かながわく九条の会
        
             since_________ 2009/03/11
             last update__2010/08/29
             count_____     

「かながわく九条の会」は、神奈川県横浜市神奈川区を中心にした地域の賛同者が結成した九条の会です。
(発足/2008年9月26日)


■■ M E N U ■■
  アピール
  News_2010
  News_2009
  リンク
  会・文庫
  会・ニュース
  署名用紙
  入会申込書
  事務局通信

「かながわく九条の会」へメール送信
お問い合わせ
   は、こちらに








メール kanagawaku_9jo_nokai@yahoo.co.jp

日本国憲法・全文  ■■ 日本国憲法 第九条 ■■
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


Top news

New 事務局通信あり <詳細は、こちらをクリックしてください。


 原水禁世界大会での熱い体験を語る
■建設横浜「平和のつどい」■ 2010/08/27

 建設横浜「平和のつどい」が8月27日、東神奈川・建設プラザで開かれ、原水禁世界大会に参加した15人が出席。広島3日間の熱い体験とその思いを語りました。

 第1部は、「『今伝えたい』〜あの日からのメッセージ〜」(製作:高校生1万人署名活動実行委員会)の被害者証言ビデオが上映されました。その生々しい実体験を語る被爆者の声は胸を突き刺しました。

 NPT再検討会議代表団はニューヨーク行動の報告。町中での署名行動の様子。国連までの大パレードと署名提出。労組との交流集会。リバーサイド教会でのコンサートとシンポジウム。国連訪問などをスライドで説明しました。

 原水禁世界大会参加者は壇上から、広島での体験をそれぞれ語りました。

 ▼法橋修二(川崎支部) 潘基文(バンギムン)国連事務総長が「核兵器は要らない」と発言しているのに、被爆国の首相が「核の抑止力は必要」というのは残念だ。7〜10兆円あるという隠れ軍事費を回せばもっといい国になる。式典の静寂に連帯感を感じた。

 ▼功刀正(鶴見支部) 世界大会の参加者が7000人とは驚いた。広島の町の比較写真を見て、その被害の大きさに恐ろしさを感じた。「爆弾は戦争がなくならない限り無くならないのかなあ」と思うと切ない。核兵器がテロに使われたら・・と米は気づいたのか。

 ▼吉田雄一(緑支部) 世界でも被爆地があったのは、今回初めて学んで驚きでした。平和資料館の蝋人形は衝撃的でした。

 ▼松井太一(港北支部) 何千度の熱で鉄が気化してしまうとは信じられない。腕を吹っ飛ばされて戻った兵隊に、「何で生きて戻ってきた」という上官の言葉が象徴している。無茶苦茶な戦争だった。核抑止論がまかり通っているが、平和利用もあてにならない。クリーンエネルギーを使えばいい。

 ▼内田秀巳(神奈川支部) 一発で14万人。長崎は7万人が死に、負傷者も同じくらいいた。二度と使って欲しくない。米軍に30年で5兆円もの援助金。10万人の保育園の2倍の金額だという。25ヵ国の合計(援助国は26ヵ国)より多額というのは異常だ。日米軍事同盟を破棄できるはずだ。戦争、原爆の恐ろしさを伝えて、何処にでも行け好きなものを食べられる今の平和を守っていけるよう頑張っていきたい。

 ▼佐々木伸一(保土ヶ谷支部) 世界中で核被害がある。ビキニ環礁で第五福竜丸被爆もあった。国内で原爆保有の原子力空母などの寄港には怒りをおぼえる。団結して声をあげていきたい。

 ▼武田信吾(旭瀬谷支部) 世界大会会場で、「こんなにたくさんの人が取り組んでいるんだ」と思い、日本人なのに無関心だった自分に気づいた。「核で命を奪われ涙しながら撮った一枚の写真」を見て、私は涙が止まらなかった。この貴重な体験を子供たちや未来の若者に訴えていく。核兵器の恐ろしさを学び、仲間に出逢えたことを感謝している。
 ▼東海大基(西支部) 資料館で驚いた。2発で20万人の人が亡くなり、心に深い傷を負った。唯一の被爆国が曖昧な態度をとるのは許せない。神奈川に原子力空母が来る。政府は何も学ばないのか、悔しい。

 ▼大木祥一(南支部) 強制連行されて被爆した人もいたのは憤りをおぼえた。英仏の代表、ルース駐日米大使も来たが謝罪はなかった。NHKで見た「真珠湾を忘れるな」の言葉が印象に残っている。「自分に何が出来るか」考えさせられた。

 ▼荻久保源一(港南支部) 米英仏の代表が来、国連事務総長が「核なき世界は実現できる」と発言した。核廃絶の運動は前進している一方、横須賀入港も事実で恐ろしい被爆の危険もある。核の恐ろしさを伝える義務があると実感した。路面電車から川を見て惨劇を思い起こした。プライベートで行って、子供にも知ってもらいたいと思った。

 ▼小澤陽一(中支部) 2、30代の人が多くてビックリした。核実験での被爆も無くしていかなければならない。核廃絶運動に自分も頑張る。

 ▼鈴木康司(磯子支部) 被爆者は2世、3世になってきた。若い人に参加してもらい被害を伝えてもらいたい。どんどん参加して、危険性の声を広めていきたい。中学生が署名を片言の英語で直向きにしていたことに心打たれました。

 ▼沼田加奈子(主婦の会) 核は平和のために使えばどんなに有効か。今も掘ると骨が出てくるといいます。生々しい被爆体験を聞きながら胸が苦しくなりました。

 ▼西山敦之(青年部) 私が組合運動に深く関わるようになったのは4年前の広島参加がきっかけ。平和を担っていく若者が多く行って欲しい。世界平和のため頑張る。

 ▼安斎史人(書記) 「核が必要」と言った菅首相の言葉が印象に残る。





「憲法と平和を考える100冊」 No.65
 坂本龍彦著『孫に語り伝える「満州」』
              岩波ジュニア新書(1998/1/20発行、215ページ、640円)
 
 著者は、1933年山梨県生まれ。満州で敗戦を迎える。早稲田大学文学部卒業、1957年、朝日新聞社入社、社会部、編集委員を経て、1993年退社。
 本書は、満州で終戦を迎えた著者が、その体験を中1、小5の2人の孫に語るという形で書かれている。1942年3月から単身満州に渡り、北東部の千振開拓農学校の教員をしていた父に連れられ、著者(当時小4)は同年夏、両親と妹(小1)、弟(3歳)の家族5人で満州に渡る。一家が暮らした千振村は、第2次開拓移民の村で、1933年の入植以来10年で、468戸、1870人に達していた。

《「満州」の歴史》
 満州という地名は、満州族(女真族首長のモンジュ菩薩信仰に由来)という民族の名がもとになっている。満州族の祖先は、沿海州地方に住んでいた狩猟・漁業の民、ツングース族。紀元前後には高句麗国を建設。8世紀には、その後継民族が渤海国を建設したが、926年、モンゴル系の遼に滅ぼされ、以後女真族と名乗る。女真族は、1115年、金を建国、満州、蒙古、華北を支配するが、1234年、元に攻められて滅亡し、16世紀まで、元と明の支配下に置かれる。1616年、ヌルハチが女真族を統一し、後金を建国。ヌルハチの子ホンタイジが国号を清に改め、1644年、明をおさえ、中国全土を支配した。
 19世紀には、アヘン戦争、第二次アヘン戦争で、香港等の領土を割譲等、様々な主権を失い、ロシアとの国境画定条約で広大な領土を失った。また、日露戦争後、北満州はロシア、南満州は日本と、勢力圏を取り決めた(中国抜きで)。1917
年のロシア革命後のシベリア出兵は失敗に終り、1922年に撤退するが、満州支配の野望を募らせた。
 1928年6月4日には、張作霖爆殺事件、1931年9月18日には、満州事変を引き起こし、1932年3月1日、満州国建国を宣言したが、人事権から軍事権まで日本に握られた傀儡国家であった。

《中国人の土地を奪い、開拓民に》
 満州国建国以前、日本人農業移民は、満鉄付属地の740戸だけだったが、満州国創設で大量移民が可能になり、1936年までの試験移民期間に2785戸が入植している。広田弘毅内閣は、以後20年間に100万戸を送り出す「満州農業移民計画」を打ち出した。
 はじめは関東軍が前面に出て強制買収をおこなっていたが、反日闘争にこりて、半官半民の満州拓殖株式会社(満拓)を設立し、移民用の土地の買収、経営にあたることになった。没収した国有地、官有地だけでは不足するため、満拓本社は、36年以降、地図上で買収地を設定し、価格も決定して、一方的に地主に通告した。農民が拒むと、警察が来て脅し、買収した。開拓農家に配分される土地は、耕作地10ha、牧草地10haの合計20ha。しかし、その土地を全部耕すことはできず、小作料を取って労働しない開拓民も出てきた。1942年当時、弥栄村では、73.5%は現地住民が耕す小作地であった。

《ソ連参戦と日本の敗戦》
 ソ連国境に近い千振村での生活は1年ほどで、父親の転勤のため、1943年8月、南満州の錦州に転居した。44年3月には、北満州の北安省にある四国村に移った。著者はここで中学進学を迎え、45年4月からはハルビンの中学校で寄宿舎生活を送り、ここで終戦を迎える。ハルビン中学はソ連軍の兵舎として接収され、寮を出た中学生たちはソ連軍の労役(ジャガイモ掘り)をさせられた。家族が暮らす四国村では、ソ連の参戦後、中国人の襲撃を受けた。その後、ハルビンまでの二百数十キロの逃避行。9月末、家族との再会。46年3月まで続いたソ連軍の占領。家族は空き家になった満鉄の官舎で生活。親しい友人の収容所での死。

《なぜ、死ななければならなかったか?》
 1986年2月、40年振りに再訪。残留夫人や残留孤児を訪ねる毎日。45年8月のソ連侵攻当時、「満州」には、155万人の日本人がいた。敗戦後の日本人の死者は約22万人。このうち開拓団関係の死者は9万人。約1万人は自決。なぜ、彼らは死ななければならなかったのか。
 関東軍が撤退し、ソ連軍や中国人に襲撃された日本人は「地獄の有様」であった。これに対して、日本政府は全くの無策であった。その当時、ある大本営参謀は、「内地における食糧事情等を考え」、また将来の大日本帝国再興に備えて大陸にできるだけ多くの日本人を残しておきたい、という狙いから、日本人をそのまま「満州」、朝鮮半島に住まわせるようソ連側に依頼する、という報告を書いている。満州からの難民引き揚げ部隊の第一陣が日本に向けて出発したのは、1946年5月14日のことだった。




「憲法と平和を考える100冊」 No.64
 北岡秀郎・熊本県原爆被害者団体協議会・原爆症認定訴訟熊本弁護団編著『原爆症認定訴訟 熊本のヒバクシャたち』
                  花伝社(2006/7/12発行、88ページ、800円+税)

 本書を読んで、被爆者の方々の現状について何も知らなかった不明を恥じました。本書は、札幌、仙台、埼玉、千葉、東京、横浜、静岡、名古屋、大阪、広島、熊本、長崎、鹿児島の全国13の地方裁判所においておこなわれてきた「原爆症認定集団訴訟」のうち、熊本裁判の弁護団と熊本被団協、ルポライターの北岡氏が「熊本のヒバクシャたち」について書いたブックレットである。この後各地で、国の認定基準の不備を指摘する判決が相次ぎ、国は、2008年4月に積極認定する新基準を導入、2009年6月にも積極認定の追加をおこなった(東奥日報http://www.toonippo.co.jp/news_hyakka
/hyakka2009/0803_7.html
)。

《被爆者は26万人 なのに原爆症認定患者は2000人》
 熊本にも約2000人の被爆者が居住している。学徒動員先の長崎の造船所などで被爆したものである。直接の被爆による死者のみならず、被爆後救援のために広島、長崎に入った人たちなどの入市被爆者、黒い雨を浴びた人たち、放射能に汚染された水を飲んだりした体内被爆者。運良く生き残った人たちも、癌などの疾病に健康を損なわれて長い間苦しんできた。被爆者のうち「被爆者健康手帳」の交付を受けている人たちが全国で26万人。ところが、「原爆症」認定患者は、全国でわずか2000人。この落差こそ、政府の貧困な被爆者政策の結果だ(被爆者手帳が交付されると医療費などの援助が受けられ、一定の要件の下で、月額3万3800円の健康管理手当も支給される。原爆症の認定がされると、さらに月額13万7430円の医療特別手当の支給が受けられる(http://dailynews.yahoo.co.jp/fc%2Fdomestic%2Fatomic_bomb%2F
#backToPagetop
)。

《国は長年にわたり被爆者を放置》
 1957年に原爆医療法(健康診断費用などを支給)、1963年に原爆特別措置法(健康管理手当等の支給)が制定されるまで、国は被爆者に対する救済措置を全くとらなかった。1954年のビキニ事件を機に原水爆禁止運動が高揚し、1956年に日本被団協が結成される等運動が発展するなかで、2つの法律が制定されたが、その救済措置は被爆者の実態やねがいからはかけ離れたものであり、被爆者は「被爆者援護法」の制定を求めて運動してきた。そして1995年に上記2法が統合され、被爆者援護法が施行された。しかし、この法律で被爆者が「原爆症」と認められるには、高いハードルがあり、「原爆症」認定患者は、1982年以降、2000人前後にとどまっている。それは、原爆症認定患者に支給される医療費等の予算枠が2000人分だからだという。

《立ち上がり始めた被爆者たち》
 被爆者たちはいま、全国で原爆症認定訴訟に立ち上がっている。それはなぜか。第1に、被爆者の高齢化に伴い症状が悪化し、これが最後の機会と立ち上がったこと。第2に、子どもたちが成人し、遠隔地で生活し、家族が差別を受けにくくなったという状況の変化(そのような条件がなく、現在もまだ声をあげられない多くの被爆者もいる)。第3に、湾岸戦争、イラク戦争等の世界情勢が再び核兵器が使用されるかもしれない、という危機感を呼び起こしたこと。今なぜ、ではなく、今だからこそ、立ち上がったのである。

《本書の構成》
 以上が、第1章「いま、なぜ原爆症か」。2章は「原爆症Q&A」、3章「プロジェクト04とは」、4章「プロジェクト04で何が明らかになったか」は、水俣病認定訴訟等の経験を持つ熊本弁護団が、水俣病の疫学調査の経験に学び、約800人を対象に、被爆者と非被爆者の健康等の社会的調査を実施したが、その目的や調査から明らかになったこと等をQ&A形式で説明している。5章は「原爆症裁判が明らかにしたもの」、6章は「原告の訴え」、7章は、2006年5月12日、大阪地裁で原告被爆者9人全員勝訴の判決を勝ち取った近畿訴訟弁護団の坂井優弁護士による「近畿判決の画期的意義と全面勝訴への展望」、巻末に近畿訴訟の判決要旨等の資料が付せられている。
 本書出版後、原爆症認定訴訟は、国が全国で連続して敗訴、認定基準を改めさせる等の大きな変化を生み出している。

時論公論・原爆症認定 敗訴続く国側 - NHK解説委員室(2007年3月23日)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/2350.html
時論公論 「原爆症認定 急がれる救済」 - NHK解説委員室(2008年6月2日)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/9261.html





たかつ九条の会  講演会の案内
 ■たかつ九条の会 講演会■ 2010/08/13

 九条かながわの会のメーリングリストに講演会の案内がありましたのでご紹介します。

<<第8回・たかつ九条サロン>>

 「韓国併合100年」〜日本近代史のゆがみを考える〜 
講師;山田朗 明治大学教授
日時;9月1日(水) 午後6時半開会
会場;高津市民館視聴覚室(武蔵溝ノ口駅前マルイ11階) 
参加協力費;500円(お茶、コーヒーを用意)
主催;たかつ九条の会






「金井さんの報告に『ディナさんコンサート』の感動が蘇りました」 
 ■ディナ・ハンチャードさん「ライブコンサート」2■ 2010/08/11
 当日司会をつとめていただいた小杉さんから返信がありました。
 以下、小杉さんのメール本文です。

 金井さんの報告を読ませていただき、再びディナさんのコンサートの感動が蘇りました。透き通る歌声、ハートから湧きあがるピアノの音色… 自然に自由に動く魂そのものに感じた指の動きにも見入ってしまいました。司会の緊張もいつの間にか忘れてその場にいることの幸せに浸ってしまいました。
 その後、イタリアンを食べながらのディナさんや準備してきた仲間との会食も幸せな一時で… 海外の人とじっくり平和の話をできたのは初めてで…ディナさんのような人がアメリカにいっぱいいたらアメリカ人がアメリカからも日本の基地をなくせ! との運動が湧き起こるに違いない! と思えて平和の輪を世界に広げることの大事さをしみじみ感じました!

 大袈裟といわれるかもしれませんが、生きててよかったと思えたひと時でした。そして、金井さんを始め、かながわく九条の会での平和で繋がれた仲間ができたことの幸せ、音楽を通じて平和運動できる喜びを感じることもできました。こんな機会を作っていただいた金井さんに感謝です! ありがとうございました!
 音楽家前田夫妻の力も偉大で素晴らしいですね! 小林さんの静かな通訳にも助けられました! 毎日ディナさんのCD聞いて心穏やかになってます。

 今度は二周年準備ですね!! 私は今日から夏休みでゆっくりです。では皆さんお元気で!
                                     (小杉 己江子)





「ディナさんコンサート」に感激 
 ■ディナ・ハンチャードさん「ライブコンサート」1■ 2010/08/11

 皆さま 少し遅くなりましたが、8月3日のディナ・ハンチャードさんのコンサート、無事終了しました。
 収支の方も黒字になり、カンパも頂きました。参加者は会場一杯の35名でした。会場の都合で、もっと多くの方に参加していただくことができず申し訳ありませんでした。
 参加された皆さんからは、「とても素晴らしかった」という感想をたくさん頂きました。

 5月には、ニューヨークのリバーサイドチャーチでもディナさんの演奏をお聴きになられ、今回のコンサートを提案して下さった金井ゆりさんからもメールを頂きました。

 「昨日の夜、広島から戻ってまいりました。原水禁大会には全国から8000人以上の方の参加がありました。神奈川県からは300名余りの方が参加しました。そして何名かの方が、開会式や翌日の分科会で、神奈川県の基地の実態や米軍兵士による犯罪などについて報告をしています。
 ディナさんは、洗足音楽大学の学生、卒業生で作る“アンサンブル人間”の方達と、大会中、いくつかの場所でパフォーマンスをされていました。閉会式にも、一旦お開きになった後でしたが、登場されました。舞台の上で、参加者の若者たち、海外からの来賓の方々、きたがわてつさん、歌手である千羽鶴のさだ子さんの甥御さんたちと「ねがい」や、「We shall over come」などを合唱し、大盛り上がりとなりました。
 夕方には原爆資料館の裏手、アオギリの木のある方で、被爆ピアノでライブをされました。その時はフルートの方とのコラボレーションでしたが、道行く人も足を止めて澄んだ調べを楽しんでいました。彼女はライブの最後に、みんなで歌いたい、みんな来て、と客席の人たちに声をかけました。すると20人くらいの人がピアノの周りに集まり、あの “ Peace on earth ” の合唱となりました。被爆者の方でしょうか、その輪の中にいらした年配の女性の方がずっと手を合わせながら歌声に耳を傾けていたのが印象的でした。そこにいた人たちがひとつになって地球に平和を、の歌声を平和公園に響かせ、核兵器のない世の中になることを願ったすばらしい時間となりました。
 かながわく9条の会でディナさんを呼んでくださり、ありがとうございました。たくさんお客様が来てくださり、お帰りには皆さんよかった、と言ってくださったのでうれしかったです。前田さんが神奈川区のチーム力を感じたとおっしゃっていましたが、本当にそのとおりだと思います。
 お世話になり、ありがとうございました。

PS. あ、それから、一昨日、ディナさんのお別れパーティーをしたのですが、(昨日、一旦帰国されました。)今回の来日では、平和についての取り組みをしている人たちの前で歌えてよかったと言っていました。そう言ってくださって、うれしいですね。」


 また、畑野さんがお書きになったコンサートの記事が、8月6日の「しんぶん赤旗」に掲載されました。内容は以下の通りです。
「横浜・神奈川区/9条の会がコンサート/横浜市の「かながわく九条の会」は3日、結成2周年記念プレイベントとしてジャズシンガーのディナ・ハンチャードさんのコンサートを開きました。
 ディナさんは5月のNPT(核不拡散条約)再検討会議のとき、ニューヨークのリバーサイドチャーチで平和を訴える「ねがい」を歌った歌手。自身も参加する原水爆禁止世界大会について「平和を願う人たちがいっぱい集まる。戦争をなくせる気がする」と思いを語りました。
 神奈川区在住のバイオリニスト、前田みどりさんも共演しました。」

 立秋が過ぎたとはいえ、まだまだ暑い日が続きます。皆さま、熱中症には気をつけてお過ごしください。次回事務局会議は、8月20日(金)夜7時から、会
場は会事務所です。【事務局;小林】




上記以前の記事は、こちらに→ News_2010
                       News_2009