トップページへ

このホームページ作者:西口 隆司(ニシグチ タカシ)

BCLミーティングからの写真。本HPの作者は下段右から二人目。


 1963年、兵庫県神戸市生まれ。親の仕事の関係で(当時、父親は大洋漁業所属の漁船の機関士。そのせいか?横浜ベイスターズファン。父親以外の家族は全員、読売ジャイアンツファンなのに・・・(;_;))、1歳で宮城県石巻市に移転する。

 1975年、SONYと松下電器がBCL向けラジオを発売。中学1年生だった私は当時、購読していた学習雑誌「中1コース」に出ていたBCL特集記事と松下電器のTVCMの影響で、同級生の半数近くが始めたのに触発されてBCLを始めた。・・・今では考えられないが、松下電器はBCL向けラジオのTVCMまでも流し、SONY、三菱電機、東芝などもラジオCMを流していた。
 初めはMWとFMしか受信出来ないラジカセを用いていたため、MWで受信出来る海外日本語放送からスタート。という訳で、初めて受信した海外局はモスクワ放送の日本語番組。1976年初頭、親にねだってSONYのICF−5800を買ってもらい、BCLを始めて3ヶ月後にようやく短波ラジオをGETすることになる。ここからようやく本格的なBCLライフのスタート。初めて短波で受信した海外日本語放送は、今では日本語放送を廃止してしまったBBCだった。

 30年を超えるBCL生活の中で、充実した時期はこの中学1〜2年生の時と、旧日本BCL連盟城南ミーティングのメンバーとBCLサークル「関東DXersサークル」を結成し、そのサークル活動をメインとしていた1980年〜1981年。一人暮らしを開始してMWDXに燃えた1980年代後半の3つの時期である。

 中学1年生の時、特に仲の良かった同級生とクラス内にBCLクラブを発足させた。当時は、部員を同級生に限定したにも関わらず、クラブ名は「ジャパン ジュジア BCL」という安直な名称。ハガキ大8ページ程度のうすっぺらな会報を発行し、その会報のメインエディターを務めていた。中学2年生の頃にはその話が学校内にも広がり、下級生のクラブ員も入るようになってきたが、同学年の他クラスに強力なライバルが出現。そのライバルは別のBCLクラブを発足させ、親が印刷関係の仕事をしているのを利用?して、自分が作っていた会報よりも見栄えが良い会報を作って対抗して来た。ライバルは三菱電機のジーガムを使用。当時は幻の放送局として名高いアルゼンチンRAEの受信は、ライバルが一足早く受信しライバルの勝ち。しかし、ジーガムは12MHzまでしか受信出来ないので、欧州国際局受信レースでは私が勝利した。

 中学3年生の時、東京へ移転。田舎とは違い、流石に同級生にBCLはまったくいなかった。その頃から熱がさめ、海外日本語放送をたまに聴く程度となってしまったが、1980年、高校3年生に進級する直前の春休みで建設会社のバイト。そのお金で、松下のRF−2600を購入した。これをきっかけに旧・日本BCL連盟に入会し、城南ミーティングへの参加を開始。その年の夏、当時、大学1年生だった山田靖次さんがミーティングに初参加。いきなりBCLサークルを作ろうという話を持ってきて発足したのが、ピーク時には海外会員3名を含む240名にまで膨らんだBCLサークル「KDXC(関東DXersサークル)」だった。そのサークル発足後の会報第2号から数年、私は表紙のイラストや海外局の受信レポートを紹介するDXレポートのページ等を担当していた。

 社会人になると経済的にも余裕が出来、受信機を毎年のように買い始めたのもこの翌年から。1982年12月には、日本中のBCLが注目?していた日本向けロック専門局KYOIの日本初受信をGET。当時のKYOIオーナー、L.S.バーガー氏からは感謝状を頂いたこともあった。しかし、この感謝状は放送開始前に旧・日本BCL連盟が同氏に依頼していたもの。そのせいか、その感謝状には私の名前の変わりに旧・日本BCL連盟のものが書かれており、感動に釘をさす一面があったのも事実だった。

 1986年7月から2000年8月までは、神奈川県三浦海岸近くのアパートで一人暮らしをしていた。現在ではこの地でもノイズが激しく、DXをする気も起きないが、この地に引越した当時はノイズは殆ど無し。ちょうど太陽活動の停滞期であったため、メインとしていた中波DXには最適な環境だった。1986年〜1988年にかけては北米中波局やオーストラリア民放局がこぞって入感。北米中波局は40局オーバー、オーストラリア民放局も20局近くも入感し、主にオーストラリア民放局へ受信レポートを送って返信をGETしていたのもこの時期だった。

 1996年にはNECのパソコン通信サービスPC−VANに開設していたBCLのフォーラム(このPC−VAN内ではSIGという呼び方をしていたが)の管理者を前任者の山田靖次さんより引き継いだ。インターネットによる情報収集手段の公開など、新しいコーナーの開設や協力者の活発な発言もあって、一時期は過去最大の発言数を記録したこともあったが、時代は完全にインターネットへ移行。2000年早々にはこのフォーラムを閉鎖することになってしまった。

 2000年9月に横浜のマンション暮らしをスタート。受信環境の極端の悪化から、熱心なDXをすることも無くなっていた。しかし、2005年8月にノイズに強いと評判のループアンテナALA−1530を導入すると、受信環境に大きな転機が訪れた。それまで聞く事が出来なかったローバンドDX局の多くが確認出来るようになり、一気にワッチ意欲が向上。現在はメールマガジン発行を中心とした活動を行っている「KDXC(関東DXersサークル)」のメールマガジンにも、頻繁に受信成果を投稿するようになっている。