。
「さっき…嫌だった訳じゃなくて…ただ…」
気にしていたのか。申し開きをしなければいけないのは、うまく説明出来そうになくて、それ以前に口をきくことも出来なくて、情けなく伸びているこの私のほうなのに。
「…いつもと順番が違うから…。」
え。何。
「……もしないで、いきなり…」
えっ、そうなの?
「それに…ムウだけ…服を着たままだし…。」
そんなこと。そんなことなのっ…紫ィちゃん…。
 力を振り絞って頭を持ち上げると、至近距離から私を覗く視線とぶつかった。切れ長の涼しい目元。澄んだ瞳。自分が悪いかのようにほんの少し曇らせて。
「しりゅう…。」
妙に掠れた声が出て、我ながら驚く。酒に潰れた喉から出る声。だけどいつもこんなものかもしれない。貴鬼を相手に延々とどうでもいい話を聞かせるときも、こんな声なのかもしれない。
 のろのろと起き上がり、紫龍の手を取る。冷たい。きっと私の手が熱いのだ。血行が良くなっているから。
 「紫龍。」
もういちど呼ぶ。はい、と返事をした紫龍は、私が伸ばした腕の中にすんなり納まる。私はその華奢な体に寄り掛かかるようにして目を閉じる。これではどっちが抱かれているのかわからない。
 記憶が完全に飛ぶことはない。
 やがて私は眠ってしまう。
 眠りから覚め正気に戻ってからも大体のことは覚えている。




 酒臭くてすまないと謝ったら、ラムはチョコに合うから好きだと言われた。




 私の酒気は翌日まで残らない。これまで二日酔いに苦しんだ例はない。熟睡出来るせいか飲んだ翌朝はむしろ爽快で調子が良く、百薬の長とはよく言ったものだと思う。
 紫龍が私を見上げる。
「またすぐ会えますよね?」
互いに先の見通しが立たない身。守れなかったら辛いから、次の約束はしない。取り決めを交わした訳ではないが、気がつけば暗黙のうちにそんなルールが出来ていた。
「何も起こらなければ、来月ジャミールに戻れる。」
日時は定まらないまでも、おおよその見込みは伝えておく。
「じゃあその頃、会えるといいですね!」
紫龍は作った笑顔で言う。頷く私も多分同じような表情をしていることだろう。
 こんなとき、無理にでも明るい気持ちを作っていなければやっていられないのだ。別れの寂しさや悲しさは、ちょっと気を抜けばわずかな隙から瞬く間に広がり、収拾がつかない感情に肥大してゆくから。
 靴紐を結び直しながら紫龍が言う。
「昨日…あなたの本音が聞けて嬉しかった。」
本音?怪しい精神状態で、一体何を話したか。大体覚えているけれど、記憶の通りならば許容範囲かもしれないとも思う。まあいいか、いいのだろうな。うやむやに私は納得する。
 それじゃまた、と殊更明るい口調で言った後、紫龍は十二宮の外へ続く階段を降りて行った。この前会ったときよりも髪が伸びたかな…そんなことを考えながら見送っていると、突然振り返りこう叫ぶ。
「眉の形なんて、俺、ホントに気にしてませんから!考えたこともなかった!」




 私は何を話した?私の記憶は正しいか?











 20040525






 まずは…貴女の高尚なムウ様を汚してしまってスミマセン〜。


 作者の中でこの人達は、いわゆる遠距離恋愛カップルです。
 ムウ様の生活拠点はジャミール、紫龍は基本的に五老峰にいます。
 仕事の都合でそれぞれ白羊宮だったり城戸邸だったりということもあります。
 あんまり頻繁に会わない(会えない)恋人同士です。


 題に深い意味はありません。ちょっと「番長」って言葉を使ってみたかっただけです。テヘッ。


 えーとそれから、ウチでは一応「紫龍は華奢」ってことでやってます。
 だって172センチ53キロは華奢でしょう!(って、こんなとこだけ原作データを重視してみる。)





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