 
「かながわく九条の会」は、神奈川県横浜市神奈川区を中心にした地域の賛同者が結成した九条の会です。
(発足/2008年9月26日) |

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■■ 日本国憲法 第九条 ■■
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 |
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■「憲法と平和を考える100冊」 No.50
笠原十九司著『アジアの中の日本軍 戦争責任と歴史学・歴史教育』
大月書店(1994/9/20発行、262ページ、2600円) |
著者は、1944年生まれ、現在、都留文科大学教授。『南京事件』(1997)、『南京事件論争史』(2007)など、著書多数。
本書は「日本がかつてアジア太平洋地域でおこなった侵略戦争の『過去の克服』、被害諸国民との『和解』を達成するために、歴史研究者と歴史教育者に課せられた社会的責務は、侵略・加害の歴史事実を究明し、戦後戦争責任の課題を提起、それを国民の共通認識にすることにある、という問題意識で書かれている」(『南京事件論争史』)。
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《侵略の事実を明らかにするのは歴史研究者の責任》
南京事件における日本軍の侵略・虐殺の事実・実態を明らかにするという基本課題に先鞭をつけたのは本多勝一『中国の旅』(1971)、歴史研究者としては洞富雄の仕事だったが、それまで戦後数十年間、歴史研究者は南京大虐殺を放置してきた。そのために、教科書検定問題をはじめ、「まぼろし説」「虚構説」の横行、国民の侵略戦争意識の変化を許す社会状況をもたらすという弊害となって現われている。南京事件や侵略戦争の責任を歴史的に解明し、追及することが新しい「戦前」への歩みを阻止する力につながる。
《パナイ号事件の謀略 なぜ南京事件の全貌は報道されなかったか》
当時南京にいた新聞記者の誰ひとり「虐殺」の事実をみていない、という「虚構説」を批判し、日本軍による南京占領前日に起こったパナイ号事件について詳しく述べている。中華民国の首都だった南京には多数の外交官、ジャーナリストが駐在していたが、日本軍の攻撃が激しくなり、長江(揚子江)に停泊していたアメリカ船パナイ号に避難していた。日本軍はこれを爆撃した。この爆撃により、南京は陸の「孤島」となった。
《世界に知られていた南京大虐殺》
「まぼろし説」が、戦前の厳しい言論弾圧に目を塞ぎ、「南京大虐殺は戦後の東京裁判ででっち上げられたもの」と言うのは、戦前のことを詳しく知らない人をたぶらかそうとするものである。
日本人は当時知らなかったが、南京占領後も南京にとどまったキリスト教の伝道者たち、南京のアメリカ大使館員、外国人ジャーナリスト、南京滞在のドイツ人・在南京ドイツ大使館員たちの手により、日本軍の暴虐が手紙、フィルム(マギー牧師)等を通じて海外に知らされ、日本軍の蛮行に対する激しい非難を呼んだ。
《南京大虐殺の真相》
南京大虐殺は家永教科書裁判(第3次訴訟)の重要な争点。裁判で国側代理人は、南京大虐殺は組織的犯行ではなかった、強姦はどこの国の軍隊でもやっていると、当時の軍とまったく同じ言い訳である。残虐行為の総体について、投降後の中国兵の殺害、民間人の殺害、強姦及び強姦殺害、財産権の侵害、生存権・生活権の侵害をあげ、死者数については、8万人の投降兵殺害と、それを上回ることはない民間人の殺害、と指摘し、「少数説」(秦郁彦『南京事件』中公新書)の4万人を批判している。数の問題に性急にこだわらず、南京大虐殺事件の総体を明らかにする研究作業がまず第一に求められるのではないか、とも述べている。
《アジアのなかの日本軍》
日本軍の凌辱によって生涯を犠牲にされた中国人女性、中国で「蝗軍」と呼ばれた天皇の軍隊、加害者でもあり軍上層部の被害者でもあったフィリピン戦(兵士生還率は23%)での日本兵、「大東亜共栄圏」の下で凌辱されたアジアの女性
たちについて述べている。日本兵の死を「犬死」に終らせないためには、アジア民衆からみれば明らかに侵略戦争であったアジア太平洋戦争を「正当な戦争」とすることではなく、残虐非道な戦争だったことを徹底解明し、国民の総意として侵略戦争を反省し、二度と戦争をしないことではないか。
《被害アジア諸国民との「和解」への道》
地域共同体形成に向う世界史の流れからみると、タカ派ジャーナリズムや右翼が、日本の侵略戦争・加害の歴史を発掘し、被害者への精神的・物質的補償の実現に努力しようとしている良心的な人々に向って悪罵を投げつけているのは、彼らの主観とは正反対の非「愛国」的行為ではないか。
日本国憲法の前文と第九条は、天皇制ファシズムが発動した侵略戦争に「負けて目覚めた」日本国民が、帝国主義国民であった「過去を克服」し、平和と民主主義を擁護する国民に生まれ変わり、将来の世界平和建設に貢献する国民となる決意を歴史的に宣言したものと理解できる。日本国民には、連合国が裁かなかった 日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配の責任を日本国民自らが裁くという課題が残されている。
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■「憲法と平和を考える100冊」 No.49
江口圭一著『日本の侵略と日本人の戦争観』
岩波ブックレット(1995/1/20発行、62ページ、400円) |
| 先週、かながわく九条の会のイベントで見学した靖国神社・遊就館では、アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、「自存自衛の戦争」「東アジア解放のための戦争」と捕えている。遊就館の「ミュージアムショップ」では、この4月から、横浜市の半数以上の中学生が使用することが強行「決定」された自由社の歴史教科書(の市販本)が販売されていた。いま改めて、日本の行った戦争をどう見るか、という「戦争観」、侵略戦争に対する認識が問われているのではないか、ということで、この1冊。1994年5月3日、愛知憲法会議主催で行われた『憲法施行47周年市民のつどい』での「日本の侵略と戦争責任 〜日清戦争100周年に寄せて」と題する講演を収録したもの。著者は、1932年、名古屋生まれ、2003年9月26日死去。日本近現代史専攻。 |
《ポツダム宣言は近代日本の戦争による膨張をトータルに否定》
1993年8月10日、細川護煕首相は、首相就任に当たっての記者会見で「私は先の大戦を侵略戦争、間違った戦争だと認識しています」と発言し、歴代首相として初めて日本の行った戦争を「侵略戦争」と明言した。
日本が受諾したポツダム宣言第8項では、「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」とカイロ宣言を含んでいる。カイロ宣言では、「第一次世界大戦以後に日本国が奪取又は占領した太平洋における一切の島嶼の剥奪」「満州、台湾、澎湖島のごとく日本国が清国人より盗取した一切の地域の中華民国への返還」を宣言している。ポツダム宣言は、日清戦争にさかのぼって、近代日本の戦争による膨張をトータルに否定しているのである。
《アジアを植民地化した欧米列強から非難されたくない?「米英同罪史観」》
細川発言に対して、英米も同罪ではないか、なぜ日本だけが侵略したと非難されるのか、と考える人が結構多い。
しかし、1917年のロシア革命で、レーニンが無併合、無賠償の講和をアピールし、民族自決を主張し、ロシア革命とその影響下で始まった中国革命の進展をみて、世界の列強は一定の反省をした。これが1921〜2年のワシントン会議で、日本は膠州湾、イギリスは威海衛、フランスは広州湾を返還することが決まり、日清戦争後の中国侵略を列強は清算することになった。
ところが、朝鮮と満州にしがみついたのが日本だった。主権尊重・民族平等という国際社会の原理・原則にたてば、日本は、中国の国権回復の要求に応えなくてはならなかった。しかし、日本が実際に行ったのは満州事変。ここから十五年戦争が始まっていく。
《ABCDに包囲されたやむにやまれぬ戦争だった?「自衛戦争史観」》
1941年夏頃から、政府は「ABCD包囲陣」ということを言い出した。しかし、イギリス(B)は、ドイツに攻められ、オランダ(D)は占領され、中国(C)は日本軍に主要都市を占領されていた。日本に脅威を与えるような軍事力は持っていなかった。唯一アメリカ(A)だけが、日本への石油・鉄の禁輸などの経済制裁を行ったが、その原因をつくったのが日本であったことを忘れてはならない。直接の原因は、日本の南進(仏印進駐)だが、南進の原因は、満州事変の延長である日中戦争にあった。
《日本はアジア諸国を解放した?「解放戦争史観」》
日本のおこなった「大東亜戦争」の結果、アジア諸民族が独立を勝ち取った、と考えている人も多い。「大東亜共栄圏」をつくって、欧米列強の支配からアジアを解放するというのが日本の大義名分だったが、ではなぜ日本は朝鮮を独立させなかったのか、朝鮮はアジアではないのか。太平洋戦争開戦直前に日本政府が決定した「南方占領地行政実施要領」という極秘文書で「重要国防資源の急速獲得」を戦争の目的としている。
《限られた戦争体験だけでなく正しい歴史認識を》
戦争中の「飢餓体験」を語る人も多いが、日本本土で戦争中餓死した人はいない。45年9月2日のベトナム民主共和国独立宣言は、日本の略奪により、200万人が餓死した、と述べている。
戦争体験者の「体験」は、歴史認識とは別物である。また、戦死した肉親が「侵略者」だったとは思いたくないという「殉国史観」があるが、日本人の国家イメージと深く関わっている。「国に殉じた」というときの国とは何か。「大日本帝国」という政府ではないのか。大日本帝国は、臣民に「殉国」を強要していたことを忘れてはならない。
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■「憲法と平和を考える100冊」 No.48
川崎昭一郎監修『第五福竜丸とともに 被爆者から21世紀の君たちへ』
新科学出版社(2001/3/1発行、124ページ、1300円+税) |
3月1日のビキニデーに先だって、2月27日、かながわく九条の会で第五福竜丸展示館を見学してきました。原爆ドームが私たちに語りかけるように、この船も見る者に「2度と核兵器の被害者を出さないで!」「核兵器廃絶を!」と語りかけてきます。
本書は、第1部「被爆者から21世紀の君たちへ」と第2部「第五福竜丸展示館へようこそ」から構成。第1部は、第五福竜丸元乗組員の大石又七さんが2000年10月21日、和光中学校の生徒たちに語った「証言」に加筆されたもの、第2部は、第五福竜丸展示館の紹介です。中学生にもわかるように優しく書かれています。 |
《木造船「第五福龍丸」》
戦争で徴用されて多くの船が沈没してしまい、戦争が終わった1945年当時、漁をしようにも船がなかった。そこで、みんな近くにある木を伐って第五福竜丸のような木造船がつくられた。100トンという制限があるのに、140トンの船が造られた。安全面ではとても危険な船であった。1947年、神奈川県三崎港のカツオ漁船「第七事代丸」として造られたが、4年ほど操業し、激しい走り方をするカツオ漁は出来なくなり、赤道付近の穏やかな海で漁をするマグロ漁船に改造され、焼津港の「第五福竜丸」となった。
《14歳で漁師に》
1945年9月、大石さんの父親は、工場の事故で亡くなってしまい、大石さんは中学2年で退学し、焼津の親戚を頼って漁師になった。5年間カツオ漁船で働いたあと、誘われて第五福竜丸に乗った。1954年1月22日、焼津港を出港、翌日が大石さん20歳の誕生日だった。乗組員は皆若く、23人の乗組員のうち、30代は3人、残りは10代、20代。
鳥島沖から東のミッドウェー方面に針路を変更、2月7日にミッドウェーに着いたものの、不漁のため、漁場を変えながら南下し、ビキニ海域に近づいた。食糧も燃料も限界のため、3月1日を最後の操業にすることになり、夜中の1時からこの航海で14回めの投縄(マグロはえ縄を海に入れる作業、走りながら4時間かかる)を行い、午前4時頃終了、マグロがかかるのを待っていた。
《ビキニ水爆実験に遭遇》
まだ夜明け前で暗いのに、突然、夕焼けのような明るい空が現われた。それが4〜5分続き、またもとの暗闇に戻った。船の幹部は、入れ終わったばかりのはえ縄を引き上げること(通常巻き上げには13時間かかる)を指示。
朝食を食べようとしているところに、「ドドドドドドーッ!」という轟音が襲った。4時30分から揚げ縄の作業が始まる。空が白み始め、西の空にキノコ雲が浮き出てきた。晴れていたのに曇り空になり、風も強くなってきた。最初の光から2時間からほどすると雨が降ってきて、その中に白い灰のような粉が。白い粉は、シャツ1枚で作業する船員に容赦なく当たり、眼、鼻、口、耳に入る。体に積もる灰を払いもせずに作業を続けた。
その日の夕方から、吐き気、めまい、下痢などが始まり、2日目には火傷のような水ぶくれが出来た。1週間め頃から毛髪が抜け始め、放射能の灰に包まれ2 週間かけて焼津に帰港。
《すでに11人が死亡》
大石さんたち16人は国立東京第一病院に入院(他は東大病院)。20日ほどすると、白血球が減り、体がだるくなってきた。皆の世話を焼いていた同室の久保山愛吉さんが9月23日に死亡。残りの22人は1年2ヶ月の入院生活を送るが、入院中の輸血でC型肝炎に感染してしまう。23人の乗組員のうち、現在すでに11人が亡くなっているが、ほとんどが癌などの放射能汚染が死因である。大石さんは、若者たちに核兵器の恐ろしさを語り、どうしたらなくせるか考え、行動してほしい、と訴える。
《第五福龍丸展示館へようこそ》
第2部では、第五福竜丸展示館の展示内容にそって解説が行われている。なぜ夢の島が母港になったのか。第五福竜丸は何を訴えているのか。核実験は何をもたらしたのか。被害を受けたのは第五福龍丸だけではなく、多くの漁船が放射能を浴びたこと、魚や海、空も汚染されたこと。最後に、館内の展示品の解説と、展示館の外にある第五福竜丸のエンジン、久保山愛吉さんの記念碑、マグロ塚について説明されている。
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| 戦中にタイムスリップ 事実に基づいた歴史を認識しないと・・ |
| ■第五福竜丸&靖国神社・遊就館フィールドワークの感想2■ 2010/03/02 |
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お世話様でした。第5福竜丸もゆっくりみて、紙芝居も見たりと良かったです。
アメリカも日本政府も責任を取らなかった。みんなの声がなければあの船もなきものにされていたかと思うと腹が立ちます。5月9日のコンサートも申し込んでしまいました。
遊就館は3回目でした。初めて映画を見てひどいと思いました。普段街の中ではミリタリーオタクの人たちしか行かないような売店の品揃えも異常。展示は巧妙に侵略の事実を隠し、若者の死を美化。少年少女を死へと追い詰めた責任はどこにもありません。館全体が戦中にタイムスリップしたようです。
売店には4月から横浜市内8区で使われる自由社の教科書が売られてます。靖国と遊就館の考え方がそのまま映されているなと改めて思いました。自分たちがちゃんと事実に基づいた歴史をきちんと認識しないと、若い人たちに誤った歴史が継承されてしまう危険な時ですね。
(前田みどり)
(注)5月9日(日)午後4時30分より、都立第五福竜丸展示館において、指揮;林光、合唱;東京混声合唱団、ピアノ;寺嶋陸也 というコンサートがあり、受付でチラシを配布していました。
「第五福竜丸展示館コンサート」 ひびきあう福竜丸のしらべ 広島・長崎被曝六五年「林光
原爆小景 ヒバクシャとともに」 2010年5月9日(日) 都立第五福竜丸展示館 午後4時00分開場 午後4時30分開演 指揮;林光 合唱;東京混声合唱団 ピアノ;寺嶋陸也 チケット;4000円(限定100席) チケットの申込・お問い合せ;第五福竜丸平和協会 電話03−3521−8494 FAX03−3521−2900 【事務局;小林】
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■森澤典子さん講演「パレスチナ 占領下で暮らすということ」■ 2010/02/28
3月の第6回「たかつ九条サロン」では、戦乱のパレスチナに単身赴き、パレスチナの人々と暮らした経験のある森澤典子さんにお出でいただき、お話を伺います。
パレスチナ問題は、中東紛争の核心部分でもありますが、私たちは余りにもこれについて知りません。知られざるパレスチナのお話が聞けます、また、今まで目にしたこともない映像も…。是非お出で下いますようご案内します。
森澤典子さんにお聞きする
「パレスチナ−
占領下で暮らすということ−」
(主催 川崎・「たかつ九条の会」)
3 月6 日(土)
午後1時半開会 東急田園都市線溝の口駅、JR南武線武蔵溝ノ口駅前 ノクティプラザ2号館(マルイ)12階の高津市民館、第6会議室 お茶、コーヒーを用意します。(参加協力費500円) 森沢典子さん;
2002年3月情勢の悪化するイスラエル・パレスチナへ一人で入り、帰国後作成したルポが大きな反響を呼び、各地で講演活動を行う。映画『パレスチナ1948・NAKBA』の製作者。『1コマ』サポーターズ代表。著書に『パレスチナが見たい』他。 高津市民館地図
http://www.city.kawasaki.jp/88/88takasi/home/map.htm
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【事務局;小林】
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被爆での本人、家族の悲しみ
事件をきっかけに「原水爆禁止大会」始まる |
| ■第五福竜丸&靖国神社・遊就館フィールドワークの感想1■ 2010/02/28 |
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昨日の展示館では、第五福竜丸の乗組員の思いもよらない被爆での本人、家族の悲しみが痛いほど伝わってきました。特に、久保山愛吉さんの闘病の様子が、担当医師によって綴られた手記もあり、自分の身体を実験材料にしてでも放射能汚染を証明して、二度とこんなことが起こらないようにと医師に願い、辛い治療や検査にも苦しい姿を見せずに耐えたそうです。医師団も力を尽くし検査結果をだしましたが、アメリカは久保山さんの持病であり、死んだことまで疑い、日本の医師まで信用せず被爆によるものであると認めなかった…医師団の悔しさが文面から滲み出てました。
全国からの励ましの手紙も展示され、あの事件をきっかけに原水爆禁止、母親たちによる平和運動のうねりがまきおこったことが肌で感じられました。久保山さんの奥さんが母親大会で発言した原稿もあり、「母親はこどもを守り育てるだけではなく戦争をさせないこと…」という最後の言葉は重みを感じずにはいられませんでした。
廃棄、沈められる手前で保存運動で残された第五福竜丸ですが、他に廃棄された漁船…四百五十三隻もあったのは驚きでした。
十年位前に参加した長崎の原水禁で、ビキニ環礁の住民の一人が「日本は唯一の被爆国だというが、そうではない。我々もヒバクシャだ」と
強く訴えていたことが蘇りました。
靖国神社は、戦争美化のぞっとする異常な空間に嫌悪感を感じるとともに、教育の中で自分の正直な気持ちを言ったり、行動できずにいた人たちの痛々しさを遺書などから感じました。特に心に残ったのは、若い特攻隊に贈られた女子挺身隊の血のメッセージです。「必沈」という文字が女子の髪の束で縫い込まれ、
敵の艦船に命をかけて突っ込み沈没させることを強く願い、讃えるものです。…可愛い女の子達にこんな物を貰った若い男子は…失敗して生きて帰ることは罪悪であり恥ずかしいことと感じ、無駄に命を無くした若者の姿を想像して辛くなりました。特攻隊の零戦の翼を触ったら私の力でも曲げたり折れたりしそうな位、心細くきゃしゃな機体でした…悲しくなりました…
人の命を大切にすることを究極まで否定する戦争は、世界のどこでもあってはならない。今、九条の会の存在意義をあらためて感じてます。
(小杉己江子)
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| ■第五福竜丸&靖国神社・遊就館フィールドワーク■ 2010/02/28 |
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かながわく九条の会は、2月27日(土)、東京都江東区夢の島にある都立第五福龍丸展示館と、千代田区九段北にある靖国神社・遊就館の見学会(フィールドワーク)を行いました。
心配された雨もそれほど激しくなく、じっくり憲法と平和を考えることができました。参加者は、子ども2人を含め9人でした。
午前9時15分、東神奈川駅に集合し、10時20分には新木場駅に到着。潮の香りが漂うなかに、都立第五福竜丸展示館はありました。私たちが入館してしばらくしたところに団体さん(COOPの方たち)が到着し、展示館職員の方によるレクチャーもありました(私たちもちゃっかり聞いていました)。
いまここに第五福竜丸があるのは、この船を守った心ある先人たちの運動があったから。あらためて、その努力に報いたいと思います。言葉だけでなく、そこに存在しているものがある、ということが大切だと思いました。
では、横浜・神奈川区の私たちにとって、後世に伝えなくてはならないものとは何か。横浜大空襲、神大寺への米軍機墜落事故、岸根の基地化反対運動と基地返還運動、村雨橋での米軍戦車阻止闘争、今は返還されたミルクプラントなどの米軍施設、現在もあるノースドック(ノースピア)等々。第五福竜丸は、未来に向けて核兵器廃絶を訴える貴重な存在だが、私たちでなければ出来ないこともあるのではとも思いました。
展示館の外には、第五福竜丸のエンジンが展示されています。第五福竜丸(当時の名前ははやぶさ丸)が廃船処分になり、その売られてしまったエンジンを積んだ船、第三千代川丸が熊野灘に沈没し、最近になって、やはりこれも心ある人たちの努力で海中から引き上げられたものです。「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と言い残してなくなられた久保山愛吉さんの記念碑、マグロ塚もあります。それらを見学して、第五福竜丸展示館をあとにしました。
新木場駅から地下鉄を使うと、20分ほどで靖国神社の最寄り駅・九段下駅に着きます。九段下の交差点からは九段会館、坂の途中では日本武道館の屋根が見えます。地下鉄九段下駅1番出口を出ると、正面の坂の上に大鳥居が、その先には、大村益次郎の銅像が見えてきます。参加者は、境内を一通り見学したあと、遊就館を見学しました。解散予定時間を大幅にこえてじっくり見学しました。
参加者のなかには、2度目、3度目という方もいらっしゃいましたが、私は、靖国神社は、今回初めてでした。広大な敷地に戦前と同じように存在しているという事実にあらためて圧倒されました。遊就館の展示は、話には聞いていましたが、とても勉強になりました。私にすれば、沖縄戦で戦死し「靖国」に祀られている伯父も、館内の壁に展示されていた多くの戦没者たちも、国家により戦争に駆り出され、殺したくない「敵」を殺させられ、「加害者」となり、そして自分自身も死ななくてはならなかった「戦争の被害者」だと思いますが、「靖国」ではその死を讃えられる「お国のためにいのちを賭けて戦った英雄であり、戦死して英霊となった神々」として扱われています。
上映されていた『私たちは忘れない 〜感謝と祈りと誇りを〜』(企画・制作/日本会議・英霊にこたえる会)という、「大東亜戦争」は自存自衛のための戦争、アジアの欧米植民地の人たちを欧米の支配から解放するための戦争、と描くビデオを見て、再びこのような歴史観で教育されていく子ども達が生まれようとしていることに、恐ろしさも感じました。
遊就館の展示やビデオを見ていて、現場の先生方の意見や保護者の声を無視して強引に自由社の歴史教科書の「採択」を決定した横浜市教育委員会に対して、あらためて許せないと思いました。「子ども達のために、今大人が立ち上がるとき」だと思いました。
(小林
孝生)
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