月を待つ二十三夜






 ムウの指から指輪が消えた。いつもはめていた彫金の指輪。




 左の中指に指輪をすると、直感が冴えると聞いたことがある。ムウもあの不思議な力をより高めるつもりで(それとも抑えるつもりで?)つけていたのかもしれないし、もう少し気軽に、例えば俺が首から下げているお守りのような意味でつけていたのかもしれない。
 あるいはもっとほかの意味を持っていたのかもしれないけれど。




 その指輪がいつの間にか外されていた。








 人の持ち物を取り調べる趣味なんてない。ただ、ムウの留守中に偶然見つけただけだ。
 煤けた金色の指輪は、紙に包まれるわけでもなく、箱に入れられるでもなく、裸のまま、まるで机の上から誤って落下してしまったように紙屑の一番上に載っていた。




 「これ、ごみ箱の中に落ちていました。」
ストーブの前でバスタオルを羽織り、端で髪を拭きながら、さして関心もない様子でムウは答えた。
「ああ…いいんだ。捨てたんだよ。」
「どこも壊れていないのに。どうして?」
「もう必要ないから。」
 やがてムウの視線は俺の掌を離れ、窓の向こうの暗い空と、傍らに貼った月齢表とを緩やかに往復する。
 今日は二十三夜。月を待つ夜更け。








 戸棚から出した硝子の杯に、ムウが赤い果実酒を注ぐ。
 俺は干し葡萄を枝からちぎり、薄皮をむいた木の実と合わせて窓辺に散らす。燭台の置き場所をずらして細いロウソクに取り替える。




 月待ちの支度をする間中、屑籠へ戻された指輪のことが頭から離れない。




 真夜中の宴がはじまる。
 甘酸っぱい指を舐めて、赤い液体を回し飲みする。




 ムウが俺の髪留めを外す。




 俺は生贄になる。








 穿鑿などしたくない。だけどあなたのことは何でも知りたい。
 話してくれることだけ信じていればいい。けれど本当はあれもこれも聞き出したい。




 洗いたての体は何ひとつ匂いを纏わず、外で浴びてきた血の生臭さも、いつも焚いている香木の移り香も感じられない。それ以前にまずムウという人自身が無臭で、無臭というより気配さえ確かでなく、こうして体中に重みを受けていても、目を閉じていると、ただ暖かい透明な空気に全身を包まれているだけのような奇妙な錯覚が起こる。
 手で触れられているのか唇でそうされているのかわからない。息なのか髪なのかもはっきりしない。
 馴染んだ体温。それなのに、まるで初めて会った人のような気分すら湧く。




 何もかも知りたい。人一倍知りたい。根掘り葉掘り聞きたい。全部知りたい。
 あなたはきっと答えてくれる。だから俺は迷う。








 月が出たら何を願おう。




 「『もう必要ない』って?」
頭の芯が溶け出して口が利けなくなってしまう前に、確かめたかった。
「さあね。」
話をそらす素振りはないが、まともに取り合う態度でもない。
「『さあね』じゃなくて…ずっと大事にしていたものなのでしょう?」
俺が食い下がると意外そうな顔をして、それでも小さく微笑んでムウはこんな言葉を返す。
「ああいうのが欲しいのか?」




 なんにもわかっていない。








 鼓動と吐息の合間を縫って、夜空に供えた木の実をつまみ、互いの口へ運び合う。
 同じ味、同じ温度、同じ夜を共有する俺達は、同じ月を待ちながら、多分それぞれ違う祈ぎ事を胸に抱いている。
 真紅の果実酒は血の流れに乗り、爪の先まで行き渡る。強く吸い上げた部分から、じきに滲み出すことだろう。上澄みはおろか、澱や淀みまでもが、玉となって皮膚を転がり落ちるだろう。




 急に、それが自分ばかりのように思えてきて、目の前にある肩に歯を押し当てた。
 点々と、赤く血が寄った。




 月が出たら願いが叶ってしまう。




 あなたは必ず答えてくれる。だから恐れている。











 20070225






 メルヘンを目指すつもりが…暗いっ。





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