激甘スパイシーミルクティー






 白羊宮は初めてだった。
 もちろん戦いの最中に通り抜けたことはあったけれど、居住空間に足を踏み入れた経験はこれまでになく、紫龍はどこか落ち着かない。それどころかたいへん緊張している。
 ぎこちない様子を見てムウは首を傾げる。
「ずいぶん緊張しているようだね。」
杏仁豆腐で満たされた茶碗の縁を小刻みに打ち付ける、不自然な散蓮華の音が止まない。紫龍は俯きながらテーブルに器を置いた。
「…遠い人のような気がして。」
「私が?」
「ここで、あなたはアリエスだから。」
えっ、と小さく聞き返したムウを一度見上げ、紫龍はまたすぐに目を伏せた。
「聖域の顔を…黄金聖闘士の顔をしているから。」
心細げに揺れる声を聞いてムウは苦笑する。
「困ったね…。」
 確かに黄金聖衣を纏う地位は重く、聖闘士の中でも別格だ。青銅聖闘士の目にどう映るかもムウはよく知っている。ましてや自分は聖闘士であることを告げぬうちに聖衣修復師として紫龍と知り合い、心を通わせるようになったのだ。目まぐるしく続いた戦いが終わって通常の精神状態に戻った今、紫龍が戸惑いを覚えるのも無理はないかもしれない。
 ムウは紫龍の隣へ移動した。ソファが軽く軋み、ふたりの距離が縮まったことを知らせる。
 下を向いたままの紫龍をやんわりと抱き寄せる。一瞬強張った背中を手のひらでポンポンと叩き、余計な力を払い落としてやる。そのまま撫でる。肩や腕にも同じようにして緊張を取り去る。固まっていた体が少しずつほぐれる。
 ムウの胸元で紫龍は白檀を聞いていた。ジャミールの、ムウの私室でいつも焚かれていた香りだ。髪にも服にも煙が移って、ムウが歩くたびに甘い風が起こった。それを好きだと言うと「君にももう染み付いているのに。」と笑われた。ここでもやはり一日の終わりに白檀を焚くのだろうか。あの古い香炉で。
 力の抜けた紫龍から自然な重みを感じるようになった頃、ムウは出来るだけ柔らかく囁いた。
「いつもの私でしょう?」
顎の下で紫龍が頷いたのを確かめて、ムウは安堵し更にこう聞く。
「『アリエスのムウ』では、気詰まりに感じる?」
紫龍の頭はゆっくり動いた。それは、首を横に振ったのか縦に振ったのか、甘えて頬を擦り付けてきただけなのか判断しかねる動きだった。けれどムウは躊躇することなく腕に力を込めた。紫龍はそっとムウの袖を掴んだ。その仕草が決して拒絶を示すものではないことをムウは確信していた。
「ジャミールでも聖域でも、紫龍の前ではただのムウだ。」
安心させるように言い聞かせる。紫龍の髪が衣服と擦れ合いサラサラと音を立てる。
 ゆっくり抱擁をほどく。正面から顔を覗き込まれて紫龍は目を閉じる。期待したという訳ではなくて、それがいつもの流れだから。けれど唇には触れず前髪をかすめただけで、ムウはすぐに体を離して座り直した。
 手を伸ばし半分以上中身が残された茶碗をテーブルから取り上げると、ムウは紫龍のほうへ再び向き直った。紫龍の右手に握られたままの散蓮華を抜き取り、器の中に挿し込む。白い寒天がトロトロと崩れるように乗り上げる。弄ぶように何度かすくったり戻したりするうち、杏仁の香りが華やかに広がりだす。
 ひとすくいを紫龍の口元へ運ぶ。紫龍の口がほころびる。食べる?どうする?と問うムウの目も優しい形になっている。
 「幸せ」という言葉しか浮かばない。久し振りに会えた大切な人と、寄り添って過ごす嬉しい時間。
「もういらないのなら私が食べるし、そうじゃないのなら…」




 「『食べさせてやる』とでも言うつもりかね。ムウよ。」




 不意に背後から鋭い声が響く。ムウにとってはあまりに聞き慣れた親しい友人の、紫龍には面識こそあれ赤の他人であるバルゴの聖闘士・シャカの声。もっとも紫龍は、振り向いたから声の主が誰かを知ったのだ。
 紫龍は慌てて居ずまいを正した。ムウは振り向きもせず平然と、同じ姿勢のまま、蓮華の先端で茶碗の中身をつつきながらぴしゃりと言い放った。
「シャカ、勝手に人の家に入らないで下さい。」
「気配を消さず上がり込んだのに、わからなかったのか?気付かぬほど没頭していたという訳か。」
「没頭って…ヘンな言い方するのはやめなさい。別に(まだ)何もしていない。」
穏やかな口調だがムウの声は尖っている。シャカは構わず歩み寄り、ムウの手にあるものを見て不敵に笑う。
「フフ、知っているぞ、この食べ物。杏仁豆腐…ドラゴンの中国土産か。検疫で引っかからないのかな、こういうのは?フフフ…。」
挨拶をしたほうがいいのかなーとためらう紫龍であったが、何しろ非常に恥ずかしい現場を見られてしまったという思いのほうが強く、声を出すタイミングを計りかねている。
 「今日はどういうご用件で?」
ムウが事務的に尋ねた。シャカは小さな麻の巾着袋から紙に包んだ茶葉とスパイスを取り出し、テーブルの上へ広げた。訝しげに見つめるムウと紫龍。
「今月の『十二宮インド同好会』で、このシャカ手ずからインド風ミルクティーを振る舞うことになっているのだ。白羊宮に客が来ていると聞いたので、練習も兼ねて君達に賞味させてやることにした。」
「インド同好会って…カミュとかディーテさんとかが入ってるアレ?」
聖域にはさまざまな同好会や余暇サークルの類が存在する。聖域内の者であれば職種・階級を問わない大規模な会から、シャカが主催するインド同好会のように、十二宮というごく限られた世界の中でひっそり展開している会もある。
「そうだ。東洋趣味をくすぐられると言って彼らは大喜びだ。」
 シャカは断りもせず台所へ向かった。間取りを知り尽くした者の態度だった。ムウは咎めもしないで後に続く。紫龍もその後ろから付いて行く。
 ムウがほとんど自炊していることを紫龍は知っている。ジャミールでは必要に迫られそうするが、雑事の担い手には事欠かない白羊宮に滞在しているときでも、料理は苦にならないし気分転換にいいから自分で作っていると以前話していた。
 調味料の瓶。半分切ってラップをかけたパン。缶詰。豆。玉ねぎ。梨とスモモ。そこは所狭しと食料が並ぶ、しかし整然と片付けられた空間だった。ジャミールから持って来たのだろう。見覚えのある使い込まれたケトルと、籐で編まれた盆。
 遠慮もためらいもなく、シャカは棚の扉を開けて小さな片手鍋を取り出した。まるでそこに入っているのがわかっていたようだ。ムウはただ眺めている。
 小鍋に少量の水とスパイスを入れ、火にかける。
「私のやり方を教えてやろう。こうしてしばらく煮出すのだ。」
シナモン、カルダモン、クローブ、薄切りの生姜。沸騰が続くにつれて辺り一面に漂う香りが立体的になり、鍋の中の水は飴色に変化してゆく。
「ムウ、牛乳あるだろう?出したまえ。」
鍋を覗き込んだままおもむろにシャカが言う。ムウは舌打ちをして冷蔵庫を開け、開封前の牛乳パックを取り出すと無言でシャカの前に突き出した。
 紫龍は正直なところ驚いていた。舌打ちをするなんて。自分の前でムウは決してそんな態度をとらない。いや、それよりも何よりも、ムウが誰かとこんなに親しくしているなんて考えたこともなかった。一見疎んじているようでも、あのぶっきら棒な所作は心安さの裏返しだ。
 アリエスの黄金聖闘士でありながらジャミールで長く隠遁生活を送っていたムウ。それを余儀なくしたのは聖域に起こった乱であり、ムウ自身好む好まざるの問題ではなかったということは紫龍もよく把握しているつもりだったが、その事実はまた、孤高を保ち積極的に人と交わろうとしないムウ像を知らず知らず紫龍の中に植え込んでいた。
 「この間の活動で、フルムーンパーティーについて相談を受けたのだよ。休暇を利用して行くつもりだそうだ。」  〔フルムーンパーティーとは……満月の夜、ヒッピーや地元の不良がビーチで大音量の音楽とドラッグに溺れるクレイジーでハッピーな集いです。最近は締め付けが厳しくなったらしいですが基本的に無法地帯。インドの場合ゴアなどが有名です。〕
「フルムーンパーティー!誰が?どっちが?ディーテさんか。」
同僚の噂話に突如として色めくムウも、紫龍の知らないムウである。
「フフ…違う。…牛乳を加える、と。」
パックの口を開けてシャカが勢いよく鍋に牛乳を注ぐ。
「じゃあカミュ?…水はもうこれだけ?ほとんど牛乳なのだな。」
ムウは楽しそうだ。
「そしてすぐに茶葉投入。絶えず攪拌…スプーンを。」
「はい、スプーン。勿体ぶらずに教えなさい。シャカ。」
 盛り上がっている。何だかとても盛り上がっている。紫龍はそんな二人の姿を少し離れた場所から黙って見ている。モヤモヤと嫌な感情が既に喉元まで上って来ていたが、何が、どうして嫌なのかははっきりしない。その感情が何という名を持つのかもわからない。紫龍はぼんやりと考える。今まで自分は、ムウがごく限られた人(貴鬼、老師、市場のおばさんetc.)と接触する姿しか知らなすぎたのだということを。(戦闘時は除く。)
 俺は今までたいへんな勘違いをしていたのかもしれない―。
「ディーテさんでもカミュでもない。このまま沸騰を続ける。」
「インド同好会ってほかに誰が入って…あっ、噴きそうだ。」
自分だけが特別深くムウの心に入り込んでいると自惚れていたのかもしれない。本当は誰にでもこんな風に打ち解けて、朗らかな顔を見せる人なのではないだろうか。
「いいのだ、こうして火から離せば…治まったところでまた火に戻す。」
「ああホラまた噴く、噴く!牛乳はこびりつくと大変なんだから気を付けてくれないと。まったく、君は大雑把なのか几帳面なのかわからない。」
憎まれ口をきくムウも初めてだ。
「大丈夫だ。また火から離して…よし、戻す。十分に浸出するまでこの繰り返しだ。…ほかにはサガとシュラさん。」
「何。ハハハッ!まるでサガ派の秘密集会じゃないか。」
声を立てて笑うんだ。その上、何ときわどい冗談だ…。
「!!ムウっ、言葉を慎みたまえ!」
 ここは聖域だから、いやが上にも黄金聖闘士であるムウを意識せざるを得ない。実際ムウは、ジャミールにいるときよりも若干張った表情をしている。遠い存在に感じられてならなかったのはそういうことだと紫龍はずっと思っていた。
 だけど実はちょっと違うのではないだろうかと、今、紫龍は思い始めている。黄金だからどうということではなくて、自分の知らないムウを第三者によって思い知らされるという予感が、緊張をもたらしていたのではないだろうか。そのとき寂しさに襲われることを予測して、身構えていたのではないのだろうか。
 シャカ。この人は俺の知らないムウを知っているんだろう。聖域で黄金聖闘士として生きる姿はおろか、俺と出会う前のムウのこともたくさん見ているはずだ。ムウの聖域での交友関係は想像がつかないが、恐らくこの人はかなり親しいほうだろう。我が物顔でこの白羊宮を歩き、収納場所を教えられなくても当たり前のように鍋を取り出し、しかもその振る舞いはムウに許されている…。
 シャカが話題を変えるように言った。
「ムウ、居間へ戻って、さっきの袋の中にある茶漉しを取って来てくれ。」
「茶漉しならここに。」
ムウが引き出しを開けようとするのを制してシャカが続ける。
「使い慣れたものがいいのだ。」
「…自分で取りに行きなさいよ。」
「私は手が離せない。」
「あーあ、横柄な人ですねぇえ…あ、人じゃないのか。神様だった。」
揶揄されて、シャカはやや強い口調で畳み掛ける。
「いいから早く!急ぐのだ。」
「はいはい。わかりました。」
やれやれ、と大袈裟に溜息をつき、追い立てられるようにムウは台所から出る。
 「ドラゴンは、ちょっとここへ来て手伝ってくれ。」
 シャカに急に呼ばれた紫龍は驚いて顔を上げた。
 ムウがちら、と振り返った。
 鍋を掻き混ぜる手を止めたシャカがスプーンを差し出す。 
「手が疲れた。ドラゴン、交代してくれたまえ。」
手が疲れた?手が離せないと言ってムウを追いやったばかりなのに?隣へ立った紫龍は咄嗟にシャカを見上げた。
 敵意のない柔和な表情が向けられていた。
 半分閉じたまぶたの奥に、凪いだ海を連想させる色が穏やかに広がり、紫龍を見下ろしていた。ムウと似た温度の、けれどムウより強固でムウよりしなやかな、ムウより遠くまでその広がりを続ける小宇宙が、何にも逆らわず薄物のように棚引く。
 見蕩れた。
 すぐに我に返る。
 いつの間にか極度に警戒していたことを自覚し、紫龍は冷や汗をかく。心の動きの一部始終をシャカに透視されているようできまりが悪く、無言でスプーンを受け取り鍋の中を混ぜる。シャカは左手で鍋の柄を握ったまま、茶が煮立つのに合わせて上げ下げする。
 濃い茶色に染まったミルクティー。何度も沸騰を繰り返し、表面に薄く膜が張っている。
「これは砂糖を入れて作るものなのだが、君は茶を甘くしても飲めるかね?」
シャカの問いかけに紫龍は素直に答える。
「はい。」
「そうか。ムウはどうなのだ?」
名前を出されて反射的に紫龍の「気」が硬直する。自分でも制御出来ない瞬時の反応だった。即座にシャカがふわりとそれを取り巻く。
「知らないか?」
返事を促すようにシャカは重ねて問う。薄絹を全部広げたまま。
 抗う理由などないのだ。むしろこのまま同化してしまいたいほどに心地良い、安定した小宇宙。しかし紫龍はささやかな抵抗を試みる。意味のない抵抗とわかっていても、そうしなければ納得出来ないような気がして…。
「…あなたはご存じなのでは?」
紫龍の言葉を受けてシャカはごく真面目に言った。
「おかしなことを聞くのだな。君も知らないのに、どうして私が知っているのだ?」
「……。」
 こんな些細なことで屈託が消えるのだから、自分でも単純なものだと思う。けれどどうしようもないのだった。不安になったり緊張したり、寂しくなったりモヤモヤしたり。渦中にある者にとっては扱いきれずに持て余す、通り過ぎた者には覚えがあってくすぐったい、鬱陶しくて厄介な若い情動。
 胸のつかえが一気に下りて楽になった紫龍は、ホウッと息をつく。
「ムウは…ジャミールでは大体バター茶です。甘いお茶を飲むこともあります。」
「そうか。」
シャカは火を止め袋から直接砂糖を落とした。ドポンと音を立てて液体が跳ね上がり、鍋の外へはみ出す。紫龍がスプーンで掻き混ぜる。
「バター茶とは、どんな味がするのだ?」
「塩味です。麺を入れてみたくなるような…。」
シャカが笑ったのとムウが戻ったのは同時だった。
「シャカ、袋は空だった。」
「じゃあ私の勘違いだ。ここの茶漉しを借りる。」
 散々渋るのを強引に取りに行かせた挙句、目的の物は「勘違い」のために無かった。それをシャカは詫びるでもないし、ムウはムウで快く引き出しを開け茶漉しを取り出す。
 マグカップに注がれる茶を見詰めながら、やおらムウが呟く。
「お茶については舌の肥えた人がいるから…まずかったら大変ですよ、シャカ。」
やや間が空いて紫龍が口を開く。
「…あの…俺のことですか?舌が肥えてなんかいませ…」
遮るようにシャカが言う。
「ドラゴンは普段そんなにいい茶ばかり飲んでいるのか?」
「それはもう、老師のところにいれば到来物は豊富だし…何と言ってもお茶は中国。ねぇ、紫龍?」
「いえ、到来物と言ってもほとんど酒ですし…」
生真面目に否定する紫龍に構わずムウは続けた。
「この間送ってもらった蘭の香りがする烏龍茶、おいしかった。フフ、おすそわけしてくれるんですよ、紫龍は。うらやましいでしょう。」
 臆面も無く笑みを湛えるムウを横目に、シャカは帰り支度を始める。
「物知らずめ。茶といえばインドが本場だ。」
「帰るのか?感想を述べようと思ったのに。」
「感想はいらない。美味に決まっているからな。」
それじゃ、と素っ気無く挨拶して、シャカは台所を後にした。ムウもその場で曖昧に挨拶をしてカップに手を伸ばす。
 紫龍は胸の中で叫んだ。その声は、きっと口に出せば喜びでうわずっていただろう。
「台所で立ったままお茶を飲むなんて行儀悪いこと、するんだ!」
自分で発見した新しいムウの顔に心が躍る。
 「あ、甘い。おいしい。」
ひとくち飲んでムウは意外そうな声を上げた。紫龍も口を付ける。濃厚な香り。しっかりした甘み。インドのスパイシーミルクティー。
 「あの方は、いい方なのですね。」
紫龍が改まって言う。
「そうかな。ちょっと変わっていて有名なのだ。」
突き放したようにシャカを語るムウだったが、紫龍は同調せずに言い切った。
「いいえ。優しい方だと思います。」
そう?と軽く聞き流してムウは鍋の周囲に散った飛沫を拭く。
「派手に汚してくれたものだ。」
拭きながら考えている。
 シャカに借りが出来てしまった。インド同好会に差し入れでもしよう―。











 20040501






 このまま載せますがっ、失敗作〜。
 10代半ばの女の子(!)的なグラグラ揺れる恋心を出したかったのですが、
 あまりに遠くなりすぎてもう思い出せないと言うか。
 そもそも文章力…いや構成からしてマズすぎっちゅーか、力不足で何ともわかりにくい仕上がりに。
 最後まで読んで下さってありがとうございました。そしてお疲れ様でした。


 作品中に出てくるチャイの作り方は、作者の自己流です。
 インドの人が本当にこうやって作っているのかは知りません。
 ちなみに私は、砂糖はもっと早い段階から入れて煮込んでしまいます。
 思い切ってうんと甘くするとお菓子みたいで、紅茶の飲み方としてはかなり気に入りです。





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