口実 麗らかな陽が斜面を照らす。 「ああ、まだ全然だ…。」 顔を上へ向けて風の匂いを確かめた後、紫龍が呟く。 「今年の冬は寒かったから、開花も遅れているらしい。」 風はやわらかく、陽射しは黒い上衣の背中を温めるけれど、青空を背景に思い思いに伸びた枝には、白や紅色の丸い蕾がついているだけだった。 鶏に餌を与えた後、紫龍は「梅林へ案内する」と言い出した。 今日は朝から目の状態が思わしくないことを知るムウは、あまり長時間戸外に出ているのもどうかと迷ったが、家の中にいるより紫龍の表情が明るく見えたので、少し歩いてみるのも悪くはないかと思い直し、連れ立つことにしたのだった。 「静かで良い所でしょう?」 ムウは紫龍が座りやすそうな場所を探して辺りを見回すが、紫龍は立っているその場に躊躇なく腰を下ろし、寛いだふうに膝を伸ばした。 「全部咲いたら見事だろうね。」 「そう…花も綺麗だけど、空気がとても綺麗になるんです。だから、香りだけでもと思って来てみたんだけれど。」 枝全体がほの紅い1株を眺めながらムウも隣に座る。 「早いものでもあと3日といったところかな。」 「そんな具合ですか。」 「今日のように暖かい日が続けば。」 今、紫龍の視界は霧で覆われ、膨らみかけた蕾も、蜜を吸いに飛んで来たメジロが引き返す様も見えない。 がっかりしただろうとムウは思った。 けれども紫龍に帰ろうとする素振りはなく、香気が漂うでもない梅の林の中で、不思議と晴れやかな顔をしている。 「そろそろ…」 ムウが立ち上がっても紫龍は腰を上げず、代わりに袖をつかんで問うた。 「ここの食事は口に合いますか?」 「どれもおいしいよ。」 軽く引っ張られてムウは膝を屈める。 「あの部屋寒くないですか?よく眠れますか?」 「夜具が上等だから快適だ。」 「じゃあ…ええと、毎晩老師のお酒に付き合うのは大変じゃないですか?」 「大変だよ。お強いからね。さあ、もう戻ろう。庭先に卵の籠を置きっぱなしだ。」 袖を引く指先が慎ましく手首に触れてきたとき、ムウは、紫龍が迷いもつまずきもせず、ここまで歩いたことを思い出した。 坂、小径、藪、石段。 何度も通った道筋を、足が覚えているらしかった。 「少し、窮屈じゃありませんか…。」 期待を露わにしている自覚がまるでない紫龍は、言葉にさえ出さなければ悟られないとでも言うかのように、ムウの手を取り頬に導く。 「…少しね…。」 既に真意を見透かすムウが、頬をひと撫でしてすぐ頤を仰のかせようとすると、紫龍は急に面映ゆくなったのか、慌てた様子で俯いた。 本当は、花などまだ咲いていないと知っていたのではないか。 紫龍が再び顔を上げるのを待つ間、ムウはそう思っていた。 20060315 めずらしく五老峰に来ているムウ様。 家にはもちろん老師と春麗がいるので、散歩のときぐらいしかイチャイチャ出来ないというこのスリル! |