かながわく九条の会
        
             since_________ 2009/03/11
             last update__2011/07/20
                  


「かながわく九条の会」は、神奈川県横浜市神奈川区を中心にした地域の賛同者が結成した九条の会です。

















News 2011


 「放射能と私たちのくらし」講演 平和を考える
■かながわく九条の会「結成3周年のつどい」お知らせ■ 2011/10/02
案内チラシ 拡大表示します
 「放射能汚染って?」「乳製品は大丈夫?」「学校給食は?」「土壌が汚染されて根菜類やイモ類は食べても大丈夫?」「とろろ昆布は被爆に効くの?」・・・・・
 私たちが心配な放射能汚染について分かりやすくお話してくださいます。

 3周年を迎え、このテーマから平和を考えることにしました。どうかご参加ください。(主催かながわく九条の会)

 内容: かながわく九条の会 活動報告と講演会
      講師:須藤恵美さん(物理学者・大学教員)
 日時: 10月22日(土)午前10時〜12時30分
 場所: 神ノ木地区センター 3F多目的室(和室)
 参加費: 500円(資料代含む)

 定員に限りがありますのでお早めに、FAXまたはメールにてお申し込みください。
   FAX: 045-314-1982
   Email: kanagawaku_9jo_nokai@yahoo.co.jp

 詳細はこのチラシをお読みください。>案内チラシ




「憲法と平和を考える100冊」 No.93
 小西豊治著『憲法「押しつけ」論の幻』
        講談社現代新書(2006/7/20発行、205ページ、700円+税)
 著者は、1948年石川県生まれ。中央大学法学部卒業、明治大学大学院政治経済学研究科博士課程修了。専攻は日本政治思想史、日本法制史。明治維新史学会会員。法制史学会会員。
 育鵬社「歴史」教科書は、「GHQは、わが国に対し憲法の改正を要求しました。日本側は、大日本帝国憲法は近代立憲主義に基づいたものであり、部分的な修正で十分と考えました。しかし、GHQは日本側の改正案を拒否し、自ら全面的な改正案を作成すると、これを受け入れるよう日本側に強くせまりました。天皇の地位に影響がおよぶことをおそれた政府は、これを受け入れ、日本語に翻訳された改正案を、政府提案として帝国議会で審議しました。議会審議では、細かな点までGHQとの協議が必要であり、議員はGHQの意向に反対の声をあげることができず、ほとんど無修正で採択されました。」と記述しています(「わが国」「日本側」ではなく、「日本政府」というべき。帝国議会で重要な修正があったことは周知の事実)。
 本書は、多くの史料から、日本国憲法の核心が「日本側」の発案であったことを論証しています。

《プロローグ GHQが注目した憲法草案》
 アメリカが日本に憲法を押し付けたと言うが、「国民主権」(象徴天皇制)を明記するという憲法構想をアメリカは持っていなかった。それをアメリカに気づかせたのが明治期の自由民権運動に起源を持つ憲法研究会の憲法草案である。つまり、日本国憲法の最も重要な部分は日本のオリジナルであった。

《憲法研究会》
 憲法研究会の初会合は、1945年11月5日。高野岩三郎が問題提起し、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩渕辰雄、鈴木安蔵、馬場恒吾の7名のメンバーにより憲法草案が起草された。一方、幣原内閣は、10月13日の臨時閣議で、憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)発足を決定、憲法調査を開始した。

《鈴木安蔵の自由民権運動研究》
 憲法研究会の中心人物・鈴木安蔵は、1904年3月、福島県相馬郡に生まれ、第二高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科に入学。1925年、経済学部に転部。1926年1月、初の治安維持法違反事件である学連事件で検挙され、翌年自主退学。1929年逮捕され、1932年までの入獄。獄中での読書がその後の研究に大いに役立つ。1933年、『憲法の歴史的研究』を刊行、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」に注目する。

《鈴木安蔵と憲法研究会の天皇構想》
 鈴木は、1945年10月頃から憲法改正を考え始める。「明治憲法をそのままにして民主化が可能との見解は支持できない」。ちょうどその頃、高野から声をかけられる。憲法研究会の第一次案は、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」に依拠し、「国民主権の宣言規定」、「儀礼的代表としての天皇規定」を盛り込んだ。

《ラウエル中佐と総司令部民政局》
 1945年12月26日、憲法研究会案は、首相官邸に届けられ、翌日の各紙は一面で報じた。これに注目したGHQ民政局法規課長ラウエルは、スタンフォード大学・同大学ロースクール卒業、1926年から43年まで弁護士。民政局には、公認会計士、大学教員等知的水準の高い人物が多かった。

《ラウエル「所見」とマッカーサー草案》
 ラウエルは、1946年1月11日、憲法研究会案を高く評価する「所見」を総司令部に提出している。アメリカはそれまで国民主権を明確に規定する方針を持っていなかったが、マッカーサー草案第一次案で初めて国民主権を明確にした。憲法研究会案はラウエル「所見」を通じて、日本国憲法の先導的役割を果たした。

《ノーマンという媒介者》
 カナダ外務省から総司令部に派遣された日本近代史研究者のハーバート・ノーマンは鈴木とも接触があった。鈴木 = ノーマン = ラウエルを通じて、日本近代史に根を持つデモクラシーに魂が吹き込まれ、日本国憲法に息づいている。この後、《「象徴天皇」をめぐって》《憲法研究会の「象徴天皇」》の2章が続く。
 育鵬社教科書が印象づけようとする「押し付け憲法論」で子どもたちに「自国の歴史への誇り」が育つのだろうか。むしろ、明治政府が圧殺した自由民権の息吹が60年の時を超え、憲法研究会草案を経て日本国憲法において実ったことにロマンと「誇り」を感じる子どもたちがたくさんいるのではないか。





 広大な田園の稲穂のなか、奏でる演奏が涙を誘う
■映画「アンダンテ〜稲の旋律〜」上映会■ 2011/08/28

 映画「アンダンテ〜稲の旋律〜」が26日、東神奈川の神奈川公会堂ホールで上映され、420人あまりが鑑賞しました。神奈川支部は、50人くらいが訪れました。主催は、神奈川区上映実行委員会。

 映画は、東日本大震災復興支援チャリティ上映会と銘打って開催され、募金活動も行われました。

 上映に先立ち、映画挿入曲の美しい旋律「カノン」が、前田みどりさん(ヴァイオリン)ら3人によって演奏され、会場が魅了されました。

 原作者旭爪あかねさんの小説を映画化した作品。社会になじめない劣等感から部屋に閉じこもる主人公の女性が、自然農業に取り組む人々にふれ、次第に自分を確立していく。広大な田園の稲穂の中で町の人々に囲まれ、主人公の奏でるグランドピアノから流れる演奏が涙を誘いました。
                                              (瀧川恒夫)




■青年劇場第104回公演「普天間」 告知■ 2011/08/25

 みなさま

 来る9月23日(金・祝)に、青年劇場のお芝居が紅葉坂であります。
 前売券を持っていますので、必要な方は声をかけて下さい。
                   【事務局;小林】



青年劇場第104回公演「普天間」
         坂手洋二作・藤井ごう演出

と き; 2011年9月23日(金・祝)
開 演; 14時(開場;13時30分)
ところ; 神奈川県立青少年センター
チケット;一般4,500円・30歳以下3,000円(当日各300円増)






「憲法と平和を考える100冊」 No.92
 林博史著BC級戦犯裁判』
        
岩波新書(2005/6/21発行、218ページ、740円+税)
 著者は1955年生まれ、一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、関東学院大学教授。現代史専攻。
 育鵬社の歴史教科書P232の「読み物コラム・東京裁判」には、東京裁判の記述のあとに「また、捕虜虐待などの戦争犯罪に問われた軍人なども、横浜やシンガポール、マニラなど各地の裁判所で裁かれ、1000人を超える人々が、十分な弁護を受けることもなく死刑に処せられました。」という記述があります。中学生はこの文章をどう読むでしょうか。
 本書は、「冷静さを失い、排外的なナショナリズムや他者へのバッシングが横行し、日本の戦争責任への自覚も戦争への抵抗感も薄れて来ている日本社会」を憂う著者により、「日本自らの過去と現在を冷静にかつ自己反省的に見つめることが必要」と執筆されました。

《なぜ、いま戦犯裁判か》
 BC級戦犯裁判というと、連合軍捕虜に対する残虐行為が裁かれたとか、上官命令に従っただけの下級兵士までもが極刑に処せられたというイメージが強いが、実際には様々なケースがあり単純ではない。これまでの議論では、感情的に戦犯裁判を非難し、戦犯裁判を否定することで、日本の侵略戦争と残虐行為の事実すら否定し、日本を正当化しようとする政治的弁論に利用される傾向がある。連合国を批判するだけで何の発展性もない議論に終始している。日本国憲法の理念を生かしていくためにも、日本の戦争犯罪の問題にきちんと取り組み、反省と改革、謝罪と補償を通じて、戦争否定への努力を進めていくべき。

《なぜ戦争犯罪が裁かれることになったのか》
 戦争犯罪には2つの内容があり、一つは、非人道兵器の禁止や捕虜・傷病者の保護を求めたハーグ陸戦法規(18991907年)、ウィーン条約(1929年)等を根拠とする「極端な惨害を避けるため」の「戦時犯罪」。
 もう一つは、第一次大戦の反省から、侵略戦争を違法とし、戦争に訴えること自体を禁止しようとする考え方である。ヴェルサイユ条約(1920年)では戦勝国による戦争犯罪人の処罰を認め、「国際法上の犯罪である戦争犯罪」へと性格が変化した(日本も戦勝国として承認)。
 前者は「通例の戦争犯罪」(B級)、後者は「平和に対する罪」(A級)と呼ばれ、後者は処罰の手続きが決まるのが45年8月で事後法と批判されることになるが、前者は第二次大戦以前から、国際法上被害国が犯罪者を裁くことが認められていた。

《ドイツによる残虐行為の被害を受けた中小国が主張》
 第二次大戦中のドイツや日本による残虐行為は広範な地域で大規模におこなわれた。1942年1月、連合国は、残虐行為の責任者の処罰を初めて公式に宣言。米英は消極的だったが、194310月、17ヶ国が参加して連合国戦争犯罪委員会が発足した。1945年8月8日、国際軍事裁判所条例が調印され、「平和に対する罪」(A級)、「通例の戦争犯罪」(B級)、「人道に対する罪」(C級)が定式化された。
 アメリカは、日本に対しては自ら主導権をとることにし、極東国際軍事裁判所条例を制定した。戦後日本政府は自主裁判の動きも見せたが、軍法会議で8人を行政処分したにとどまり、連合国はこれを禁止。民間では、弁護士の布施辰治が4512月、「戦争犯罪人処罰私案」を発表、日本共産党等は12月8日、「戦争犯罪人追及人民大会」を開催し、1600人の戦犯リストを提出したが、このような動きが広がることはなかった。

《戦犯裁判はどう進んだか》
 第2章は、BC級戦犯裁判の手続きと対日裁判の全体的経過、裁判の全般的な特徴を紹介。5700人が起訴され、934人が死刑。
 第3章は、英、米、豪、蘭、比、中、仏、ソの8ヶ国での戦犯裁判について特徴をまとめている。 第4章では、アジア民衆、連合国捕虜、女性に対する犯罪の三つに分け、被害の実態と戦犯裁判の内容について考える。
 第5章では、日本軍に利用され捨てられた朝鮮人・台湾人「戦犯」、日本軍の証拠隠滅工作、昭和天皇をはじめとする「裁かれなかった者」、裁いた者たちの問題を考える。
 第6章は、講和条約発効とともに始まった戦犯復権への動きを辿る。衆参両院は52年6月の決議をはじめ度々戦犯釈放決議(共産党はアジア人民への真剣な反省を鈍らせると反対)をおこない、「戦犯」を犠牲者とする見方が広がった。
 終章では、「BC級戦犯裁判とは何だったのか」を振り返る。

日本の現代史と戦争責任についてのホームページ(林博史研究室)
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/index.html




「憲法と平和を考える100冊」 No.91
 中里成章著『パル判事〜インド・ナショナリズムと東京裁判〜』
        
岩波新書(2011/2/18発行、238ページ、800円+税)
 著者は、1946年北海道生まれ、東京大学文学部東洋史学科卒業。Ph.D(カルカッタ大学)。東京大学東洋文化研究所教授等を経て、2010年から東京大学名誉教授。南アジア近現代史専攻。
 横浜市教委が採択を強行した育鵬社の歴史教科書に「読み物コラム・東京裁判」という頁がある(P232)。東京裁判とは、勝者が敗者を事後法によって裁いたもので、東条英機以下7人が死刑となったこと、日本の政治家・軍人たちが戦争犯罪者として裁かれた一方、米軍の東京大空襲や原爆投下などは裁かれなかったことが語られている。ここで紹介されているのが、東京裁判で被告全員無罪を主張したパル判事。
 本書は、東京裁判否定論者により「神話」化されているパル判事の本格的な評伝である。
 ちなみに、外務省のホームページに東京裁判についての日本政府の見解があります。
外務省: 歴史問題Q&A http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/09.html

《序章 パルをめぐる記憶》
 東京裁判は、第二次世界大戦に勝利した連合国が、日本の戦争指導者を「平和に対する罪」で訴追し、米英等11ヶ国の判事団が審理し、多数派判決は被告全員を有罪とするものであった。5人の少数意見があり、なかでもパルは被告全員無罪との判断を示し注目された。
 裁判の対象となったのは、1928年の張作霖爆殺事件からの期間。しかし、不幸なことに、日本は60年以上を経た今も歴史認識問題に主体的な決着がつけられないでいる。アジア太平洋戦争は侵略戦争ではなく自衛のための戦争、アジアを解放するための戦争だったという見解をとる人が少なからずいる。彼らは「自虐史観」「東京裁判史観」と言って、侵略戦争を否定するが、その一つの根拠とされるのがパル意見書である。パルとは一体どのような人物だったのか。

《1章 ガンジス川ほとりの村で》
 第1章は、パルの生い立ちを追う。ラダビノド・パルは、1886年1月27日、カルカッタの北北東170キロのベンガル州・シャリムプル村に生まれた。1905年、ベンガル州の名門、プレジデンシー・カレッジに入学。ベンガル州分割反対運動の渦中であった。カレッジ時代の友人には、日本軍の捕虜となったインド兵を「インド国民軍」として組織したチャンドラ・ボースと直接的な関わりを持つ人物がいた。

《2章 法曹エリートへの道》
 プレジデンシー・カレッジは、インド植民地社会のエリートの登竜門であった。パルは数学を専攻する傍ら、法学の勉強も始めていた。卒業後、カレッジの数学教師の職についたが、母親が納得せず、34歳でカルカッタ大学法学修士試験に合格、1921年、カルカッタで所得税法専門の弁護士を開業するとともに、カルカッタ大学法学部講師に採用された。1941年、カルカッタ高等裁判所判事代行に就任。1944年、カルカッタ大学副学長に。この間のパルを著者は「右寄りの政治志向生を持つ法律家」と捉えている。

《3章 東京へ 東京裁判とパル意見書》
 1946年5月3日の開廷直前、パルはインド代表判事に任命され、5月14日に東京に到着。既に起訴状朗読、罪状認否は終っていた。公判は446回開かれたが、パルは109回欠席。
 パルは、47年1月には、意見書を各判事に配っていたが、裁判の初期の段階で弁護側の主張に同意する方針を決めていた。パル意見書は、欧米植民地主義を批判する一方で、戦場となった中国を置き去りにして、日本軍国主義を擁護した。

《4章 明と暗の晩年 国際社会とインドの間で》
 パルは、名声を博す一方、晩年、所得税法事件で暗転してしまう。1967年1月10日、80歳で永眠。

《5章 パル神話の形成》
 日本におけるパルの捉え方は特異なものである。「実像」を超え「神話」化された裏には、日本における東京裁判批判を目的とする動きがあった。彼らは、パル意見書の出版、パルの日本への招聘、などを通じて東京裁判否定をはかった。
 1998年の国際刑事裁判所ローマ規程にもとづき、2003年、国際刑事裁判所が設立された。戦争犯罪を国際的に裁く道が開かれた。その中で、東京裁判の経験が注目されているという。

国際刑事裁判所




「憲法と平和を考える100冊」 No.90
 安島太佳由(やすじま たかよし)著『日本の戦跡を見る』
       岩波ジュニア新書(
2003/12/19発行、216ページ、780円+税)
 著者は、1959年福岡県生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業。大日本印刷CDC写真部、広告制作会社などを経て、フリーカメラマンとして活動。平成6年度文化庁インターンシップ研修員。?日本写真協会会員。第8回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞受賞。
 2011年5月29日、かながわく九条の会は、「横浜大空襲フィールドワーク&体験談を聞く会」を実施しました。反町駅に集合し、本覚寺、甚行寺、洲崎神社、幸ヶ谷公園、熊野神社などを見て回りました。1945年5月29日の横浜大空襲で大きな被害を受けた神奈川区ですが、「原爆ドーム」のような遺構は残っていません。しかし、今回のフィールドワークで、いつも通り過ぎているすぐ足元に、黒く焼けこげた墓石、「侵略戦争」に駆り出され戦死した兵士を顕彰する碑などを「再発見」することが出来ました。本書は、日本各地に残っている戦争遺跡を訪ね、撮影した写真により構成されており、著者は「これらの遺跡に私たちから語りかけることにより、忘れ去られている戦跡に命を吹き込むことが出来る」と述べています。

《戦争の傷痕 原爆・地上戦・空襲》
 第1章では、「戦争被害の戦跡」として、広島(原爆ドーム、旧日本銀行広島支店)、長崎(山王神社の鳥居、被爆したクスノキ、浦上天主堂の聖人像)、沖縄(伊江島の米軍艦砲射撃を受けて穴だらけになった公益質屋跡、集団自決がおこなわれた読谷村・チビチリガマ、沖縄県具志頭村のガラビ・ヌヌマチガマ、豊見城市・小禄旧海軍司令部壕)、東京都東大和市の日立航空機立川工場変電所跡、東京大空襲で黒く焼け炭化したイチョウの木(墨田区・飛木稲荷神社)、機銃掃射で死亡した学童を偲ぶ地蔵(八王子市相即寺)の写真が紹介されている。これらの戦闘で死亡したのは一般民衆だったことを忘れてはならない、と著者。

《軍事国家へ 全国各地にある戦争のための施設跡》
 第2章では、81枚の写真を使って、明治以降の日本が軍事国家体制突き進んでいったことを物語る。舞鶴要塞葦谷砲台掩蔽壕跡、函館要塞薬師山砲台掩蔽壕跡、津軽要塞竜飛監視哨跡、猿島砲台弾薬庫跡、東京湾要塞第二海堡砲台跡、芸予要塞大久野島中部砲台跡、由良要塞友ヶ島砲台跡、佐世保要塞弾薬庫跡等の写真が続く。今は樹木が繁り苔むした岬等にひっそりと佇む戦跡。神奈川県内では、旧横須賀海軍工厰第一号ドライドック、旧陸軍登戸研究所の建物等が紹介されている。畑や水田の片隅に残るものもあれば、大阪市東淀川区に残る高射砲台跡のように、民家に囲まれ、今も人が住んでいるものまである。
 後半では、厳密には「戦争遺跡」と言えるのかどうかわからないが、旧陸海軍の将校の親睦や集会に利用された建物等が紹介されている。旧旭川偕行社(旭川市彫刻美術館)、近衛師団旧司令部庁舎(国立近代美術館工芸館)、旧軍人会館(九段会館)、旧金沢陸軍兵器支厰兵器庫(石川県立歴史博物館)等は現在も健在だ。最後に、靖国神社遊就館に展示されている零戦など兵器の写真が数枚紹介されている。

《精神的支柱 国民を戦争に動員した思想》
 第3章は、ほんの10ページほどだが、宮崎市平和台公園の「八紘一宇の塔」、湯河原町五所神社の奉安殿、東京港区青松寺にある爆弾三勇士のひとり江下武二像、靖国神社第一の鳥居、遊就館で「靖国の神々」として展示されている遺影、仙台市にある西南の役から日清戦争までに戦死した東北各地の将兵を慰霊する「昭忠塔」などが紹介されている。神奈川区内にも、幸ヶ谷公園には日清戦争から第二次世界大戦までの「陣歿者」を慰霊する「表忠碑」、洲崎神社には「皇紀二千六百年」と刻まれた石灯籠、などがあります。

《本土決戦に備えて》
 第4章では、各地に残るトーチカ跡、掩体壕跡を中心に、特攻の出撃基地となった鹿児島県知覧、人間魚雷「回天」の発射訓練基地跡のある山口県大津島、いまも壊れた兵器の残骸が残る小笠原村・母島などの写真が紹介される。港北区日吉の慶応義塾大学地下にある連合艦隊司令部地下壕跡、長野市の松代大本営象山地下壕跡なども最後に紹介されている。



「憲法と平和を考える100冊」 No.89
 藤原彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か 〜藤岡信勝氏の「歴史教育・平和教育」論批判〜』
             大月書店(1996/1/19発行、269ページ、1950円)
 編者・藤原は、1922年生まれ。41年、陸軍士官学校卒業、歩兵小隊長、中隊長として中国戦線に参加。49年、東京大学文学部史学科卒業。日本現代史専攻。一橋大学教授などを歴任。2003226日死去。
 森田は、1921年台北市生まれ。42年、東京外国語学校を短縮卒業。同盟通信社に入社するも召集され、陸軍第147連隊砲兵中隊に配属。伊豆諸島新島で敗戦を迎える。60年、国民教育研究所所長。和光大学、東京大学などで非常勤講師。74年、日本平和教育研究協議会を結成。91年、民主教育研究所所長。2010年8月29日死去。


 「民主教育」の立場に立っていた藤岡信勝東大教育学部教授(当時)が、その立場を180度転換して戦後の歴史教育・社会科教育を攻撃するようになったのは1994年4月頃。本書は、それから1年半ほどして出版された。執筆者は総勢26人。執筆者の中には、藤岡氏の主張は学問の名に値しない暴論で、まともに議論することは気が進まない、という論者も少なくなかった。しかし、いかに出鱈目な議論であっても、政治的なバックアップ体制のもと、マスコミを動員すれば、世論に一定の影響を及ぼすことも出来る。本書出版から15年を経て、歴史教科書問題に揺れた2011年。国民的なレベルでの歴史認識が改めて問われている。

《戦後一貫した政治的主張をうけて登場した藤岡氏》
 序章「いま近現代史をどう学ぶか」は、まず政治家の侵略戦争美化発言を振り返る。その主張は、(1)日本と欧米はどちらも植民地支配をおこなおうとした点で同列だ。(2)日本のおこなった戦争は自衛戦争だ。(3)満州事変以後は誤りだったが、その責任は軍部にある。明治維新以降の歴史は正しかった。この第三の立場こそ、学習指導要領が一貫してとってきたもの。このような政治状況のもと登場したのが藤岡氏。その活動は『読売新聞』『産経新聞』などで好意的に論評され、影響を広げており、見過ごすことは出来ない。

《近現代史の真実は何か》
 第1部「近現代史の真実は何か」は、日露戦争、朝鮮に対する植民地支配、南京大虐殺、万人坑、原爆投下、昭和天皇の戦争責任、アジア太平洋戦争の性格など、18のテーマで藤岡氏を批判。
 藤岡氏は戦後歴史学を「東京裁判史観」と呼んで批判するが、「東京裁判」判決が日本の支配層を極端な軍国主義者と「穏健な」政治指導者のグループ(昭和天皇など)にわけ、後者を免責するという二元論をとっていたことを戦後歴史学は批判して来た。昭和天皇の戦争責任を認めない彼らこそが「東京裁判史観」ではないか。東京裁判を全面否定するということは、それを受諾したサンフランシスコ条約を破棄し、国連脱退という戦前歩んだ道をふたたび歩もうということなのか(粟屋憲太郎「『東京裁判史観』とは」)。
 紙数がないので、以下、論文のタイトルをいくつか紹介する。「歴史の事実にもとづく近現代史認識を」「『明治時代』の日本社会は明るかったのか」「石橋湛山その自由主義・小日本主義」「天皇の軍隊の本質」「統計数字で歴史の真実はどこまで描けるか」「『日本のマルクス主義歴史学=コミンテルン史観』という断定はなりたつか」「いま『国家』を強調することの意味は何か」。論者は、本多勝一・笠原十九司等。

 《いま求められる平和教育とは》
 第2部では、藤岡氏の教育論を批判する。佐貫浩「戦後日本の平和教育の到達点と課題」は、 (1)戦争学習において「被害、加害、抵抗、たたかい」を教えるという視点、(2)日本の侵略の残酷さは、侵略者へと駆り立てられた日本の民衆の悲惨と重なっているという視点、(3)日本の平和教育は悲惨・残酷な事実の学習には注意深い教育的配慮が必要であることを指摘してきたこと、という戦後平和教育の到達点を無視していると批判。政治教育が一貫して抑圧されて来た中での「政治的教養」を獲得させるための学習の不足、知識詰め込みと暗記中心授業の改善など課題をあげる。森田俊男「非暴力の国際秩序をめざして」は、ユネスコなどの国際的な軍縮教育の動きを紹介。また、戦前の日本でも、文部省は『修身』に「国交」を導入し、不戦条約なども取り上げられ、それを使った実践もあったという興味深い事実を紹介している。

 他に「いま子どもたちは近現代史をどう学んでいるか」「藤岡氏のディベート論について」「今日の自衛隊と安保条約」「湾岸戦争と日本の国際的役割」の諸論文が掲載されている。




「憲法と平和を考える100冊」 No.88
 梅田正己著『この国のゆくえ 〜教科書・日の丸・靖国 〜』
     岩波ジュニア新書(2001/10/19発行、228ページ、780円+税)
 著者は、1936年生まれ。一橋大学社会学部卒業。1959年三省堂入社。63年高校生対象の月刊紙『学制通信』の創刊とともにその編集を担当。68年三省堂新書編集部に移る。72年、仲間とともに出版社・高文研を設立。現在、高文研代表。
 藤沢市、神奈川県、横浜市の各教委は、侵略戦争を賛美し、愛国心を鼓舞する育鵬社の教科書を採択した。いったいこの国の「ゆくえ」はどうなるのか。本書は、長年高校生に語りかけて来た著者の、靖国、教科書、自衛隊等の問題などでの発言を収録したもの。10年前の発行だが、今まさに問題になっている「教科書問題」を読み解く手がかりを与えてくれる。

《靖国と教科書》
 2001年8月15日は2つの問題で注目された。一つは、小泉首相の靖国神社公式参拝。もう一つが、8月15日に締め切られる教科書採択で「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校歴史教科書がどれくらい採択されるのか、であった。 4月の自民党総裁選から公式参拝を公言して来た小泉首相は、8月13日、突如靖国神社を参拝。中国、韓国両政府は強い遺憾の意を表明した。一方、「つくる会」の歴史教科書を採択したのは、公立では都立・愛媛県立の養護学校各2校と私立学校6校だけであった。
 しかし、ここで紹介されている「つくる会」出現までの「前史」をみると、非常に根深いものを感じる。1993年8月の細川首相の「侵略戦争」発言に反発した自民党議員105名は歴史検討委員会を結成、1995年8月15日に『大東亜戦争の総括』を発行。この年の1月、藤岡信勝東大教授が主宰する「自由主義教育研究会」が発足。1997年1月には「新しい歴史教科書をつくる会」を設立、199910月には「つくる会」会長の西尾幹二著『国民の歴史』を発行、全国の学校などにばらまいた。その後「つくる会」は、現場の教職員などの意見で採択されていた教科書を、現場を無視し、教育委員会の「責任」で採択できるように請願運動をおこない、33道県議会と220を超す市町村議会で採択された。2001年4月には「つくる会」の教科書が137ヶ所の検定意見をつけられながら教科書検定に「合格」したのである。

《「紀元節」復活から国旗・国歌法まで》
 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史観は、極めて「古い」。戦前教育を受けた人にとっては「懐かしい」ものでもある。戦後のいわゆる教科書問題は、1955年の『うれうべき教科書の問題』に始まる。
 翌56年には教育委員会を公選制から任命制に変える法案と、教科書検定を強化するとともに教科書採択を教育委員会権限にする教科書法案が提出された。前者は強行成立されたが、後者は全国的な反対運動により廃案に。しかし、これこそ、今回「つくる会」が取り組んだ「教育委員会権限で教科書採択を」である。
 その後教科書検定は一層強化され、1963年には家永三郎東京教育大学執筆の高校日本史教科書を検定不合格処分に。1965年、家永氏は「教科書裁判」を提訴。検定で不合格とされた理由には、太平洋戦争の捉え方とともに、『古事記』『日本書紀』の編纂意図の記述があった。自由社・育鵬社の教科書はまさに、このときの文部省の検定意見と同じ。「つくる会」の教科書は、戦後半世紀、保守党の政治思想とその意を受けた文部行政の意向にぴったり添った教科書なのである。
 その後、1966年には祝日法の改正により「建国記念の日」が設けられ、67年2月11日、「紀元節」の復活、79年6月元号法成立、82年教科書問題、85年中曽根首相の靖国公式参拝、…と続く。

《「戦後50年」と靖国問題・「日の丸」問題と良心の自由・自衛隊海外出動と日米安保の変質》
 3〜5章は、著者が1980年代末から2001年前半まで『月刊ジュ・パンス』に毎月書き続けて来た高校生向けの文章を本書のテーマに沿って収録。最後の6章「このくにのゆくえ」で、著者は、21世紀に日本が信頼される国として生きていくためには「過去の克服」がどうしても必要だと言う。それを避けて相変わらず自己弁護と自己正当化を繰り返しながら暗い歴史を引きずっていくのか、それとも過ちを認める潔さと誠実さを持った国として国際社会で生きていくのか。それは子どもたちが選んでくれるはずだ。




公民教科書の採択を考える学習会 7月24日開催します
■歴史教科書問題を考える神奈川区民の会■ 2011/07/14
 いよいよ中学校の歴史・公民教科書の採択を決める教育委員会が2週間余りと迫って来ました。
 緊急ですが、歴史教科書問題を考える神奈川区民の会では、7月24日(日)に50人規模の学習会を実施することになりました。
 ぜひ、お誘い合わせの上ご参加ください。
                            【事務局;小林】
  歴史・公民教科書の採択を考える学習会
  日時;7月24日(日)午後3時30分〜
  会場;横浜長老教会
  講師;梅津弘子さん(元高校社会科教師)




ナターシャ・グジーさんが語る「チェルノブイリヒロシマ」■ 2011/07/13

NHK教育テレビ『視点・論点』出演
’08年8月6日(水) 午後10:50〜
チェルノブイリ原発付近に居住し、故郷を追われた
  ナターシャ・グジーさんが語る
      「チェルノブイリとヒロシマ
          "千と千尋〜"主題歌を熱唱。
     Nataliya Gudziy sings "Spirited Away"

Youtubeから >
 http://www.youtube.com/watch?v=ry_WACFd8Ds
ナターシャ・グジー公式ホームページ>
 http://www.office-zirka.com/index.htm
                              (瀧川恒夫)




原発をなくせ! 2万人の大合唱
■原発ゼロをめざす7・2緊急行動■ 2011/07/02

 原発ゼロをめざす7・2緊急行動が2日、千駄ヶ谷の明治公園で開かれ、猛暑のなか2万人を超す人々から「なくそう原発!」の大合唱が鳴り響きました。

 原発被災地となっている福島県伊達市霊山町の大橋芳啓元町長は、「10万人の世帯が全国に避難し、地域が分断されてしまった。原発さえなければと言って54歳の酪農家が命を絶っている。国、東電には賠償責任を果たしてもらう。安心して暮らせる土地を返せ。原発はいらない」と力を込めて発言しました。

 福島の母さんを代表して山田妙子さんは、「運動会は中止になり、学校の窓は開けられない。わが子を守りたい気持ちで、県や市に改善を強く要望しています。命あるもの全てを破壊する原発は要らない。安心できるまで諦めません」と訴えました。

 志位和夫共産党委員長は、「地震、津波は天災だが、原発は国、東電による人災だ」と全面賠償を求め、原発再稼動については「根拠がない」と撤廃を迫りました。さらに、「過去に3度の事故を起こしている原発を安全管理する方法はない。危険をなくすには、原発をなくすしかない。自然エネルギーに変えていく、それが世界の流れ」と話し、「原発ゼロの国をつくろう」と呼びかけました。

 ストップ原子力空母母港化裁判を進める会共同代表の今泉正夫さんは、「原子力空母GWは60万キロワットの原子炉を2基、横須賀港に浮かべている。注水施設など福島と同じ状況。安全神話は崩れた。子々孫々まで幸せを確保できるよう戦っていきたい」と語りました。

 愛媛の若人は、伊方原発の再稼動を憂慮して「第2の福島になる」と懸念を示し、「原発は必要なのでなく、政府と電力会社が作り上げたもの。原発ゼロの願いを伝えていきましょう」と訴え、会場を埋め尽くす参加者から割れんばかりの拍手を受けました。

 全労連 ビデオニュース> http://www.zenroren.gr.jp/jp/video/index.html
                                        (瀧川恒夫)




政治は母親の目線で  教育、福祉の先進国フィンランドの旅
■教育、福祉の先進国フィンランドの旅 体験記■ 2011/07/04

 6月5日、ある団体のツアーで6日間、森と湖・サンタクロースとムーミンの国、フィンランドツアーに参加した。

教育、福祉の先進国フィンランド
 フィンランドの国土は日本よりチョット狭いが国土の85パーセントが平地で、約10%が湖。人口は5百数十万人。
 ヘルシンキに連泊したが、街の建物は石造りで高層ビルはない。電柱もネオンサインもなく広々とした道路にはマロニエなどの街路樹が茂るがまま。公園や教会など街の至るところに、ライラック(リラ)・マロニエ・ナナカマドの花が咲き、滞在中は天気にも恵まれ、街中をショートパンツにオッパイが覗けそうな露出スタイルの娘さんがかっ歩していた。 
 観光のほかに、教育委員会、保育園、老人ホームなど福祉施設を視察。
 フィンランドは教育、医療、福祉は基本的にはすべて無料。但し収入の約3分の1は税金。

広々とした幼稚園
 3楷建ての建物には給食室のほか、冬場に備えて、遊具の揃った多目的ホールや小さな室内砂場もありお昼寝ルームは4坪ほどの部屋にベッドが2つ。庭は2つあり、ひとつはブランコ、滑り台、三輪車などの遊具広場、もうひとつは走り回れる広い庭。

宿題なしの夏休み 
 学校は、義務教育が9年、高校3年、大学4年で学費は無料。
 義務教育は、夏休み、6月5日〜8月末、秋休み1週間、クリスマス2週間、2月にスキィー休み1週間と春休み2週間その他日曜祭日で年間の登校日は180日。夏休みを含め休み中の宿題はなし。それで世界第3位の学力だとのこと。教科書は全て先生が選ぶ方式で、科目により1クラスの人数を変えている。数学など考えたり工夫が必要な科目は1クラス20人。冬はマイナス20℃で校庭に散水すれば1夜でスケートリンクができるとのこと。

充実した老人施設 
 首都ヘルシンキの郊外にある公立老人ホームを訪ねた。
 軽井沢の別荘地を思わせるような数千坪の敷地に外壁が煉瓦の3階建ての建物がA〜Hの13棟(Gは事務管理棟)の施設があった。入所者517人に対し、医師、看護師、介護師、事務員、牧師、掃除・雑用などスタッフは480人。各棟は地下道で結ばれ、台車で食事が運ばれエレベーターで各楷の食堂に配膳される。各棟には食堂、ホール、サウナもある。テレビ、パソコン、本館には図書室、ピアノもある。入所者の健康はパソコンで管理され、ベッドの下にはモニターもセットされている。入所者の部屋は4坪くらいでほかに洗面所が付いている。
 手入れの行き届いた芝生の庭には、プールや大きなパラソルの下に椅子とテーブルが置かれ、施設の一角が湖に面していて釣りもできる。
 私たちが訪ねたとき、十数人がパラソルの下に団欒していて、ガイドさんが日本から来た旨を告げると1人の男性が素晴らしい声で「百万本のバラ」を歌ってくれたので、こちらもお礼にと「上を向いて歩こう・幸せなら手をたたこう」をみんなで歌うと、すぐに一緒に手をたたいて喜んでくれた。「音楽に国境はない」を実感した。1人の女性参加者が日本のお土産にと折鶴など折り紙細工を歌ってくれた男性に渡し、しばしの間意気投合してきた。
 フィンランドでは老人は在宅介護が基本で、75歳以上の老人を自宅介護した場合1人3、6万円〜8万円、2人の場合は2倍の補助金が支給される。75歳以上は誰でも入れるが。介護手当をもらってデーサービスを受けながら在宅介護をしている家庭も多いと言う。入所費は、高い、低いにかかわらず年金の82%でOK。

女性が動けば政治は変わる
 こうした福祉優先の国を築いたのは女性パワーで、フィンランドでは、大統領、国や地方議員の6割以上が女性で、役所、学校、病院、福祉施設、図書館、美術館、劇場などの館長・所長の6割以上が女性だという。
 国家予算の4分に1は福祉に使われているそうです。
日本の政治家は北欧では税金が高いからできるのだと言っているが、大企業優遇、アメリカ言いなりの政治家に果たしてできるだろうか。税金にゆとりができたら、再び高速道路や「ハコ物」を造るのではないでしょうか。

※ 参加者の感想、ああーラーメンが喰いたいよー、刺身で焼酎が飲みたいよーでした。

五七五
  空青く リラにマロニエ ヘルシンキ
  森深し 鏡の湖面 鴨みだす
                             (井草正光)




「歴史・公民教科書採択に反対する署名」にご協力ください
教科書問題 署名願い■ 2011/07/04
 小学生(3〜6年生)の保護者の皆さん、
          子どもたちの教科書が大変なことになっています。

 憲法敵視・侵略戦争肯定の
          「歴史・公民教科書採択に反対する署名」にご協力ください。

 自由社・育鵬社による憲法敵視・侵略戦争賛美の歴史・公民教科書の採択に反対する署名は、 締め切りが7月10日と迫って来ましたが、もうお済みでしょうか?

 横浜教科書採択連絡会では、ネット署名にもとりくんでいます。紙の署名に署名されていない方なら、可能ですので、アドレスをお知らせします。転送・転載・リンクも可です。
    署名のページは、 https://sites.google.com/site/shiminssl/
    横浜教科書採択連絡会のHPは、http://sites.google.com/site/ykshimin/です。




公民教科書の採択を考える学習会 7月24日開催します
■歴史教科書問題を考える神奈川区民の会■ 2011/07/14
 いよいよ中学校の歴史・公民教科書の採択を決める教育委員会が2週間余りと迫って来ました。
 緊急ですが、歴史教科書問題を考える神奈川区民の会では、7月24日(日)に50人規模の学習会を実施することになりました。
 ぜひ、お誘い合わせの上ご参加ください。
                                   【事務局;小林】
  歴史・公民教科書の採択を考える学習会
  日時;7月24日(日)午後3時30分〜
  会場;横浜長老教会
  講師;梅津弘子さん(元高校社会科教師)




兵隊さんが二十名位消火に当たっていたが、どうにもならない
■横浜大空襲 体験者の証言(第8回)
 中村大吉さん・東神奈川・当時46歳・横田晴江さん採録

 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 空襲前、三月長津田に疎開。五月二十九日は朝八時町会組合長の息子さんニューギニアにて戦死、その葬儀に参列のため、途中、東神奈川駅にて警報、富士方面より大編隊来襲せりと。神奈川駅長さんより危ないから行かぬ方がよろしいと止められたが横浜駅に向う。

 横浜駅東口手前、築地橋にて空襲はじまる。五、六機編隊で焼夷弾落下、この時は、市電生麦より桜木町行きであった。火のついた大きなまきが電車通りに落下してくる。空はすでに真黒、落ちた焼夷弾をのりこえ飛び越えて、線路の方に行く。コンクリートで作った下水の菅の中ににげる。この時一機の日本の飛行機が
B29の編隊につっ込みすぐに火だるまとなって落下。危ないのでまた東横のガード(現高島町)にて見ていた。


 それから台町に逃げる。本覚寺(台町)お城のような寺がみるみる火に包まれる。反町〜鶴屋町のガード(東横線下)ににげる。材木が燃えて落下する。危ないので伏していた。反町に出て高島町ににげた。県立二中の方に行こうと思ったが危なくて行けない。どこにも行けず三時間くらいそこにいた。下をみると兵隊さんが二十名位消火に当たっていたが、どうにもならない。

 その後東神奈川方面に戻る。電線にトタン板が引っかかり焼けてしまってまるでおむつが下がっているようであった。反町から松本方面の知人茶屋に訪ねる、焼けてなし。危なくて近寄れない。また東神奈川に戻る。この時すでに神奈川駅は燃え落ち、危ないからと注意して下さった駅長さんは死亡されたこと、あとにてわかった。

 六角橋までようやく歩く。そこにて息子に出会う。捜真女学校が燃えている。妹が在学中なので、けが人が二十名程出ていると近所の人から聞く。息子は直に女学校に見に行く。妹は登校の長津田駅より疎開地に引き返し無事であった由。

注1・空襲が始まったのは午前9時22分、とされています。
注2・県立二中は現在の横浜翠嵐高校。
注3・市電の路線図は横浜市電保存館HP

http://www.kyouryokukai.or.jp/ciden/index.htm

http://www.kyouryokukai.or.jp/ciden/download/rosenzu.pdf
http://www.kyouryokukai.or.jp/ciden/download/img/rosenzu
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物体のように、電柱のようにころがっていた。
 ■横浜大空襲 体験者の証言(第7回)
 (厚谷咲子さん・御殿町・S石油研究所勤務・当時20歳)

 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 五月二十九日は五月晴れであった。私は当時二十才。立会川のS石油研究所へ出勤しようとしていると、警戒警報が鳴り、すでに前に東京空襲で一部不通の京浜急行は乗れず、東神奈川より大井町で下車、徒歩で行かねばならないので、欠勤することとしたが、このところ続いた空襲は主に夜間であったので、まさか一時間後には焼け野が原に、この横浜がなろうとは想像も出来なかった。…

 空襲警報が鳴り渡り、これはうっかり出来ないという気がし始めた。…ラジオは横浜方面に侵入中と放送しました。間もなく、三ツ沢方面から二ツ谷の上空へ、旭ヶ丘方面より黒い機影のB29の第一編隊が焼夷弾を、空を覆うように落下させ、まるで汽車の走るガード下にいるような、ものすごい音が、ゴーゴーザーザーと頭上を覆い。機銃掃射か、高射砲の破片かわからぬ音がパラパラと突き刺さるように続いた。…周囲の隣家から、煙が取り巻くように上り、本能的に危険を感じ、前もって決められてあった避難所である第一・浦島山、第二・神奈川公園を目ざし逃げる事とした。…

 ちょうど道路(第一国道)に出ると「浦島山はだめだぞ!! あっちから逃げてくる!!」と叫ぶ声に、神奈川公園へと「恵比寿屋」の角をぬけ、夢中で逃げる。その時はまだ煙だけで火は見なかった。気がつくと空は全く無く、真黒い煙で、夜かと見まがうばかり、公園の樹木の中に牛馬、馬車が逃げ込み、牛馬が怯えてすくんでいるのがなお、恐ろしさを誘った。火が風を呼び、トタンがビュンビュンと木々の間に飛び込んできた。

 遠縁の叔母さんが一人暮らしをしていた付近があっという間に焼け出して来た。危険になって来たので、公園のコンクリートの休憩所に入って、火の粉をよけたが、そのうち、生木が音を立てて風を呼びつつ焼け出し、隣の人がガタガタと震え出した。火の粉が飛び始め、人々は噴水の中の池の水へつかり身体をぬらし始めた。…

 この公園も危険であると、地元消防団員がふれて来たので、焼け残った子安方面へとゾロゾロと歩き出した。公園の出口にプール程の用水があり、沢山の消防団員の方々が、その用水に入り、私共の列にバケツで水をかけて、防いでくれた。…第一京浜国道の市電の軌道を歩いた。あの幅広い中央でも両側の焼け落ちた火勢で頬が火傷しそうに熱かった。神奈川警察署だけが、周囲の必死の防火で残っていた。子安まで行かぬうちに、すっかり焼け落ちた我が家のそばに立ち尽くした。煉炭の買い置きが、たばのまま勢いよく燃え、また、亡父の愛蔵書が十二畳の書斎の形のままずっしりと燃えていて、近寄れなかった。後で聞くところによると、一隣組に二人くらいずつ死者が出た様子であった。…


 残務もあるので、六角橋の親戚へと歩き出した。東神奈川の用水池に何人か死んでおり、中に美しい防空頭巾の女の人が浮いていた。西口に出ると、電柱、電線が倒れ、チロチロと赤い火を見せ、真黒に焼けた死体が、ただいくつかの物体のように、電柱のようにころがっていた。




横浜大空襲から66年 「平和の大切さ」思う
■横浜大空襲フィールドワーク&体験を聞く会■ 2011/05/29

 横浜大空襲から66年になる29日、横浜市内各地で記念の催しが開かれました。
 かながわく九条の会は「悲惨な過去を忘れてはならない、知らなくては・・・」との思いで、神奈川区内に今でも残る戦争の跡を訪ね歩きました。
 死者1万人ともいわれるこの戦災を振り返り、平和の大切さを、参加者はあらためて思いました。

 小雨降るなか、東横線反町駅頭に集合した参加者18人は、高島山トンネルをぬけ本覚寺(鐘楼堂と山門のみ焼失から残存)、甚行寺(全焼、黒く焦げた墓石)、須崎神社(皇紀2600年記念の石灯籠)から幸ヶ谷公園(空襲の熱で割れた碑)、熊野神社(空襲で焼け再生したご神木)まで、事務局長の小林孝生さんの説明を受けながら歩きました。
 当時、幸ヶ谷に居住していた柳下靖子さんも一行に加わり、そのつど被災時の模様を克明に語りました。(=写真 青木橋・本覚寺山門下で)
                                        (瀧川恒夫)





「焼夷弾の雨。さすが強気の私も、これで駄目だと何度も観念した」
 ■横浜大空襲 体験者の証言(第6回)
(八木功さん・反町・県立横浜第二中学校三年生・当時15歳
 出典:横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 当時、私は県立第二中学校(現翠嵐高校)の生徒だった。…登校の支度をしているうちに警戒警報、まもなく空襲警報が出され、私はその日の登校を断念した。…表の方で「反町の遊郭が焼けているゾ」という声が聞こえて来た。急いで反町の表通りに出て遊郭の方を見るとちょうど我々の子供の頃遊んだ原っぱの向うにある「金浦」が火炎に包まれているのが見えた。

 ザーッとひっきりなしに聞こえる焼夷弾の落下音に対しても、いちいち防空壕に駆け込むほどの余裕はなかった。…激しい爆発音とともに、斜め前の家で焼夷弾が炸裂した。一瞬にして戸障子、襖を吹きとばし、紅蓮の炎を吹き出して燃え上がった。…

 市電の反町停留所に出て青木橋へ向かう坂道を走り続けると、…広い電車通りには家財道具をかたわらに置き、うつろな目をして座り込んでしまっている老人も何人かいたが、とても他人のことまでかまっていることは出来なかった。走り続けている間にもザアーッという焼夷弾の落下音は間断なく続いている。青木橋に達する五十メートルぐらい手前で、ひときわ激しい落下音に思わず身を伏せると、目の前一メートルぐらいの所に長さ八十センチ、径十二センチぐらいの八角形の焼夷弾がアスファルトに突き刺さり火を吹き始めた。あわてて五歩ぐらい駆け出す。そこへまたまた焼夷弾の雨。さすが強気の私も、これで駄目だと何度も観念した。それでも何とか青木橋を渡り、洲崎神社の方に向かって再び走り出した。

 正午頃だというのに空は黒煙でおおわれ、あたりの風景もまるで夜である。電車通りを隔てた授産所の五階建ビル(後の神奈川保健所)は窓という窓から真紅の火を吹いて、ゴォッという音が窓越しに聞こえて来る。ふと本覚寺を見るとあの由緒ある本堂が火に包まれ真赤な梁と柱のみになったと見えた途端、もの凄い火の粉を舞い上げながら倒壊した。凄絶というか無残というか、今も瞼に焼きついていることこの凄まじい光景に私は声も出なかった。…

 さしもの火勢もやっと衰えて来た頃(二時頃だったろうか)人々は、やっと重い足をひきずりながら各人の焼け跡に向かって帰り始めた。…反町の我が家跡にもどった。無残! 表通りからの枝道は瓦礫と、まだくすぶり続けている熱気のために通ることが出来ない。仕方なく近くの空地に行き、ここで父達を待つことにした。…空襲から五時間経ってもなお我が家の焼け跡には立ち入ることが出来ない熱気があった。…

 この日から数日は焼け跡の整理に追われ…焼けトタンを集めて作った屋根だけの小屋に入ったのは三日目くらいからだった。地面に敷いたナマコ板の上で寝るのだから、体が痛くて寝れたものではなかった。焼け跡で暮らした四日程の間に親類、知人の変り果てた焼死体とも何度か対面した。近所の家でも一家全滅という家がいくつかあった。東横線の高架の下にも数知れぬ遺体があった。松本方面で特に死者が多く出たのは、先に三ツ沢方面を焼かれ、反町、松本町の人々が避難を始めた頃には行く手を遮られて煙にまかれ、火にあおられて行き場を失った人達が多かったためだろう。




雨のなか「核廃絶」訴え 元気に行進
■原水爆禁止2011年国民平和大行進■ 2011/05/12

 平和行進は5月12日、今日は私たちが引き継いで行進します。広島の原水禁世界大会をめざし、「2011国民平和大行進」は、7日に東京を出発しました。

 朝9時、横浜労連や新婦人、年金者組合など連帯する仲間100人あまりが反町公園に結集し、出発集会を開きました。支部からは、13人が参加しました。

 岡田優子神奈川区長は、「安心して暮らせるまちづくりを推進していく上で、国際平和に貢献していくことは大切なことです。この行進を通して平和を願う皆様の目的が達成されることを祈念します」とメッセージを寄せました。






  澤田逸夫神奈川地区労議長は、「原発被災でマスコミの言わないことがたくさんあります。自らの目、耳、頭でみることが大切です。世界の軍備費を平和利用に充てれば、みんなが幸せになります」と語りました。

 県内通し者の広瀬さんは、「原爆で家族を亡くし孤児となって66年。平和行進を歩ける両親に感謝しています。二度と被爆者のないよう核なき平和の世界をめざし、県庁まで元気に歩きたい」と話しました。

 一行は、東神奈川の建設プラザで待ち受ける県主婦協や神建連のメンバーの声援を受け、米軍が駐留する瑞穂基地に向かいました。

 瑞穂基地入り口で柴田豊勝元市会議員は、かつての安保反対闘争で戦車を止めた歴史的な背景などを話し、また国内軍事施設など取り上げ、国の平和への取り組みを変えるよう訴えました。

 神奈川公園で小休止したあと、道行く人たちに核廃絶を訴えながら、みなとみらい地区を横浜市役所に向け行進しました。

 市役所でA・Bコースは合流し、200人あまりの参加者は小雨が降りしきるなか、隊列を組み、幟り旗を掲げ、沿道に呼びかけながら、県庁に歩を進めました。

 黒岩祐治神奈川県知事は、「核廃絶は人類普遍で国民共通の悲願です。残念ながら大量破壊兵器が現存するなかで、米ソが1550発以下にするという条約が発効され機運が盛り上がってきました。そこに期待しながら各自治体を連携して努力する」と声明し、代読されました。

 林文子横浜市長は、「長年に亘る平和行進に敬意を表します。横浜市はピースメッセンジャーとして国際社会に取り組んでいます。各国に抗議文も出し、今後も、平和の大切さを発信していきます」とのメッセージを出し、市幹部職員より伝えられました。
 
 被災者の会の中村ゆうこさんは、「平和利用といっても福島原発で被爆者が出ました。核に頼らないエネルギー、代わるエネルギーによって被爆者をつくらない必要があると思います。、この運動で頑張っていきたい」と強い決意を語りました。
                                        (瀧川恒夫)




「憲法と平和を考える100冊」 No.87
 大川隆司著『国旗・国歌と「こころの自由」〜歴史と法規範から検討する〜』
        高文研(2005/11/20発行、126ページ、1100円+税)
 著者は1940年横浜市生まれ。1964年東京大学経済学部経済学科卒業。同年労働省に入省するがその後進路を変更、68年弁護士登録。以来、教科書検定訴訟に関わり続ける。また、86年から横浜事件再審請求事件に取り組んできた。その一方住民訴訟、情報公開訴訟を手がけ、97年3月「かながわ市民オンブズマン」を設立、代表幹事になる。05年7月提訴の神奈川「こころの自由裁判」弁護団長。

 2011年3月11日、岩手・宮城・福島を中心に未曾有の大地震と津波が襲いました。18日には、避難所になっている岩手県宮古市の愛宕小学校で卒業式が行われた、という記事が新聞に載りました。記事によると、被災地では卒業式の延期が相次いでいる中、同校では保護者、避難していた人たちとも話し合いの上、「子どもたちに希望を持って未来に向かって進んで欲しい」と実施を決めたそうです。卒業式・入学式は、保護者と教職員が子どもたちの人生の節目を祝福し、学校に迎え、あるいは送り出す日です。
 しかし、「国旗・国歌法」以来、学校現場では教職員と子ども達で作り上げてきた卒業式・入学式が壊され、教育委員会による「国旗・国歌」強制が進んでいます。多くの市民の方々に読んでいただきたい本です。

《1 神奈川県立学校で今どんなことが起きているか》
 1989年版学習指導要領で初めて「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」という規定が登場し、日の丸掲揚・君が代斉唱を実施する学校が全国的に著しく増加したが、神奈川(98年度入学式・7.1%)、東京、三重の3都県だけは98年度の入学式で、君が代斉唱の実施率が10%に達しなかったため、文部省の意を受けた県教委による強制はエスカレートしていった。神奈川県教委は、99年2月に指導の徹底を求める通知を出し、3月には県立学校校長会議を招集し、取組の更なる徹底を求め、99年度入学式での君が代実施率は26.6%にアップした。
 教育長は、99年11月に、式の実施形態や職員の職務分担などを事細かに指示するとともに、校長の指示に従わない職員への恫喝により、2000年度入学式での国旗掲揚率は100%、国歌斉唱率は98.8%に達した。2004年9月28日、神奈川県教育正常化連絡協議会と称する団体が、県議会に対し、「入学式・卒業式における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導徹底についての請願」を提出、11月30日、県教委は、斉唱時の職員の起立などを求める通知を出し、従来おこなわれていた生徒主体のフロアー形式は否定された。

《2「日の丸・君が代」と学校儀式の歴史》
 問題の背景となる歴史的事実を振り返る。君が代斉唱と日の丸掲揚は、「御真影」に対する敬礼等とあわせて、天皇制に対する忠誠を涵養する装置として、戦前の教育課程制度の中核に位置づけられていた。日本のおこなった侵略戦争と植民地支配の支柱の一つは、この「皇民」教育であり、日の丸と君が代はそのシンボルであった。「君が代」の歌の意味は、「初等科修身」(1942〜45年の国定教科書)で「この歌は、『天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。』といふ意味で、国民が、こころからおいはひ申し上げる歌であります。」とされ、日の丸については「敵軍を追ひはらって、せんりゃうしたところに、まっ先に高く立てるのは、やはり日の丸の旗です。」などと書かれている。
 また、国家の定立する教育課程基準の中で、入学式・卒業式の演出方法まで規定するような制度は戦前においてさえ例を見ない、細目的事項にわたる教育行政の介入にあたるものである。

《3 この裁判に適用される法規範》
 原告の主張を支える法規範について述べられる。日本国憲法第19条「思想・良心の自由」、市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権規約・B規約)第18条1項「思想、良心、宗教の自由」、19条1項「意見の自由」、日本国憲法第21条「表現の自由」、教育基本法第10条「教育に対する不当な支配の禁止」、ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」、子どもの権利条約。他にもバーネット判決など内外の判例を紹介している。

《4 国旗・国歌に対する忠誠義務は存在しない》
 教職員に起立・斉唱の義務が存在しないことを論じている。国旗・国歌法においても、学習指導要領においてもそのような「義務」は導かれず、忠誠義務を強制する職務命令は表現の自由を侵害するものである。

《5 「歴史の記憶」は消せない》
 戦後40年のドイツと日本は、その対照的な姿を見せた。ドイツでは、ヴァイツゼッカー大統領による「荒れ野の40年」の演説があり、日本では中曽根首相による靖国神社への公式参拝がおこなわれた。その26年後、小泉首相による靖国参拝がおこなわれ、教職員への日の丸・君が代強制がおこなわれている。「歴史の記憶」が抹殺されようとしている。それでも、市民の常識は「君が代斉唱時の起立を教職員に義務づけるべきではない」が70%(2004年・東京新聞)。「市民の常識」を「学校の常識」にさせなくてはならない。




復興は憲法を軸に国民的世論を
■憲法改悪を許さない5・3県民のつどい■ 2011/05/03

 憲法改悪を許さない5・3県民のつどいが5月3日午後、神奈川公会堂で開かれ、県内から420人が集まりました。主催は、神奈川憲法会議(憲法改悪阻止神奈川県連絡会議)。

 岡村共栄神奈川憲法会議代表委員は主催者を代表して挨拶。「憲法25条(生存権)の観点から、人命と生活を最優先すべき。政党助成金を廃止して、米軍の思いやり予算をやめて、大企業減税を中止して復興財源にしよう。憲法を軸にして、スクラム組んで国民的世論にしていこうではないか」と呼び掛けました。

 浅井基文さん(元広島市立大学平和研究所所長)は「北東アジア情勢と抑止力論」と題する講演で、「3年間の米オバマ政権も今までの軍事政策の本質は何ら変わっていないし、日本の政治は米の『抑止』論で全ての政策を行っている。非核3原則を唱えながら『核の傘』に入っている政策は、国際的に信用されません」とバッサリ切り捨てました。
 そして、福島原発の深刻きわまる事態を受けてもなお多数の『容認する』の世論調査の結果に、「原発も核兵器も根っこは同じ。いま日本は、明治維新、世界大戦敗戦に次いで第3の開国。日本人が政治に物言う怒れる国民にならないと日本は終わってしまう」と警鐘を鳴らし、奮起を促しました。

 集会は、「選挙制度」「被災地支援体験」「歴史教科書問題」などの発言のあと、「憲法を守り生かす草の根からの世論と運動を前進させましょう」とのアピールを採択しました。
 終了後、西神奈川から六角橋商店街を通り、白楽駅までデモ行進しました。
                                       (瀧川恒夫)




「戦争は絶対に反対です」 憲法記念日に宣伝行動
■かながわく九条の会 駅頭署名宣伝活動■ 2011/05/03

 かながわく九条の会は憲法記念日の5月3日、JR東神奈川駅頭で平和憲法を守る署名宣伝活動を行いました。

 ゴールデンウィークの真っ直中で行楽に出掛ける家族連れが多く見受けられる中、往来する人々にハンドマイクで呼び掛けました。会員は、チラシを手渡し、「憲法改悪に反対し、憲法九条を守る」署名を訴えました。

 チラシを手にした高齢の婦人は、「戦争は絶対に反対です。肉親を亡くしているし、あの時の思いは二度としたくありません」と強い口調で語り、待ちかねたように力強く署名しました。

 30分あまりの間に、チラシはすべて渡しきり署名は38筆あつまりました。

                               (瀧川恒夫)




■■ 2011/04/17     横浜大空襲フィールドワークの下見
 本日(4月17日)、晴れ渡る空のもと、5月29日の横浜大空襲フィールドワークの下見をおこないました。

 午後1時半に京急神奈川新町駅に集合、第一京浜沿いにしばらく歩きます。浄土真宗大谷派のお寺・良泉寺がの角に在郷軍人会が建てた「笠穆(のぎ)稲荷神社」の標柱があり、裏側には「教育勅語煥発40周年記念」の文字が。角を曲がると正面が「笠穆(のぎ)稲荷」です。境内を見学したあと、京急線路沿いにしばらく歩きます。線路の海側に「能満寺」が見えます。墓地の墓石をよく見ると、空襲で焼けたと思われる焼けこげのような痕がわかります。

 東神奈川駅前から金蔵院を経て熊野神社へ。空襲で焼けたものの再生したというイチョウの木がありました。金蔵院や、成仏寺の墓地には、やはり黒く焼けた墓石がありました。
 神奈川地区センターで小休憩したあと、慶運寺(うらしま寺)へ。寺の門に大きな亀を台座にした石柱が建っていますが、ここにも焼けたあとと見られる石があります。次に淨瀧寺を経て幸ヶ谷公園へ。ここは、先日、メール・ホームページで報告した通りです。

 次に、国道15号(第一京浜)を渡り、神奈川公園へ。海側のこの辺りは、大空襲では火の海だったところです。次は、第一京浜にかかった陸橋を幸ヶ谷小学校側に戻り、旧東海道の宮前商店街へ。この通りの右側には、洲崎神社(洲崎大神)、普門寺、甚行寺が続きましが、それぞれ大空襲では焼失しています。

 青木橋を渡った山の上にあるのが、本覚寺。この寺も焼失しています。本覚寺の坂を下ると、つい最近開通したばかりの「東横フラワー緑道」の「高島トンネル」。ここを通ると、あっという間に「反町駅」です。今日の終点はここになりました。66年前は「地獄」と言われたこの辺りも今は散策を楽しむ市民で賑わう「平和」な風景が見られました。
                                     (小林 孝生)




焼夷弾が雨のように落ちてきた 大口仲町、池下町は全焼
 ■横浜大空襲 体験者の証言(第5回)
 (椎塚つね子さん・大口仲町・主婦・当時26歳・鍋倉武則さんによる採録)

 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 …五月二十九日の大空襲の日には空襲警報と同時に近所の子二人(大きい方は六年生、小さい方は四年生位)が私の次男をつれて火葬場の下の方に逃げてくれました。そこには近所の方が防空壕を掘っていたのです。私は次女をおんぶして市のコの字型の防空壕に避難したのですが、次男のことが心配で、かけて行きました。こどもたちは何でもなくて安心しました。

 防空壕の中から焼夷弾が落ちるのを見ました。初めは銀紙のようなものが落ちてきました。長さ三十センチ、巾三センチのもので紙吹雪みたいでした。その後から焼夷弾が雨のように落ちてきたのです。銀紙のようなものは、きいて見たら電波を遮断するためのものだったとかの話でした。

 大口仲町は両方に山があるのですが、防空壕の中からは向いの山が見えるだけです。その山の手前のふもとに焼夷弾が落ちるのがよく見えました。見ている間に家などがバリバリともえ出しました。その山は林になっていて、少しずつ畑になっており、大きな杉の木がはえていました。防空壕のあたりにも後で見たら不発の焼夷弾の直撃でいっぱいささっていました。誰の顔もすすけたように真黒くなってました。

 日産につとめていた主人が夕方でしょうか、時間の観念が全然なくなっていてはっきりしませんが、ともかく暗くなってから帰ってきたり、友人が見舞いに来てくれたりしました。そしてずい分黒い顔をしているねといわれました。山にはたくさんの人がにげて来ましたが、皆がっかりして、モンペの汚いのをはいて、こどもをおんぶした姿が今でも目の前にありありと浮かびますよ。自分の顔のことなど考えていませんでしたからね。大口通りにやけ残った知人の家があって、その晩から一週間ばかり、罹災証明などをとったりして厄介になりました。上のこども二人は主人の実家にたのんであったので、私は下の二人をつれて茨城の実家にかえりました。

 大口仲町、池下町は全焼しましたが、所々やけ残った部分もありました。大口通りは片側は疎開していましたので片方は残りました。尾和瀬さんのとなりは残りましたが、尾和瀬さんの家はやけました。ちょうど境界でした。…





 みなさま 大空襲の証言4人目です。よろしくお願い致します。出典はこれまでと同様です。ついでにお知らせですが、4月15日(金)午後6時半より、反町の「横浜長老教会」において、「歴史教科書問題を考える神奈川区民の会」発足集会があります。ご参加のほどよろしくお願い致します。
                                      【事務局;小林】

B29低空で飛来 一時間で全て焼失 黄金町付近は死体の山
■横浜大空襲 体験者の証言(第4回)
    (大久保晃さん・日大第四商業学校 日産自動車株式会社勤労動員・当時16歳)

 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 その時、私は数え年十六才。父は、応召で南方で奮闘中で、家族は五人で、戦争が激しさを増してくると本当に心細かった。当時、私は旧制中学(当時日大四商)三年在学中で勉強することは許されず、新子安の日産自動車で、学徒動員で働いていました。
 時間は忘れてしまったが、八時三十分位でしたか、社内のラジオから志村アナウンサーの放送「B29及びP51戦爆連合機南方海上、北進中、機数不明なるも大編隊の如し」。九時頃だったか伊勢佐木町の方向から、ものすごい煙が出始め、そのうちに横浜市内至る所から黒煙が吹き始め、天をこがすよう、まるで地獄図であった。B29は低空で飛来したが黒煙で機影は発見できなかった。会社の仕事は午前中でストップ。三時頃外出禁止が解除になりました。当時、私達の他に明治大学、大妻学園の女学生が働いていました。四時頃会社を出発したが電車はストップ。

 私は新子安から入江橋を通って帰路についたが、入江橋から子安は跡かたもなく焼失、母校も焼失してしまった。三年間学んだ校舎は残ったものコンクリートの土台だけだった。校庭で教練したり、テニスや閲兵分列、また校舎で勉強したり、講堂で始業式や記念行事、立派な図書館、一時間の間にすべて焼失してしまった。子供や肉親や兄弟を探し求める人、多くの人が右往左往していた。一面焼け野原で草一本なかった。小机駅まで徒歩で、そこから電車に乗って帰宅した。

 翌日、初音町の親戚に見舞いに母と出かけた。しかし、若妻は二十一才で生まれた赤子を背中に背負い世を離れた。赤子は泣いているところを通りがかりの人に助けられ吉野町の小学校に保護されていた。関東学院の付近でも亡くなったそうです。黄金町付近は死体の山、焼けただれた死体が至る所に放置してあった。生まれて初めて、おそらく、最初で最後の恐ろしい体験と思う。二、三日してまた、日産自動車へ行ったが、友達(同級生)三人死んでしまった。彼等は、午後の出勤の予定で家にいたところ犠牲になった。一人は伊勢佐木町でカバンを商売、中村といいました。なつかしかった有隣堂も焼けてしまった。

注;「日大四商」は、現在の横浜線大口駅の地に、1930年設立された旧姓の実業学校(5年制)である「日本大学第四商業学校」。同時に「日本大学第四中学校」も設立された。
 1945年5月29日の横浜大空襲で全焼し、戦後、新制の「日本大学高等学校」「日本大学中学校」に発展的解消。45年9月から、生麦国民学校(現在の生麦小学校)を借用して授業をおこなっていたが、大口の校地を売却し、1947年、現在の港北区箕輪町(日吉)の校地に移転した。(日本大学高等学校・中学校ホームページより)
   http://www.nihon-u.ac.jp/orgni/yokohama/examination/history.html




横浜の空がまっ黒、煙、煙。歩いても、歩いても、焼け野原
  ■横浜大空襲 体験者の証言(第3回)
   (大本輝代さん・東芝電気株式会社柳町工場勤労動員・旧姓浅井・当時15歳)
 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 あの日は川崎にある東芝柳町工場についたらもう空襲であった。敵機が来るまで少しでも時間がありそうな時は尻手の土手の下にある防空壕まで走る。間に合わぬ時は会社の床下の壕にもぐる。あの日は敵機が見えぬので、尻手まで走った。…誰かが「横浜が焼けてる、相当焼けてる」と叫んだ。みんな我に帰って防空壕の入口から空を見た。本当だ、横浜の空がまっ黒、煙、煙。昼間のせいか火は見えない。なにしろはげしい煙。なにかその煙の中に、ひらひらと舞うものがある。
 「飛行機が来る」誰かの声に身をかくした。黒い模型ほどにしか見えない機が、黒い煙のなかから、次から次生まれるように飛んで来る。でも、もう弾をみんな落としてしまったのだろう帰路のようであった。くやしかった。

 午前中いっぱいくらいの空襲だった。長い空襲だった。空襲警報が解除された時帰宅命令が出た。個々で帰らず何人かずつ隊を組んで帰ることになった。お弁当を半分とっておくようにいわれた。半分を大切に肩からかけた袋に入れ、川崎から横浜まで線路伝いに歩いて帰ることになった。交通は全部とだえ、でも遠いなんてことは全然考えなかった。早く帰りたい一心であった。鶴見川の鉄橋は運動神経のにぶい私を四つんばいにした。でも誰も笑わない、誰かが黙って私を助けてくれた。

 新子安の辺で、煙の中に入った。私はこのまま煙の中にいたら、苦しくて死んでしまうような気がした。一瞬「苦しい」といって戻ってしまった。でも誰も戻って来ない。東神奈川辺ではもう地獄であった。見渡す限りの焼け野原、煙、火。この日は晴れていたと思うが、長い空襲の間、川崎からの路、なんべんも、青い空を見たと思うが、思い出せない。あちこちで破れてしまって、出っ放しの水道で、手拭いをぬらしては、顔にあてて歩いた。ほてりと涙で顔中ヒリヒリであった。

 歩いても、歩いても、焼け野原でした。桜木町近くなり掃部山に登ってそれぞれの家の方を見ようと誰からともなく話がきまり、まだまだ見渡す限りの焼け野原を見て、友と肩を寄せ合ってまた涙だった。でも声を出さない。ただ涙が出るばかりだった。そして皆家族の安否を気づかった。ここで本牧方面を磯子方面に別れた。何を言って別れたか、おぼえていない、ただ涙の中で固い握手をして別れた。中村橋まで来たら突然焼けていない家並みに出た。嬉しかった。そこからは焼けていなかった。家に帰ったら、父も母も兄弟もいた。飛び出して来た家族に、何も言わず、父の胸に顔をつけて泣いた。




新子安辺に焼夷弾が投下された 「もう俺の家は駄目だッ」
 ■横浜大空襲 体験者の証言(第2回)
   (諸星義一さん・日産自動車株式会社勤労動員・当時19歳)

 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 私は、昭和二十年五月の横浜大空襲当時、横浜高専の学生で日産自動車株式会社横浜工場への勤労動員中でした。…朝、新子安にて市電を待っていると、直ぐ傍の家のラジオが、敵の数編隊、本土に向かいつつありの情報を申す。…鳴るは空襲のサイレン。会社に着いてから、ラジオは刻々と、敵機の集結を報じ、北上を報じ、第一編隊の駿河湾侵入を報じ、京浜地区侵入を崩ず。…第一編隊B29九機。悠々と横浜上空をこちらに向かって来る。…敵機がちょうど真上に来た頃に、遥か煙突の林立する向うを見ると、黒煙が上りはじめた。「今日は横浜だぞ」というと、横浜に家のある者は、今日は駄目だなァといっていた。

 敵の平均十機の編隊は、後から続々と侵入しては通って行く。日本の高射砲隊の弾幕に包まれても、悠々として編隊を崩さない。…約百五十機まで数えた頃には、黒煙は天に冲して、上空一面を蔽い、まさに黄昏時を思わせる。日の光が遮られたので、防空壕の中は真暗。…
 岩崎保さんが、夢中で「新子安辺に焼夷弾が投下された」といったので、設計室の二階へ上って見ると、新子安の方は一面火の海だ。「もう俺の家は駄目だッ」という者も、二、三人あった。… 十時十五分に空襲警報解除。

 …の四人と歩きはじめた。新子安の辺まで来ると、家々が盛んに燃えていた。それでも、まだこの辺はよかった。だんだん東神奈川の方に来るにつれて、火事のための烈火が吹きまくり、上昇気流のためにトタンは天高く、ヒラヒラと舞っている。電線は垂れ下がり、掻き分けて歩くようである。この電線にもトタン類が無数に鈴なりになっている。
 余り風が強く、物が飛んで来て危険。それに、東神奈川、青木通の辺は「熱くて突破出来ない」といって大勢が引き返して来たので、俺達は、小高い丘の中腹の防空壕に入る。

 幾分下火となったものの、まだ危険は感じられるが、悲壮なる決心の下に再び出発。東神奈川駅は、ことごとく灰燼に帰す。省線の電車数両は鉄骨のみとなり、残骸は倒れかかっていた。途中で電線に幾度もつまずき、竜巻に幾度か身を伏せて難を逃れた。市電が線路から外れて焼けている。四囲の民家は大体において燃え落ちているが、まだ会社、倉庫、学校、病院などの大きな建物は紅蓮の炎と黒煙を上げている。空襲は恐るべきものなり。焼死した人にはトタン板が被せてあった。見える所は、どれもこれも真赤に皮が剥げていた。無惨。土手かげには、罹災者が、或いは荷物を少し持ち、或いは布団をたった一枚持ち、或いは子供を背負い、病人をリヤカーに乗せ、或いは顔を火ぶくれにして、ぼう然と立っている。

 漸くにして横浜駅に来る。日産からここまでは主として道路を歩いて来た。どこにも、ここにも焼夷弾の殻や不発弾は無数。無差別ジュウタン爆撃というもの。こんなに落とされては、消し切れるはずはないと思う。残っている横浜駅と駅前の東急電鉄の建物を見た時は、日本の木造家屋の弱さを痛感した。フォームの時計が十時二分半を指して止っているのは空襲の時刻であろう。上り列車の時刻版が、まだメラメラと燃えていても、誰一人として見る者もない。焼夷弾はこの辺にも無数。今まで見た弾種は四。あの辺がザキ、あの辺にオデオン座、あそこが何と見当をつけて見るが、何れも今は、煙と火と風なり。…歩いて戸塚に至る。…戸塚駅で横須賀線の便あり。大船駅五時三十六分の豊橋行に乗り、家に帰る。…

注1;横浜高専は、「横浜工業専門学校」の略。横浜国大工学部の前身。校地は現在の南区大岡にあった。

注2;日産自動車横浜工場は、1933年に設立され、1935年から自動車一貫生産工場として稼働。場所は現在の宝町。

注3;省線は、1920年から49年までの現在のJR線に相当する鉄道を指した言葉。鉄道省(1920-43)、運輸通信省(1943-45)、運輸省(1945-49)。1949年から87年の民営化まで「日本国有鉄道」。




「二度と戦争はしない」 平和主義の意義
「横浜大空襲の惨状」を語る 

                           2011/03/29
 かながわく九条の会では、空襲から66年目の2011年5月29日に「横浜大空襲フィールドワーク&体験談を聞く会」を予定しています。この企画にあたって、これまで刊行されている「証言」などから学び、横浜大空襲の惨状と、なぜそのような戦争をしてしまったのか、その反省から2度と戦争はしないと世界の人たちに誓った憲法の平和主義の意義、そして平和の大切さを子どもたちに伝えていきたいと考えています。

 横浜では、かつて「横浜の空襲を記録する会」という市民運動がありました。私たちには、40年前のこの運動の成果を後世に伝えていく責任があるのではないでしょうか。横浜市と、「横浜の空襲を記録する会」が編集した全6巻の大著の第1巻が『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)。この本には、横浜大空襲の体験談が多数収録されています。その中から神奈川区関係の「証言」を紹介します。
横浜線の枕木が燃えて、大口方面が燃えていた
■横浜大空襲 体験者の証言(第1回)
 (中村栄一さん・興国中学校代用教員・当時20歳)

 出典;横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行)

 午後と思われるが、疎開先の港北区奈良町まで帰るために、第二国道の子安台市場に出て、新子安駅に行こうとしたが、日産寮が焼け落ちていて、煙でむせび、通行不可能で、東神奈川方面へ歩きはじめた。この辺で、負傷者(やけど)に出会った。現在の二国入江町交差点あたりが、盛んに燃えていた。避難する人でごったがえしていた。時折、突風が起こり、電柱が、炎につつまれて傾き、危険を感じた.横浜線の枕木が燃えて、大口方面が燃えていた。浦島小学校脇より、白幡町を通り、東横線白楽から、六角橋終点で父と会う.避難してくる知人に会う。捜真女学校へ通学している妹の消息をたずねに、横専わきを通り、中丸へ行く。当時、捜真は陸軍の傷病兵の宿舎になっていた.学校付近に高射砲陣地があり、早く被弾、すでに燃え落ちていた。

注1;興国中学校は、鶴見区東寺尾にあったようですが、現在どうなっているのかはわかりません。ご存知の方がいらしたら教えて下さい。
注2;「六角橋終点」は当時市電六角橋線の「終点」が今の横浜銀行のあたりに会ったそうです。
注3;「横専」は、「横浜専門学校」の略で、現在の神奈川大学
注4;「中丸」は神奈川大学に隣接している町名で、捜真女学校があります。




戦争遺跡を歩く
大空襲フィールドワーク下見の下見第3弾 ■ 2011/03/20
 昨日に続いて、今日も横浜大空襲関連の「戦争遺跡」を訪ねて、歩いてきました。
 今日は、六角橋の自宅を10時45分出発。まず、神奈川図書館をめざしました。図書館では、神奈川学園、三ツ沢小学校、斎藤分小学校、捜真学院、浅野学園、など学校関係の記念誌や神奈川区誌を調べているうちに12時半に。大空襲では神奈川区内の多くの学校が焼失しました。図書館からは、国道一号線とJRの線路を越え、第二白百合乳児保育園(旧米軍ミルクプラント跡)を経て、京急神奈川新町駅に。ここは4月17日の集合場所です。

 神奈川新町から京急の線路沿いにしばらく歩くと、笠穆(のぎ)稲荷。保育園の送り迎えで毎日通った道ですが、境内をじっくり見たのは初めて。案内版によると、ここも大空襲で焼失したそうです。ここでは「日露戦役紀念碑」(写真1)や「国威宣揚・皇軍武運長久」と台座に刻まれた狐、「教育勅語」の張り紙など面白いものも「発見」しました。神社の鳥居をくぐって第一京浜の角まで50mほどですが、左手の良泉寺の角に「笠穆稲荷」の石柱があります。その裏を見ると、「教育勅語煥発40周年記念」の文字が。さらに、能満寺の前を過ぎると、神奈川小学校にぶつかります。この学校も全焼しています。

 東神奈川で遅いお昼を済ませ、金蔵院と熊野神社へ。熊野神社には「御神木」の公孫樹の木(写真2)があり、これも案内版によると、大空襲で焼けたものの、再生したそうです。境内に「支那事変・大東亜戦争戦没者慰霊碑」がありました。次は、小鳩保育園近くの、神奈川地区センターへ。昨夜、インターネットで確認した時は空いていたはずだったのですが、5月29日の午後の中会議室はすでに塞がっていました。小会議室なら空いているのですが…。

 この辺りは「神奈川宿歴史の道」になっていて、瀧の川を渡ってしばらく行くと幸ヶ谷公園に出ます。ここにも日清戦争3名、日露戦争21名、「支那事変」120名、「第二次世界大戦」1257名の「陣歿者」を慰霊する「表忠碑」(写真3は説明板)が建てられています。また、その隣には、「皇紀二千六百年」と刻まれた碑もありました。空襲の熱で割れたと思われる碑(写真4)もありました。

 ここから、幸ヶ谷小学校の脇を抜け、第一京浜を渡ると、「神奈川公園」があります。当時の面影はありませんが、体験者の手記にはこの辺りの惨状が語られています。もしかすると石垣が当時のものかも知れません。また、歩道橋を渡って幸ヶ谷小学校側に戻ります。宮前商店街のあるところは旧東海道。右手に洲崎大神(神社)があります。この神社も空襲で焼失しています。この神社にも「皇紀二千六百年記念」の石灯籠(写真5)がありました。

 京急神奈川駅の手前にある甚行寺は関東大震災に続いて、大空襲でも焼失しています。青木橋の先には本覚寺が見えます。このお寺も焼失していますが、今日はパスしました。青木橋を右折して、サカタのタネで花のタネを買って反町方面へ。反町駅の横の「東横フラワー緑道」を旧「新太田町駅」まで歩き、左折。六角橋の自宅に着いたのは午後4時。万歩計は16000歩。朝歩いた8000歩と合わせると、24000歩になっていました。
                                     【事務局;小林】




三ツ沢公園内にある「横浜市慰霊塔」 戦争遺跡を歩く
大空襲フィールドワーク下見の下見第2弾 ■ 2011/03/20

 大空襲フィールドワーク下見の下見第2弾です。
写真は、三ツ沢公園内にある「横浜市慰霊塔」です。
『神奈川県の戦争遺跡』という本によると、三ツ沢公園内にある「横浜市慰霊塔」は、左側が高さ18m、右側が高さ25m。右の塔は戦争のない新しい日本の発展を願う気持ちをあらわし、左の塔は太平洋戦争の犠牲と破壊を表現したもの、といいます。塔の向こう側にある平屋は「安置堂」で、西南戦争以来の戦死者2万人余りが祀られている。もともとここは、「国事に殉じた」人を祀る招魂社で、1939年、政府の命令で「護国神社」と改められ、戦争中に着工し、1945年、鎮座式目前の5月29日、横浜大空襲で全焼した。そして戦争が終わって3年後、市民の募金により、今の慰霊塔が出来たと言います。この慰霊塔は、靖国神社と同じ「英霊」をたたえる招魂社の伝統を受け継ぐと同時に、遺族の悔恨ともう2度と戦争をしないという平和のねがいが込められている、と言います。しかし、横浜市が管理している三ツ沢公園内にこの慰霊塔があるということは、よく考えてみると、憲法の政教分離原則に反する疑いがないのでしょうか? ということも改めて感じました。

 横浜大空襲では、東横線反町駅ガード下、神奈川小学校付近、反町から松本町にかけて多数の死者が出ました。死体はトラックや大八車に積まれて三ツ沢墓地に運ばれ、穴に埋められたといいます。三ツ沢墓地管理事務所の隣に「戦災者慰霊碑」があります。直径3mほどの土饅頭です。慰霊碑の周りには遺族の建てた追善供養の合掌碑、お地蔵さんが並んでいます。『神奈川県の戦争遺跡』によると、「戦災者慰霊碑」とは別に「戦災死者慰霊碑」があることになっているのですが、見つかりませんでした。

                             【事務局;小林】




横浜大空襲で焼けた東急新太田町駅跡のプレート 戦争遺跡を歩く
大空襲フィールドワーク下見の下見第1弾■ 2011/03/19

 かながわく九条の会の皆さま
 先日の事務局会議では、5月29日の「横浜大空襲フィールドワーク&体験を聞く会」に向けての下見を4月17日におこなうことを確認しました。
 コースは、神奈川新町からJR・京急線の東側(海側)を歩き、東神奈川・幸ヶ谷を経由して青木橋を越えて線路の反対側(西側)に出て、反町周辺から二ツ谷町の「革新と共同の会」事務所まで。所要時間は2時間の予定です(1時30分から3時30分)。
 実は、本日、天気がよかったので、西神奈川の医者に行くついでに反町から三ツ沢方面まで戦争遺跡を訪ねて歩いてみました(予定コースからは外れますが)。写真も撮ってきましたので、添付します。1万4000歩くらい歩きました。

 東急東横線旧「新太田町駅」の跡を示す標柱
 神奈川区役所とビックヨーサンの間の道を六角橋方面に向かって100mほど歩くと東横線の跡地が「東横フラワー緑道」として整備されていますが、その手前のビルの角にあります。

                            【事務局;小林】



「憲法と平和を考える100冊」 No.86
 姜尚中著『日朝関係の克服 なぜ国交正常化交渉が必要なのか』
                 集英社新書(2003/5/21発行、238ページ、680円+税)
 著者は1950年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。東京大学社会情報研究所教授。前回の中国と同様、北朝鮮が何か行動を起こすたびにバッシングが繰り返される。本書は、2002年9月17日の「日朝平壌宣言」により国交正常化に動き出すかと思われた矢先に、「拉致問題」、NPT脱退宣言(2003/1)などが障害となって日朝国交正常化が暗礁に乗り上げるなかで出版された。

《序章 なぜ国交正常化交渉が必要なのか》
 日朝交渉には、北東アジアの平和と安定がかかっている。冷戦後、旧ソ連の後ろ盾を失い、中国とも溝のある北朝鮮は、経済力、軍事力でも優位に立つ韓国と対峙し、唯一の超大国・米国と世界第二の経済力を持つ日本との軍事同盟によって封じ込められてきた。北朝鮮をめぐる危機は、冷戦体制のもとでの分断国家間の奇妙に安定した恐怖の均衡状態が崩れつつあることを示している。にもかかわらず、その変化を安定的に収束させる枠組みが未成熟なことが、事態を不安定にさせ、軍事的な衝突におびえる状況をつくり出している。できるだけ早期に国交を正常化することが、拉致問題解決にもつながる。

《1章 敗戦と解放の逆説 1945〜48年》
 呂運亨の主導下で結成された朝鮮建国準備委員会は、米軍進駐前の、1945年9月6日に朝鮮人民共和国樹立を宣言した。ところが、仁川に上陸した米軍は、9月11日に軍政を布告し、朝鮮人民共和国を否定、代わりに李承晩の旧政治勢力が権力を握り、米軍とともに建国準備員会を弾圧した。一方北部を占領したソ連は、共産主義者の力の強いことを発見し、アメリカとは対照的に朝鮮人側に行政を
任せていった。
 朝鮮信託統治案が発表され、南部では左派勢力を李承晩が弾圧、北部では右派の書・モ植が失脚。48年8月には大韓民国が成立し、9月には朝鮮民主主義人民共和国が成立する。1950年6月25日に勃発した内戦は、南では反共主義の李承晩政権を強化し、北でも金日成の権力が強化された。

《2章 日韓関係と日朝関係 1950年代〜60年代》
 1951年のサンフランシスコ平和条約で朝鮮の独立を認めた日本は、それぞれに独立した南北の分断国家と国交関係を築かなければならなかったはずだ。しかし当時朝鮮は内戦の最中。米国の冷戦戦略、それに便乗した日本の戦後処理、経済的な苦境に立つ韓国の独裁政権の思惑が重なり、日韓条約は「妥結」した。この条約には、在日韓国・朝鮮人の法的権利、財産請求権、韓国併合条約の合法性、韓国政府が朝鮮半島における唯一の合法政府との規定の解釈の問題などがあり、結局、日朝関係を「非正常化」してしまった。

《3章 激変する朝鮮半島と日朝関係 1970年代〜90年代前半》
 1971年の米中接近は、北東アジアの急激な緊張緩和をもたらした。72年には、自主的・平和的・民族大団結にもとづく平和統一がうたわれた南北共同声明が出されたが、韓国では大統領独裁による維新体制が成立。北朝鮮では、新社会主義憲法による唯一指導体制が確立した。だが、韓国の民主化運動は途絶えることなく、1987年には大統領の直接選挙が行われた。90年代には金丸・田辺自社合同訪朝団の訪朝によって日朝交渉の糸口が得られたが、北朝鮮の核査察問題をきっかけに途絶えてしまう。核開発問題は深刻な危機に発展したが、94年6月、カーター訪朝によりひとまず危機は回避された。

《4章 日朝関係の「克服」に向けて 1994年の危機以降》
 2002年9月17日、歴史的な日朝平壌宣言が合意された。北朝鮮は、日朝首脳会談で、最高首脳自らが拉致問題などを「告白」「謝罪」することで、巨額な「経済協力」を引き出すことをあてにしていたが、拉致問題に対する日本国内の猛烈な反発と敵愾心の盛り上がりの中で、その目算は狂ってしまった。
 日朝平壌宣言の第4項では、北東アジアの平和と安定のために、事実上、冷戦終結後の朝鮮半島と北東アジアの新しい地域秩序形成への展望を示した。その中で日朝関係の克服は大きな意味を持つ。日朝国交正常化交渉再開が、日朝関係の「克服」につながり、さらに日韓、日米関係の「克服」へと連鎖し、北東アジアの地域秩序の形成へとつながっていく(終章 日朝関係の「克服」と「北東アジア共同の家」)。




くらしも、子育ても、平和も 安心できる神奈川へ
革新と共同の会 月例宣伝行動■ 2011/03/05

 革新と共同の会は5日午後、JR東神奈川駅頭で月例宣伝行動を行いました。

 建設横浜から7人のほか新婦人や年金者組合など皆で14人が参加。アスベスト被害者根絶や核兵器廃絶など署名を求めながら、趣旨を訴えました。

 澤田神奈川地区労連議長はハンドマイクで、「福祉予算を切り捨て、特定大企業を応援してきた。その金額でどれだけの県民の暮らしを豊かにできたか」と、松沢神奈川県知事のすすめたインベスト神奈川の政策を批判。
 新婦人の前田さんは、「今こそ、『くらしも、子育ても、平和も安心できる神奈川へ』と主張している鴨居洋子(鴨居ひろこ)さん(神奈川県知事選挙立候補予定)を県知事にして、私たちの暮らしにやさしい県政にしましょう」と訴えました。

 宣伝チラシは全部で900枚。署名は、「核兵器廃絶」が34筆、「アスベスト被害根絶」署名は、25筆いただきました。
                                      (瀧川 恒夫)




「憲法と平和を考える100冊」 No.85
 浅井基文著『中国をどう見るか 21世紀の日中関係と米中関係を考える』
                  高文研(2000/11/20発行、220ページ、1600円+税)
 著者は1941年愛知県生まれ。1963年東京大学法学部を中退し、外務省入省(88年まで。その間、80〜83年には在中国日本大使館政務参事官として勤務、83〜85年には外務省中国課長を務める)。その後、東京大学、日本大学、明治学院大学
教授を経て、広島市立大学広島平和研究所所長(2005-2010)。
 最近、2頭のパンダが「来日」し、菅政権が悪化させた日中関係も改善の兆しが…。しかし、日本国内には根強い「中国脅威論」があります。本書は、外務省中国課長も務めた著者による中国論、日中・米中関係論です。1996年の安保「再定義」、1997年の新ガイドライン、99年の周辺事態法成立、という状況下で「このまま日中関係を放置していたらいずれとんでもないことになる」という思いから出版されました。

《1章 虚像を排し、実像を求めて》
 1982年の歴史教科書問題当時、在中国日本大使館の政務参事官として勤務していた著者は、日中関係や他のアジア諸国との関係が歪んだ歴史認識のうえに立っていることを認識させられた。天安門事件(1989年)の時、中国の人権問題に対する批判が高まったが、中国批判論は「実情無視・無知」型(「マスコミ操作」型)、「自分のことは棚に上げ」型、「ためにする議論」型の3類型に分けられる。今日の中国を理解するためには「国際社会における中国」「アジアにおける中国」「日中関係における中国」の三つの視点から考える必要がある。中国は大国であると同時に発展途上国であるという二つの顔を持つ独特な存在だ。中国抜きのアジア、は考えられない。改革開放をすすめる中国は平和で安定した国際環境を必要としている。

《2章 安定した日中関係を築く道》
 日本の敗戦後、日中関係は敵対的なものに固定された。1972年の日中国交回復交渉では、日本の賠償責任、台湾問題、日米安保が焦点となったが、中国側は(国家としての)賠償要求を放棄し、台湾問題では中国側の主張を書いた上で、日本側は理解できる、という玉虫色の決着を見た。
 戦後50周年の1995年には、歴史認識問題、台湾問題、中国の核実験などをめぐって、日中間の矛盾が吹き出した。歴史を正視する中国と、侵略の事実を抹消しようとする日本。今、横浜で問題になっている歴史教科書問題。起源をたどると、95年の戦後50年にあたっての「歴史の修正」がある。
 中国では1980年に抗日戦争に従軍した「革命烈士」への補償を強化したが、一般民衆はその対象とならなかったため、1988年9月以降、民間人による日本政府への戦争被害賠償要求が出されてくる。当初慎重だった中国政府も、95年以降、支持するようになった。82年の歴史教科書問題を契機に、85年には「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館」が建設され、盧溝橋事件から50年の87年7月には「抗日戦争記念館」が開館。侵略戦争を何ら反省しない日本側の態度が中国国民の感情を傷付け、反日感情を育ててきたことがわかる。

《3章 米中関係と台湾問題》
 天安門事件を契機に対立していた米中関係は、1997年の江沢民主席の訪米、98年のクリントン大統領の訪中により、「新しい形の戦略的パートナーシップ」を目指すことが打ち出された。
 しかし、新ガイドラインでは台湾が「周辺事態」の適用地域とされ、中国は反発する。米中関係は、台湾問題に尽きるわけではないが、中国のナショナリズムとアメリカの国益再優先の政策が真正面からぶつかる問題である。注意しなければならないのは、台湾の独立へのいかなる動きもアメリカと日本の支持なしにはあり得ないということ。「台湾有事」は日米が原因をつくるのであり、中国が先手を打つわけではない。
 台湾問題は中国の内政問題であり、アメリカが「内政には干渉しない」と明言すれば、台湾が独立に向かって暴走することもなく、中国が軍事行動を起こす可能性もゼロになる。アメリカが台湾問題に軍事的にしがみつく最大の根拠は「台湾の領土的帰属は国際的に未決定である」という「未決論」である。

《終章 日米中関係のカギ 「未決論」の克服》
 今、国際的に見れば、「未決論」に固執しているのは主要国の中では日米だけである。なぜ日米両国が「未決論」に固執するのか。台湾を中国の領土として認めれば、台湾を日米新ガイドラインの「周辺事態」に含ませ、それを根拠に台湾問題に軍事的に介入することは中国の内政問題に介入することになり、国際法的に許されなくなるからだ。その逆に、「未決論」を清算することが日米中関係を平和と繁栄の軌道に乗せる最初のステップとなる。

21世紀の日本と国際社会
浅井基文のページ http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/
日本中国友好協会 http://www.jcfa-net.gr.jp/index.html




「新アピール署名」スタート 核兵器の全面禁止求める
国連事務総長も賛同
「平和新聞」(日本平和委員会)から転載■ 2011/02/25

 原水爆禁止日本協議会(原水協)が呼び掛けた核兵器の全面禁止を求める新アピール署名が15日、全国でいっせいにスタート。この日、広島、長崎、東京の3都市で、署名運動の発表集会が開催されました。

 東京で開かれた集会には、用意された資料が足りなくなる約160人が参加し、ぎっしり埋まった会場は熱気に包まれました。

 「昨年5月のNPT再検討会議では、核兵器のない世界を達成することを目標として宣言しました。12月の国連総会では、核兵器禁止条約の交渉開始を求めるマレーシアの提案に、現に核兵器を持つ中国、インド、パキスタンも賛成票を投じました。国際政治の舞台では、核兵器廃絶を求める声が大勢となっています。署名用紙の印刷できます国連事務総長が、被爆者の命のあるうちに核兵器をなくそうと呼び掛けている今、世界の平和運動はこれを現実のものとするために立ち上がるべきです。そのイニシアチブを、被爆国日本から、被爆者とともに発揮すべきだと考えました」

 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の高草木博代表理事は、新署名に込めた思いをこのように語りました。
 
 国内外から賛同のメッセージ。国連からは、潘基文(パン・ギムン)事務総長とセルジオ・ドゥアルテ軍縮問題担当上級代表のメッセージが寄せられました。潘事務総長のメッセージは、「核兵器のない世界を実現するために持てるすべての力を発揮すべきとの確信を強めた」として、「私たちが(核兵器廃絶を)成し遂げるとき、それはみなさんのような人々のおかげなのです」と市民社会の役割を改めて強調。「みなさんの努力を全面的に支持する」と記しています。

(画像は、「原水協通信」(日本原水協)から。 文は、「平和新聞」(日本平和委員会)から転載しました) *署名用紙A4の印刷できます。




「憲法と平和を考える100冊」 No.84
 右遠俊郎著『小説 朝日茂』
                新日本出版社(1988/12/10発行、283ページ、1800円)
 2月14日(過ぎてしまいましたが)は、憲法25条の生存権を世に問うた裁判「朝日訴訟」の原告、朝日茂さんの命日でした。ということで、今回は本書を取り上げました。現在、品切(絶版?)ですが、古本で入手可能です。
 著者は朝日茂と同郷で、1926年岡山市生まれ、少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。戦後、東京大学国文科卒、『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補。その後日本民主主義文学同盟に加入する。1989年本書で多喜二・百合子賞受賞。

《第1章「見おろしは矢尾の部落に通う道何か故郷の道に似てあり」 朝日茂の生い立ち》
 第1章は、朝日茂の生い立ちから戦前の療養生活まで。茂は1913年7月18日、岡山県津山市に朝日清治郎の三男として生まれた。長兄喜一とは19歳年が離れており、茂が生まれた時にはすでに家を出て大阪で生活をしていた。学業が飛び抜けてできた次兄啓一は、担任教師にその才能を惜しまれ、高等小学校3年の途中で満州・撫順に渡り、炭坑事務所で働きながら勉強し、満鉄の給費生、奨学金を得て、南満州工業学校、南満州工業専門学校を卒業。
 1920年、父が53歳で死亡。小学校を卒業し大阪へ女中奉公に出ていた6つ違いの姉・松代が、その3年後、16歳で死亡。父の死後大阪から呼び戻され一家を支えていた長兄喜一もその4年後、33歳で死亡。次兄の援助で、津山商業学校に入学した茂は、1933年、卒業し、東京の日満倉庫株式会社に就職、働きながら中央大学夜間部に学び卒業。1936年12月、駐在員として大連へ転勤するが、翌37年1月、結核を発症し、2月、岡山県の病院に入院。11月、日満倉庫の川崎埠頭事務所に復職。復職して1年半後、母が死亡。その後再び喀血し、休職して故郷で療養生活に。1942年4月、日本医療団早島光風園(入院料1日1円)に入院。日満倉庫の退職金は220円であった。

《第2章「処置なきを医師に告げられ七年を吾は生きたり患者運動に」 敗戦と療養生活》
 第2章は、戦後の療養生活と患者運動。早島光風園では配給物資を私する事務長の不正・横暴がまかり通っていた。戦後、ここに入院してきた共産党員・榊の働きで、入院患者の権利が主張され、待遇が改善されていく。茂はのちに榊のすすめで入党。彼らの働きで療養所に患者自治会「療友会」が結成され、榊が委員長、茂は副委員長となる。病状が一進一退する中での患者運動。事務長の不正の摘発、戦後の食糧難の中で、栄養第一の結核患者のための食糧確保の活動、1948年3月結成された日本患者同盟岡山県支部副委員長などの活動に邁進する。1950年、再軍備により、生活保護費が締め付けられ、自衛隊が発足した54年には一気に保護基準が改悪され、患者自治会は「基準」反対闘争に立ち上がる。

《第3章「われ勝てり浅沼裁判長は声低く言葉少なく判決文を読めりと」 朝日訴訟の提起》
 1956年7月、宮崎に一家5人で生活していた兄啓一から茂のもとに月1500円を送金するという手紙が届く。何も知らない兄は送金した1500円がすべて弟に渡ると思っていたが、朝日茂に対する生活保護処分が変更され、900円は国に取り上げられ、600円のみが茂に渡される。茂は岡山県知事に対して保護変更処分に対する不服申し立てを行うが、却下。厚生大臣に対する不服申し立ては1957年2月15日、却下され、茂は提訴期限直前の8月13日、国(厚生大臣)を相手に、生活保護変更処分の取り消しを求める裁判を東京地裁に起こした。1960年10月19日、東京地裁(浅沼武裁判長)は、原告勝訴の判決を言い渡す。1954年から4年間月600円に据え置かれていた日用品費は、提訴の57年には640円、59年には670円、60年には705円に引き上げられていたが、勝訴判決の翌年61年には1090円、62年には1285円に引き上げられた。闘いの成果である。
 しかし、国側は控訴し、舞台は東京高裁に移される。国側は1審判決を覆すために総力を傾け、1963年11月4日、東京高裁は原告逆転敗訴の判決を言い渡す。茂の病状は2審判決前から悪化し、翌64年2月には最悪の状態に陥る。2月14日、患者同盟事務局員だった小林健二とその妻君子が茂との養子縁組手続をすませた2時間後、朝日茂は永眠した(享年50歳)。
 いま、生活保護法「改正」の動きがあるといいます。構造改革の結果、生活保護世帯が増えたため、受給期間を制限するとか。言語道断ですが、「2ちゃんねる」などには生活保護受給者を蔑視するような書き込みが見られます。古くて新しい問題ですが、生活保護は国民の権利であることを世に訴えた朝日訴訟の意義を再確認したいものです。
 NPO朝日訴訟の会 http://asahisosho.or.jp/




戦争賛美と憲法敵視 欠陥教科書に反対の声
■「戦争賛美と憲法敵視の教科書を採択させない市民集会」■ 2011/02/18

 「戦争賛美と憲法敵視の教科書を採択させない市民集会」が18日、関内ホールで開かれ、「『つくる会』教科書はもういらないの運動を!」と呼び掛けました。

 横浜市の教科書採択の経緯と問題点を寸劇で詳細に説明。
 これによると、2000年度まで横浜市は「学校票」(教科ごとに希望する教科書を1種類書いて、各学校が教育委員会に提出する)の集計通りに採択される民主的採択地区として有名であった。01年度に「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」の扶桑社版歴史、公民の教科書が登場。全国で「学校票」が廃止され、現場の声が反映されなくなった。
 05年度に扶桑社が採択候補に入り、09年度に横浜市内8区で中学校歴史教科書(自由社版)を採択。翌年度は小学校教科書も採択された。

 中学校社会科教科書採択の問題点はどこでしょうか。
@戦前の大日本国憲法を高く評価している
A国家に従順な人間の育成を目指している。
B戦争を格好よく描いて賛美している。
C自国を過激なまでに賛美し、アジア諸国を蔑視している。
と、しています。

 講演で小森陽一東京大学教授(九条の会事務局長)は、横浜市教育委員会の異常な採択手続きとその後の経過を説明し、「横浜市を全国最大の採択地区として同一教科書にし、戦争賛美・天皇崇拝・女性と民衆とアジアを蔑視する歴史を押しつける突破口にし、横浜の事例を神奈川県に、全国へと拡大していくねらい」があると指摘しました。
 そして、教科書問題の根は「領土教育」「歴史修正」への欲望。始まりは湾岸戦争(皮肉にも「日本は、海外派兵できないスゴイ憲法を持っているんだ」と世界で再認識された)、自衛隊の海外派兵を目論む。沖縄返還協定で仕込んでいた尖閣諸島問題など領土ナショナリズムでの中国脅威論等々歴史的な背景を説明しました。目的は、「誇らしい国だった」と教育し、9条を改悪してアメリカと一緒に戦争をする国にするといいます。
 小森さんは、「国による歴史の隠蔽は許さない。草の根運動をつくっていけるか、行動の仕方に掛かっている」と鼓舞。「この動きをチャンスにして、バラバラの地域を紡ぎ治していく、この狙いをはっきりと押し返していきましょう」と呼び掛けました。

 主催者は、「大人の責任として、偏った教科書で子どもたちの教育が歪められ、将来が閉ざされることを断じて許すことができません」とのアピールを提案。割れんばかりの拍手で採択されました。
                                        (瀧川 恒夫)




かもい洋子(鴨居ひろこ)さん 県民集会で提言
■2・17県民集会■ 2011/02/17

 「みんなが元気になる神奈川、くらしも 子育ても 平和も 安心できる神奈川へ」
 4月10日に実施される神奈川県知事選挙に立候補を表明した市民・平和運動のリーダーかもい洋子(鴨居ひろこ)さんは17日、横浜文化体育館で行われた県民集会で、雇用と生活、子ども・お年よりを大切にする県政、平和外交など3つの約束を強調。

 鴨居さんは、「松沢知事は構造改革を推進し、県民をなおざりにしてきた」と話し、@地域経済の再建A医療・福祉B教育・福祉C環境・平和など--各分野への具体的な提言を明らかにしました。
 そして、「県政の転換が求められている。県民の諸要求を実現するために全力で頑張る」と決意を表しました。

 平和団体は、県内米軍基地の撤去と平和外交の推進。教育分野は待機児をゼロに、中学校給食実現などを要求。建設は、住宅リフォーム助成制度の創設など中小企業を元気にする支援措置の拡充や公契約条例の制定など関連諸要求を訴えました。

 岡村共栄実行委員長は、「大企業に116億円援助した。小学校6年まで医療費無料にしても20億円。福祉・教育予算は全国で40位だ。特養老人ホームは3、5年待ちで、保育園にも入れない。本当に人間らしく生きられる社会を神奈川からつくり出そうではないか」と呼び掛けました。

 水谷正人神奈川労連議長は、「まっとうな政治、ひとり一人自発的に暮らせる社会。働きがいのある元気な神奈川にしましょう」と訴え、参加者は大声援で応えました。
                                        (瀧川 恒夫)




■「戦争賛美と憲法敵視の教科書を採択させない市民集会」の告知■ 2011/02/16

かながわく九条の会のみなさま
 昨日は、事務局会議お疲れさまでした。参加者は9人でした。内容は、後日報告します。

 直前になってしまいましたが、自由社版中学校歴史教科書に反対する集会のご案内です。
 すでに港北区などでは使用されていますが、2012年から神奈川区でも使用される危険性があります。私も参加します。ご都合がつくようでしたら、ぜひご参加ください。


 戦争賛美と憲法敵視の教科書を採択させない市民集会

日 時;2011年2月18日(金)午後6時30分(受付6時)
場 所;関内ホール(みなとみらい線馬車道駅5番出口徒歩4分・JR関内駅北口
下車徒歩6分・市営地下鉄9番出口徒歩1分)
参加費;300円
講 師;小森陽一さん(東京大学教授・九条の会事務局長)
主 催;横浜教科書採択連絡会
連絡先;090−9293−8446

案内文;
《ご存知でしたか? 横浜の中学校教科書のこと》
 2010年から、全国の公立中学校で唯一、横浜の8区の市立中学校だけが特殊な歴史教科書(自由社版)を使っています。この教科書は天皇崇拝、現在の憲法の軽視、日本が行った戦争の賛美、アジアへの蔑視など、国際常識に反するような偏った歴史の見方で書かれているため、専門家や教師だけでなく海外からも強く批判されています。
 また、歴史上の事実の間違いや編集ミスが多く、欠陥教科書と言われています。このため学習面や高校受験で横浜の中学生は不利になる可能性があります。《しかも同じような特殊な教科書が、来年度から4種類も登場、反対の声をあげましょう》
 2011年春から行われる教科書採択には、このような戦争賛美の教科書が4種類も登場し、教育委員会が採用すると、今後横浜市内全ての公立中学校で、4学年にもわたって使うことになります。
 こんな教科書を採用するなんてごめんです。しかし、横浜だけでなく神奈川県内では、教員や保護者・市民の声を無視して、教育委員会がこのような教科書を採用する可能性が高まっています。一刻も猶予できません。広くこの事態を知らせ、大きな運動にしていくために、ぜひ市民集会にご参加を!

 お時間のある方はぜひご参加ください。
                                     【事務局;小林】




■■ 2011/02/12    かながわく九条の会の皆さま こんにちは。

 次回事務局会議の確認です。
 来週2月15日(火)夜7時より、場所は、会事務所(神奈川スケートリンク向かい東北飯店2階・神奈川区革新と共同の会事務所)において、です。よろしくお願い致します。
 なお、かながわく九条の会のHPに2月11日の「『建国記念の日』に反対する2・11県民の集い」の記事を載せていただきました。現在の訪問数は4299になりました。「九条の会」での検索では、85番目になりました。六角橋九条の会のHPも久しぶりに更新しました。

                                       【事務局;小林】




「建国記念の日〜歴史教科書問題」 高橋哲哉さん講演
■『建国記念の日』に反対する2・11神奈川県民の集い■ 2011/02/11


 先日ご案内した「『建国記念の日』に反対する2011・2・11神奈川県民の集い」が2月11日(金)、午後1時より、横浜駅西口の「かながわ県民センター」でおこなわれ、参加してきました。

《「紀元節」復活に反対》
 この集会は、戦前の「紀元節」が1966年に「建国記念の日」として「復活」(翌1967年2月11日が初めての「建国記念の日」に)したことに対して、憲法の国民主権、信教の自由に反するものとして、反対する神奈川県民により始まったものです。今年で、44年目になります。キリスト教関係、教職員、自治体職員、労働組合など幅広い県民諸団体による実行委員会が主催しています。
 今年は、東京大学大学院教授の高橋哲哉さんが「東アジア・天皇制・建国記念の日〜歴史教科書問題にも関わって」と題して講演を行いました。以下、講演の概要を報告します。

《中国・北朝鮮脅威論を煽る日本のマスメディア》
 昨2010年の尖閣問題では中国脅威論が、朝鮮半島南北間の砲撃戦では北朝鮮脅威論が一気に広がったが、この問題に対する日本の国内のメディアの報道が異常だった。朝鮮半島情勢では、「北朝鮮」による「一方的砲撃」の前に、「韓国」による大規模な軍事演習がおこなわれ、北朝鮮は、実施しないように警告を発していたが、韓国軍は数千発の砲撃をおこなっている。韓国内では報じられているが、日本のメディアはほとんど報道せず、この事件が日本国内にも影響を与えた(高校授業料無償化問題など)。

《自由社版歴史教科書に反対》
 この横浜では、自由社版歴史教科書が使われているが、名前が変わっても「つくる会」系の教科書であることに変わりはない。3桁とも言われる「誤り」があり、植民地支配を朝鮮半島の近代化に寄与した、と描き、日本を「天皇の国」「神の国」と記述したいのであろう。日本の「負の問題」を美化しようとするなど、歴史認識の問題からみても反対である。

《朝鮮侵略の思想を支えた天皇制神話》
 戦前、朝鮮総督府がプロパガンダ用に制作した映画が、最近韓国で発見された。1938年から毎月1日を「朝鮮の愛国日」とし、朝鮮の2300万の人たちが日本を愛する振りをさせられた。神社への参拝、「宮城」遥拝、伊勢神宮遥拝が強制された。この映画では、天皇制神話を強制し、有無を言わせず「日本人たれ」「天皇のために命を捧げよ」とされていたことがわかる。
 韓国併合の際に、寺内正毅が詠んだ歌がある。秀吉の「朝鮮出兵」が果たせなかったことを実現したという得意満面なものだ。明治以降からではなく、中世から「三韓征伐」の天皇制神話(2000年前、仲哀天皇の皇后・神功皇后が朝鮮を征服したという神話)に基づく「神国思想」が民衆の間に広がっていた。それが秀吉の「朝鮮出兵」を支え、明治以降の「征韓論」を支えた思想である。「三韓征伐」は国定教科書にも取り上げられている。また、福沢諭吉や岡倉天心の著作にも「三韓征伐」が登場し、古来、日本の領土であり、朝鮮を日本が支配するのは当然、としている。

《朝鮮の人々の心を奪った植民地支配は「罪」である》
 「建国記念の日」にあたり、天皇制神話が植民地支配に大きな役割を果たしたことを考えてみると、日本による植民地支配は、朝鮮の人々の心(魂)を奪い、朝鮮人であること自体を奪うものであり、「罪」であった。そして、多くの日本人はそのことを「罪」と感じることができなかった。さらに、戦後の日本人も植民地支配を「罪」として感じることはなかった。
 すでに韓国併合から100年を過ごしてしまったが、今、日本人は植民地支配を「罪」とし、植民地支配に対する責任を果たさなければならないのではないか。
 サッカーのアジアカップで在日4世で最近日本国籍を取得した李忠成が決勝点を入れ、日本が優勝した。インターネットの世界では最初「勝った。良かった」という書き込みが続いた後に、李忠成が決勝点を入れたことに釈然としないというコメントも現われた。今の若者たちの捉え方にショックを受けた。

 例年「県民の集い」には参加していますが、今年の参加者は180人を超え、県民センタ−2階ホールが一杯になりました。「紀元節」「建国記念の日」については十分知っているつもりでしたが、高橋哲哉さんのお話は、目から鱗、新発見したことが多数ありました。昨年は韓国併合100年の年でしたが、日本の人たちはこの100年いったい何をしてきたのか。高橋さんはこの100年は「とりかえしがつかない」と言われました。私たちには、この取り返せないものを取り返す責任があるのではないか。高橋さんが講演の最後に言われた、「若者の歴史認識」に対して私たちには責任がある。そのためにも自由社の中学校歴史教科書を認めるわけにはいかない、と改めて思いました。
                                        【小林 孝生】




■「『建国記念の日』に反対する2・11神奈川県民の集い」の告知■ 2011/02/06
 集会の宣伝です。
 今度の金曜日は「建国記念の日」(「建国記念日」ではないので注意。戦前の「紀元節」)ですが、例年おこなわれている「『建国記念の日』に反対する2・11神奈川県民の集い」が横浜駅西口・ヨドバシカメラの先の「かながわ県民センター(2階ホール)」でおこなわれます。

 『建国記念の日』に反対する2・11神奈川県民の集い

場所    かながわ県民センター(2階ホール)
講師    本でも紹介した東大の高橋哲哉さん。
演題    「東アジア・天皇制・建国記念の日〜歴史教科書問題にも関わって〜」
参加費  500円です。
主催    日本基督教団神奈川教区靖国天皇制委員会などの教会関係者、
       神奈川私教連、浜高教、などの教職員関係、
       神奈川労連、神奈川自治労連などの労働組合、
       自由法曹団神奈川支部などの法曹関係者
       等々、幅広い県民諸団体でつくっている「集い」実行委
       員会です。

 お時間のある方はぜひご参加ください。
                                     【事務局;小林】




「安心して豊かに暮らせる社会をつくる運動が必要だ」と講演
■神奈川区革新と共同の会「第7回講演と音楽の夕べ」■ 2011/02/05

 「第7回講演と音楽の夕べ」が5日、JR東神奈川駅東口・かなっくホールで開かれ、150人余りが参加しました。主催は、神奈川区革新と共同の会。
 バラライカ奏者・北川翔さんと長尾和彦さん(ギター)による演奏6曲は、そのテクニックと豊かな音楽性に魅了されました。
 山家悠紀夫さん(「暮らしと経済研究室」主宰)は、「「構造改革」という幻想・「痛み」はもうたくさんだ!」をテーマに講演しました。

 澤田逸夫神奈川地区労連議長は開会挨拶で、「期待を裏切った民主党政権は退場してほしい。4月の選挙は要求をくみ取る選挙にしていく必要がある。今日の演奏で心豊かに、講演で頭豊かにしていこうではないか」と呼び掛けました。

 鴨居洋子さん(神奈川県知事選挙予定候補者)は、「暮らし、雇用を再生。福祉政策を進め、消費税増税には反対します。TPP参加は国の在り方を一変します。県民の命と安全を守る県政が求められています。子ども、年寄りに優しい県政にしていきます」と訴えました。

 山家さんは講演の冒頭、厳しい日本経済と暮らしの現状を図表を示しながら説明。この1年半で景気は一時に比べ良くなったが、圧倒的に輸出依存型で内需は不振。失業者は320万人という現実を説明しました。。
 暮らしを破壊し、日本経済を没落させたのは「構造改革」。橋本自民党内閣以来小泉内閣と続く構造改革政策は、企業が儲かっても賃金が上がらず、暮らしが厳しくなった。国内需要は増えず(デフレ)、輸出依存型になった。
 現民主党政権は、当初は「国民生活を第一とした政治を行う」と表明しましたが、09年12月の新成長戦略の閣議決定では、経団連の考え方と一致した基本方針を打ち出しました。法人税率を引き下げ、消費税で穴埋めする。そしてまた、菅首相は所信表明演説でTPPへの加盟方針を表明しました。農業を壊滅させ、食料自給率は10%台になるこの政策では暮らしはますます酷いことになります。
 山家さんは、その政策を痛烈に批判し、「財源はあります」と話し、そして、
 ●労働者も自営業者も農民も、週40時間労働でまともに暮らせる社会に。
 ●誰もが安心して暮らせる社会、社会保障は西欧並に。
 ●自治体の財源を確保し、農林業を再生。どこにいても豊かに暮らせる社会に
「誰もが安心して豊かに暮らせる社会をつくる運動が必要だ」とビジョンを示しました。

                                        (瀧川 恒夫)




「憲法と平和を考える100冊」 No.83
 高橋哲哉・斎藤貴男著『平和と平等をあきらめない』
                晶文社(2004/6/10発行、294ページ、1400円+税)
 本書は、2003年3月20日にイラク戦争が始まり、翌年2月には自衛隊がイラクに派遣されるなかでおこなわれた、東京大学大学院教授で哲学者の高橋と、フリージャーナリスト・斎藤の対談を収録している。
 高橋は「はじめに」で「いま、私たちの周囲には暗闇が広がりつつある。戦争と差別の時代の暗闇である。この暗闇を引き裂いて平和と連帯の明るみをたぐり寄せるのは容易なことではない。…それでも、私たちは、平和と平等をあきらめない。暗闇に抗して考え、声を発し、行動していきたい」と述べている。
 本書はまさにそんな時代に出版された「警世の書」。偶然の一致か、本書が発行されたのは、「九条の会」アピールが出されたのと同じ2004年6月10日。
 著者、高橋哲哉は、1956年福島県生まれ、東京大学大学院博士課程単位取得。東京大学大学院総合文化研究科教授。
 斎藤貴男は1958年東京生まれ、早稲田大学商学部卒業、英国バーミンガム大学修士、新聞記者、週刊誌記者などを経てフリージャーナリスト。

《第1章 「強い国家」を支える人間観について》
 高橋 1990年代半ばに、戦後補償問題をきっかけに社会的発言を始めたところ、日本の戦争責任をまともに論じようとする人間がこの世代から出たのは「突然変異」だ、と言われた。日本は10年前と比べて本当に変わった。負け組が切捨てられるのはやむを得ないという、「強者の論理」が大手を振っている。
 斎藤 1995年、日経連が『新時代の「日本的経営」』を出し、雇用の流動化が始まり、建前としての平等が崩れた。たんなる右傾化ではなく、雇用の場を中心にした人間観の根底の変化があり、エリートがそうでない人を見下すのはカッコ悪いし、してはいけないという規範が一気に崩れた。

《第2章 戦後、そして思春期に見た夢は》
 この章では、二人の生い立ち、子ども・少年時代、思想遍歴などが語られる。斎藤の父はシベリア抑留から1956年に帰国。高橋の父は戦争末期応召し、台湾で終戦を迎えた。しかし、どちらの父親も余り戦争については語らなかった、という。
 資本の論理を相対化できるマルクスの思想は今でも重要だと考えるが、ソ連崩壊後、なぜ日本の左翼も崩壊してしまうのかという素朴な疑問がある。今保守派はここぞとばかりに、左翼思想はもとより広い意味での人権派を徹底的に叩き潰そうと総攻撃に出ている気がする、と高橋。

《第3章 差別と戦争》
 高橋 いま有事法制づくりと不可分のかたちで教育基本法「改正」がしかけられているが、この二つは「戦争ができる国」のハード面とソフト面に対応している。本当に戦争をやる気なら、軍事力の行使を肯定し支持する国民の「心」「精神」が必要になってくる。逆に多くの人が反戦運動に立ち上がったり支持したりするようでは戦争遂行は困難なので、「愛国心」教育を通じて調達しようとしている。
 斎藤 戦争は究極の差別。みんな平等なのよ、と言っていられる間は戦争は起こらない。
 高橋 イギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、第一次大戦のとき各国の戦争プロパガンダを批判し「自分と全く同じ他人を殺傷することは文明人にとってはやりきれないものであるため、同じであるということを否定して、傷つけたい相手の側を邪悪なものと決めつけるのだ」と言っている。

《第4章 走り出してしまったバスのゆくえ 大学・司法改革》
 高橋 2004年4月から国立大学が独立行政法人化された。法人化され、年ごとに結果を堕さなくてはならないとなると、「悠長な」研究は切捨てられていく。大学が市場化されている。
 斎藤 「司法制度改革は構造改革の最後の要」(佐藤幸司)と言われる。司法制度改革は、構造改革で不満を持った層による犯罪が増えたら厳罰主義で全部取り締まるということ。ところがマスコミは栽培員制度くらいしか取り上げない。「迅速化」という看板だって、犯罪の背後にある社会悪への批判的視点を失わせ、人権を軽視する結果ばかりを招くのでは、と心配だ。

《第5章 マスメディアとぼくたちの同時代史》
 斎藤 ジャーナリズムの世界でどんどん居心地が悪くなっている。ジャーナリズムがはっきりと権力の走狗に堕していく同時代史を体験していると感じる。
 高橋 2001年、「従軍慰安婦問題」を取り上げたNHKの「ETV2001・戦争をどう裁くか」という番組で、右翼グループからの圧力を受けての改竄があった。その後、NHKではこの種の番組はほとんど放映されなくなってしまった。大メディアの保守化へのターニングポイントのひとつとして記憶される事件だ。
 斎藤 なぜメディアがこのような惨状を呈しているのか。石破茂が初めて防衛庁長官になったとき、憲法調査会で述べていた「徴兵制は違憲ではない」発言をマスメディアがどう報じるか注目していたが、どの新聞も一行も報じず、石破新長官の徴兵についての考え方を書いたのは『赤旗』だけだった。だから、石破を批判するヤツはそれだけで左翼だ、共産党だということになってしまう。

《第6章 あしたのジョーを泣かせるな》
 高橋 2003年11月9日の総選挙は自民・民主の二大政党制の基盤をつくったと言われるが、選挙前からメディアにより二大政党制が喧伝され、メディアの翼賛化が紛うかたなく確認された。今の社会状況が生まれた起点は1993年、細川首相が「侵略戦争」と認める発言をしたのに対して自民党の中の復古的な歴史観を持つ人々が反撃のためのグループを作ったところから始まっている。その後「自由主義史観研究会」などの歴史修正主義の動きが一部メディアと組み、日本社会の雰囲気を相当変えてしまった。
 斎藤 都議会で横山教育長が「君が代斉唱の際、生徒が起立しなかったら教員を処分する」と言った。東京の教育現場には、いまや恐怖政治による支配と服従だけが残されてしまった。今の政治状況を変えるには、何が何でも動くこと。恥ずかしい人間になりたくなかったら、ちょっと無理してカッコつけること。ぼくらの世代の子は「タイガーマスク」「巨人の星」「あしたのジョー」を応援した。彼らはみんな貧しかった。子どもの頃読んだ本や漫画を少しでも思い出してほしい。

《第7章 憲法零年》
 高橋 2003年11月、イラクで殺害された2人の日本人外交官の葬儀で小泉首相は、彼らは「日本の誇り」だからその「遺志を継いで」イラクの「復興支援」に取り組んでいく、と述べた。国策に従って死んだ人を「お国のために」尊い命を捧げた人として顕彰し、彼らに続けと国民を鼓舞するのは、靖国の論理そのもの。2004年2月末、民主党の西村真悟議員は「教育基本法改正促進委員会」設立総会で「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命を捧げた人があって、今ここに祖国があるということを子供達に教える。これに尽きる」と言っている。文字通りの教育勅語の発想だ。
 斎藤 今の日本社会はファシズムと表現するしかない状況になってしまいつつある。社会ダーヴィニズムに基づくエリート主義が広がっているが、まさに昨今の構造改革の本質だ。これ以上の経済大国化が軍事大国化を招いてしまうものだとしたら、経済大国であることを見直す必要もある。第三の道を本気で模索していきたい。希望を取り戻すためには壮絶な覚悟も必要。それが僕らの世代の責任かもしれない。




■県内の九条の会の活動 九条かながわの会のML■ 2011/02/01
県内の九条の会の活動が九条かながわの会のMLで届きましたので、ご紹介します。

●横須賀市民九条の会;1月21日に第6回国会請願を実施
 HPにその様子が掲載されています。http://yydeck.sakura.ne.jp/

●ふじさわ・九条の会;学習会のご案内
「変貌する日米安保 民主党政府は防衛計画大綱で何を変えたのか」
と き 2月15日(火) 18:30〜
ところ 藤沢産業センター 6階 研修室3 
講 師 菊谷節夫さん(神奈川県平和委員会理事長)
資料代  300円
連絡先 斎藤 隆夫(0467-35-7104)chibitasaito@jcom.home.ne.jp

●相模大野九条の会(協賛);講演会のお知らせ
「TPP問題の講演と映画試写会のお知らせ!」
・日 時 : 2月20日(日)午後1時〜4時まで
・場 所 : 相模女子大11号館2階 1127教室
         (小田急線相模大野駅下車北口より徒歩10分)
              ※正門入口警備室で場所・会場の案内があります
・資料代:500円
<第1部>講 演 : 「TPP参加は国民生活に何をもたらすか」
講師:大須 真治さん(中央大学経済学部教授)「マスコミはなぜTPP参加の論調が多いか」
講師:島田 圭一郎さん(元日本農業新聞代表取締役)
            県内諸団体の参加阻止運動報告(予定)
            県農協中央会、消費者団体、農民組合その他多数
<第2部> 映画アンダンテ〜稲の旋律〜試写会 午後4時〜
        旭爪(ヒノツメ)あかね原作の小説「稲の旋律」を映画化した作品で、日本の食と農のあり方を深く問いかけており、県下にこの上映運動をすすめるために行います。
主催 : 「神奈川農業問題研究会」 協賛: 「相模大野九条の会」
よびかけ人: 小川政則、岸 靖之、菅井敦也、小畑 一、鈴木忠夫、
【連絡先】:TEL&FAX 042-742-2253 小川政則 042-778-1655 鈴木忠夫
     E-mail アドレス: pmc2000@s3.dion.ne.jp

●鎌倉・九条の会;”憲法のつどい 2011 鎌倉” 井上ひさしの言葉を心にきざんで           鎌倉・九条の会発足6周年
2011年4月9日(土)18:30開場、19:00〜21:00
鎌倉芸術館大ホール(1500席)
講師 大江健三郎 (作家 九条の会呼びかけ人)「九条を文学の言葉として」
   内橋克人(経済評論家 鎌倉・九条の会よびかけ人)「不安社会を生きる」
   なだいなだ(作家 医学博士 鎌倉・九条の会よびかけ人)「靖国合祀と憲法」
入場券 900円(高校生以下 500円)
保育申し込みは3月31日まで
入場券の書店(鎌倉市内の6書店)での前売は2月9日からですが、鎌倉・九条の会のスタッフが既に売り出しています。どうぞ、下記にお申し込みください。
また、カラーちらしも 23.000枚用意し、ご連絡があればお届けしています。
個人メールにカラーちらし添付を希望される方には、お送りいたします。お知らせください。
( f&t 0467−60−5410 e-mail haruno.g@topaz.ocn.ne.jp
よろしくお願いいたします。
お申し込み Fax (0467)60−5410・24−6577)
E-maill  iza@kamakura9-jo.jp
HP http://www.kamakura9-jo.jp
問い合せ電話 0467-24-6596




■「六角橋9条の会の学習会」のお知らせ■ 2011/02/01

 みなさま 連絡が遅くなりましたが、六角橋9条の会の学習会のお知らせです。

 2月3日(木)午後6時30分より、神大寺地区センター・小会議室において、六角橋9条の会世話人会(学習会)を行います。
 内容は、横浜市中学校歴史教科書問題、小林が報告します。

 かながわく九条の会の次の会議は、2月15日(火)午後7時から、会事務所で
おこなう予定です。そちらもよろしくお願い致します。
                                   (事務局 小林 孝生)




「憲法と平和を考える100冊」 No.82
 窪島誠一郎著『「無言館」の坂道』
                平凡社(2003/8/6発行、203ページ、1800円+税)
 昨年の正月、この著者の『「無言館」にいらっしゃい』(No.31)を紹介しました。今年も1月5日、帰省の折に「無言館」を訪ねてみました。あらためて紹介すると、著者は、1941年東京生まれ。東京世田谷でキッド・アイラック・アート・ホールを主宰するかたわら、1979年長野県上田市に「信濃デッサン館」を創設。夭逝画家の素描を展示するユニークな美術館として知られる。1987年ニューヨーク州ウッドストックに野田英夫記念美術館を設立。1997年には信濃デッサン館の隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。
 本書は、1997年から2003年にかけて、『芸術新潮』『信濃毎日新聞』などに著者が寄せたエッセイなどが収録されており、第1章、「無言館」懺悔録、第2章、旅の途中で、第3章、こころの時代、第4章、「無言館」の坂道、という構成。

《「無言館」懺悔録》
 冒頭の「『無言館』懺悔録」は、「無言館」の開館(97/5/1)から間もない『芸術新潮』1997年7月号に掲載されたもの。第1章のタイトルにもなっている。「無言館」を開館したことにより、全国から開館への賛辞などとともに、問わず語りに戦争体験談や肉親の戦死者の思い出などが電話で語られる。そのたびに著者は反戦運動のリーダーに祭り上げられたような後ろめたさを感じるという。自分には戦没画学生の遺作を収集して歩く資格などあるのだろうか、と。

《「無言館」建設のきっかけ》
もともと「無言館」の建設は、20年前に刊行された『祈りの画集 戦没画学生の記録』(日本放送出版協会)の執筆者のひとりであった洋画家、野見山暁治氏の積年のねがいのもとに出発した企てであった。野見山氏は昭和13年(1938年)、東京美術学校(現東京芸術大学)入学、昭和18年(1943年)繰り上げ卒業とともに満州牡丹江省に出征。病気のため、昭和19年(1944年)2月に帰還。しかし、戦地に残った同級生、先輩後輩の多くが戦死した。2年前(95年頃?)、信濃デッサン館での野見山氏の講演の際に、今は亡き画学生への深い哀惜の念が語られ、それに心打たれた著者が遺作収集を買って出たという。

《戦没画学生の遺作収集の旅》
 しかし、著者と野見山氏による遺作収集の旅は、一筋縄では行かなかった。当時、すでに戦後50年を経ており、NHKから取り寄せた『祈りの画集』刊行時の資料(東京美術学校の名簿など)を頼りに、遺族との連絡を試みたが、50通の手紙に返信は20通にも満たない有様、その上、遺族からの返信には「両親他界のためすでに処分してしまった」「先年、火災に遭い遺作は残っていない」「あと10年早く言ってもらえれば」というようなものもあった。
 こうして遺作収集の旅を続けるうちに、自分がとんでもない詐欺師のように思え、後ろめたさが襲ってきた。何より辛かったのは自分には戦争体験と言えるような体験がなかったからだ。遺族から「あなたがこんなに熱心に遺作を収集されるのは、よほど戦争に辛い思い出があったからでしょうね」と言われて答えに窮した。そんな自信のなさをこぼすと、野見山氏からは静かに叱責された。すでに建設のための応援資金も集まり、着々と準備は進んでいるのだ。

《この絵だけがこの世に生きていたただひとつの証》
 そんな「自信のなさ」も全国から送られてくる遺作群と向かい合うと嘘のように解消された。北海道江別市の病院で戦病死した大江正美の遺作「白い家」(窪島誠一郎著『無言館 戦没画学生「祈りの絵」』講談社、1997/8/1発行、1456円+税、に収録されています)を飛行機で持ち帰った時は、飛行機の中で涙が流れてどうしようもなかったという。
 大江は働きながら絵を独学、道展などに何度も入選していたが、出征後、海軍で南方に転戦、マラリヤに罹って江別に帰り、30歳で亡くなった画家の卵だった。大江の遺作は、その最期を看取った日野病院の院長、日野本男が大切に保管し、日野の死後はその娘の家にあった。その娘さんは、大江の遺作を著者に渡す時、「この絵だけが、大江さんがこの世に生きていたただひとつの証なのです」と言った。
 著者が涙したのは、ふと、絵を描く者だけが持つ人間の幸福ということを考えたからだ。言い換えれば、画学生たちが抱いていた絵を描くことへの無垢な歓び。この絵が「無言館」にある限り、大江正美という一画学徒の生の存在を人は忘れないだろう。また、若い感性を無惨にもぎ取った「戦争」という暦を忘れないだろう。すべてに自信はなかったが、そのことがわかって涙が出たと著者。(ここまでで20ページ)

《戦争は私たちから「日常」を奪う》
 冒頭の一編の紹介に紙数を費やしてしまった。第1章(83ページまで)は、主に「無言館」開館に伴う世間の反応への著者の戸惑い(後ろめたさ)が語られている。「無言館」は反戦を訴える美術館ではなく、純粋に絵を描くことに全力を傾けた学生たちの純粋さ、絵を描くことの歓びが溢れた遺作を展示しているだけなのだ、と著者は言うが、「無言館」を訪れ、彼らの遺作と向き合う時、絵を描くことの歓びを断ち切った戦争への怒りが沸々とわき上がってくるのを抑えることはできない。戦争とは私たちの日常の平安を奪うものではないだろうか。

《旅の途中で》
 第2章(〜P134)では、戦没画学生の残した「腐れ胡粉」(日本画の顔料)、画家廣幡憲、「前山寺薪能」能舞台、など様々な話題が並ぶ。美術に疎い者にはちょっと難しいお話も…。第3章(〜P179)は、NHKラジオの『ラジオ深夜便「心の時代」』でのインタビューが収録されている。第1回(2002/1/5放送)は、夭逝画家のデッサンを集めた信濃デッサン館の話題、第2回(2002/2/2放送)は無言館の話題。

《「無言館」の坂道 一番うしろの「まえがき」》
 「無言館」は、山王山の頂きに建っている。山頂から見る風景はまさに「みすずかる信濃」の風景。ところが、「無言館」ができ、年間10万人が来館するようになり、風景が一変してしまった。また、「無言館」がどこか画学生たちを見せ物にしているのではないか、という疑いを捨てることができない。彼らはまだ画家として未熟な絵を美術館に飾られることを本当は望んでいないのではないか、と。そんな自問と自省を繰り返す日々。しかし、「無言館」を訪れるたくさんの人々が心の支えにもなっている。特に、年配者に混じって若い人が増えてきたのが心強い。画学生の絵に食い入るように見入る若者の姿を見ると、静かな感動に心を浸す。「無言館」を訪れる人たちが等しく絵の前で沈黙し、静けさの中で頭をたれて館を去るのは、画学生たちの絵の持つ魂の清らかさ、ひたむきさに心打たれるからではないだろうか。




「憲法と平和を考える100冊」 No.81
 井上ひさし・梅原猛・大江健三郎・奥平康弘・小田実・加藤周一・澤地久枝・鶴
見俊輔・三木睦子著『憲法九条、未来をひらく』
            岩波ブックレット(2005/11/8発行、63ページ、480円+税)
 著者は2004年6月10日に発足した「九条の会」呼びかけ人9人。このうち既に井上ひさし・小田実・加藤周一の3氏が故人に。発足から1年後の2005年7月30日、有明コロシアムでおこなわれた「東京・有明講演会」での6人の講演が収められ、当日参加できなかった加藤、澤地、梅原の3氏の文章が掲載されている。発足から間もない九条の会の息吹が伝わってきます。

《血を燃え立たせてやってきた 三木睦子》
 9人で始めたこの会の最年長者で88歳になる。平和の根幹に関わる九条の問題を何とかしなくてはと、燃えたぎる心の中の血を、文字通り燃え立たせている。九人全員が本当に一所懸命に、日本の将来のために東奔西走している。あの忌まわしい戦争を経てきた者として、若い人たちに、日本を平和にしていかなければならないということを伝えたい。平和こそが私たちのこれからの生きる道だと、つくづく思う。

《「耄碌」を盾に 鶴見俊輔》
 幕末に土佐から漕ぎだして難破し米国船に助けられアメリカまで行ったジョン万次郎が恩人の船長に送った手紙が残っている。手紙は「Dear friend」で始まるが、それには理由がある。船長はジョン万次郎を教会に連れて行くが、有色人種は受け入れられず、船長はその教会をやめ、別の教会を探すが、そこでも断られ、三つ目の教会でようやく受け入られ、家族ぐるみその教会員になる。この経験が万次郎のなかに深く浸透し、「Dear friend」の呼びかけにつながる。命の恩人といえども、その前に奴隷のようにひれ伏すことを喜ばないのだということを学んだ。これが日米安保のあるべき姿ではないか。いま私たちが米国と結んでいる日米安保条約は、これとはずいぶん違う。

《その日、帯広で 澤地久枝》
 有明九条1万人集会の日、先約のあった帯広にいた。その九条十勝の会には1000人以上の参加者があった。「盛況」には理由があった。共産系、市民系、社民党系と、これまでは対立することもあった各グループが、九条を守るという「大同」を優先させ、各団体の主張に固執せず、主導権争いをやめようと、時間をかけて話し合ってきたからだ。希望を持ち、前向きに取り組むなかで知恵も生まれてくる。大江健三郎氏が語られた、私たちの知らない形で生まれてくるものが必ずあると予感させるものがあった。

《再説九条 加藤周一》
 1年前の初夏、憲法九条のために日本国民に呼びかけたのはわずか9人。その1年後、東京・有明には1万人が集まった。呼びかけに賛同して各地につくられた「会」は3000。このことは九条を支持する意思を持ちながら、その意見を明示する機会を持たなかった人口がいかに大きかったかを反映している。戦争によって得るものは少なく、失うものは大きいという意識が第一次世界大戦後の欧米で強くなり、国際連盟と不戦条約がつくられたが、戦争を防ぐことはできなかった。一面は失敗だが、多面では失敗にも関わらず、戦争を禁止した国際連合、日本の「平和憲法」が現われた。戦争の「名目」には「平和」「自衛」「人道的介入」など驚くべき多様性があるが、戦争をする日本では、戦争か平和かを選ぶことはできない。九条の会は選択可能性の選択を呼びかけている。

《「覇道」ではなく「王道」を 小田実》
 孫文は、死の3ヶ月前(1924/11/28)、神戸の県立高等女学校(今の神戸高校)で「大アジア主義」の演説をしている。その演説の冒頭で、日露戦争での勝利がいかにアジア・アフリカの人々を励ましたか、と述べたが、その後半で大変重要なことを話している。それは、今(当時)の世界は、結局、英米仏などが強大な武力で席巻している。つまり欧米は「覇道」によって支配しているに過ぎない。日本もまた、「覇道」のロシアに対して、「覇道」で勝利した。しかし、これから日本はどうするのか。アジアの文化は、道義や倫理や文化を基本にした「王道」の文化であり、軍事力によって支配する「覇道」の文化ではない。「覇道」を行ってしまった日本はいったいこれからどうするのだ、と。しかし、日本はその後、そのまま「覇道」を行ってしまった。そして、敗戦後初めて憲法九条により「王道」を進みだした。それがいま、日本はその「王道」を捨てようとしている。ぜひこの憲法を守り抜いて、「王道」の日本をつくりたい。

《「第一項に手をつけず」に安心してはならない 奥平康弘》
 2005年4月、衆参両院の憲法調査会が報告書を出した。総計8センチの分厚いものだ。しかし、肝心の中身は“すかすか”。調査会の改憲メンバーは、改憲が必要であることを論証することなしに、ただただ“加憲”を叫んでいる。戦後60年の間、憲法改正の主要テーマは一貫して「九条」だった。改憲の側はいよいよ両議院の総議員の3分の2の賛成を得るための草案づくりに精を出すことになる。九条の的を絞ると言ったが、もっと言えば、憲法九条の第1項はそのままにし、第2項を「自衛のための軍事力を持つ」とするのか、あからさまに集団的自衛権を出してくるのか。アメリカは、日本が集団的自衛権を行使し、アメリカの後方支援をすることを当たり前と見ている。しかし、私たちが九条改正の企図をたたき潰すことができるなら、そういった悪しき方向への転換をも阻止することができるのである。

《求めるなら変化はくる、しかし、決して君の知らなかった仕方で 大江健三郎

 1980年に原爆被害者調査を行った厚生省の文書に「原爆の被害は“受忍”すべきもの」という記述があった。2002年、福田官房長官は、武力攻撃事態のとき、国民の思想・良心・信教の自由は「公共の福祉」によって制約されることもある、と述べた。私たちは、今、日常生活から基本的自由の制約について注意深くし、それを「受忍」しない覚悟を固める時ではないか。6月にソウルで開かれた作家や詩人のシンポジウムに出席し、「改憲の企ては2、3年は押し返せるかもしれないがその先はどうだろうか」と暗い見通しを述べたが、アメリカの詩人、ゲイリー・スナイダーが「あと5年は君の嘆く通りかもしれないが、10年先はどうだろう」と述べた。その後、送られてきた詩集に「求めるなら助けはくる、しかし、決して君の知らなかった方法で(if you ask for help it comes./But not inany way  you`d ever know.)」という詩句があった。この中の“help”を“change”に置き変えたら、「求めるなら変化はくる、しかし、決して君の知らなかった方法で」。

《「不殺生の戒律」を内包する九条 梅原猛》
 日本が社会主義になることは反対だったが、憲法は守らなくてはならない、という立場だった。今まで保守派と呼ばれてきた人間として、いま、「憲法を守れ」の声をあげねばならない、という思いを強くしている。私は腹の底から戦争が嫌いだ。仏教の不殺生という戒律は、人類が核戦争を避けるための重要な指針。この「不殺生の思想」を内包しているのが憲法九条。この信念故に九条の会の呼びかけ人になった。

《あんな時代に戻りたいのか 井上ひさし》
 昭和20年(1945年)の日本人の平均寿命は、男が23.7歳、女が32.3歳。広島では、2万5千点の被爆者の手記が広島市立中央図書館に保存されている。その中に若い女性の手記があった。その女性は自分も被爆して逃げていく途中、燃えている家の2階から「赤ちゃんを受け止めて」と赤ん坊を抱いた母親に呼び止められるが、「警察官を呼んでくるから」とその場を離れたまま、約束を果たさず、60年以上、そのことを悔やんでいる。そういう事件が無数にあった。
 藤原彰『飢死した英霊たち』のなかに、第二次世界大戦での軍人・軍属の死者230万人のうち、6割の140万人が餓死だった、とある。こういう時代に戻そうというのか。「平和を守ろう」というと、何か言葉が空転するような気がする。「平和」を「日常」に置き換えたらどうか。「平和を守る」というのは「私たちの今続いている日常を守ることだ」。




「九条をめぐる情勢」を展望 どなたでも参加できます
■「第39回あおき9条の会のつどい」のお誘い■ 2011/01/10

 基地移転、領土問題、国会議員定数削減等がクローズアップされた中で迎えた2011年。
 昨年12月、菅内閣は、北朝鮮の武力攻撃、尖閣諸島問題などを理由に「新防衛大綱」を閣議決定し、非核三原則見直し、海外派兵推進、日米軍事同盟強化等「動的防衛力」へ転換する方針を打ち出しました。

 憲法9条を守り生かす運動はますます重要になっています。

 今年第1 回のつどいは、国内外の情勢について学習し、運動への確信を深めたいと思います。
 どなたでも参加できます。皆様、大勢のお出でをお願いいたします。

 日時 2011年1月28日(金)午後6時30分
 場所 横浜長老教会
 お話 新谷 昌之さん(神奈川県労働者学習教会 講師)




「憲法と平和を考える100冊」 No.80
辺見庸・高橋哲哉著『私たちはどのような時代に生きているのか』
                角川書店(2000/2/10発行、112ページ、980円+税)
   本書は、東京新聞文化部の企画により、1999年9月7日、東京都内でおこなわれた辺見庸と高橋哲哉との対談をまとめたもの(「1999を問う」というタイトルで、9月16日から10月7日までの間、東京新聞夕刊に12回にわたり連載された)。
 著者・辺見庸は、作家。1944年宮城県生まれ。早稲田大学文学部卒、70年共同通信社入社、北京特派員、ハノイ支局長、編集委員などを経て96年退社。91年「自動起床装置」で芥川賞。
 高橋哲哉は、哲学者・東京大学教授。1956年福島県生まれ。2002年10月に『新・私たちはどのような時代に生きているのか』が岩波書店から出版され、本書の対談も収録されている(どちらも品切重版未定)。

《一九九九年問題の重大性》
 (辺見) 80年代から「状況について評論はするがコミットしない」状況と表現者とのむなしい関係があったが、高橋は表現者の責任として、あえて“危険水域”に踏み込んで発言している。1999年に至る長いプロセスがあったが、戦術的に「1999年問題」と言っている。「周辺事態法」「盗聴法」「国旗・国家法」「改正住民基本台帳法」を私の内面との関係で重大視している。これらは自身の表現行為にとって耐えがい圧迫である。
 (高橋) 身体のレベルでおさえるのが辺見さんの方法。99年が突然生じたわけではなく、10年前の89年を考えたい。昭和天皇の死と大喪の礼、社会主義圏と冷戦の崩壊があり、アジアの戦争被害者が顔と名前を持った個として日本国家を次々に訴える。93年、細川政権成立、95年、阪神大震災と地下鉄サリン事件、国会の「不戦決議」採択。その翌年、いわゆる自由主義史観キャンペーンが始まり、「新しい歴史教科書をつくる会」という歴史修正主義の動きが出てきた。マスメディアもナショナリズム的な動きに波長を合わせるようになる。

《戦後民主主義の限界》
 (高橋) 第145通常国会で成立した法案のうち、特に国旗・国歌法案には、自分なりにコミットしてきた。成立の直前「日本で民主主義が死ぬ日」という集会に参加したが、果たして日本に民主主義がどれだけあったのか。護憲派は第1条(天皇条項)の問題を戦後半世紀提起できなかった。戦後民主主義と護憲派の限界を感じる。
 (辺見) 僕は少し色合いが違う。戦後民主主義は自分自身のなかに牢乎として残っていて、他者の問題として言うことができない。99年問題も評論するのではなく、自分の責任として語りたい。99年問題の中心は、「日の丸・君が代」だけではなく、むしろ柱はガイドライン関連法。安保条約にもない対米軍事協力の項目を明文化し、米国による戦争に日本が官民挙げて関与することを決定づけている。憲法違反どころではない。

《リアリティーの喪失》
 (辺見) 近年、出来事のリアリティが見えなくなってきている。マスコミが原質を隠す役割をしている。そこから想像力の射程を延ばし物事のリアリティをつかむのは至難の技。僕の場合、何かを直接見て、まずもって傷ついてきた。それを「目が焼かれた」と表現しているが。
 (高橋) 学者研究者が社会的出来事や歴史にコミットしないで観念の構築物をつくるだけの研究に流れる傾向は昔から変わっていない。私にとっては在日朝鮮人の友人たちとの出会いが大きかった。

《歴史の開かずの間》
 (辺見) 映画『SHOAE』には目を焼かれた。各国に比べこの国の『SHOAE』の影響の少なさは驚くべきこと。凝った演出のないものにはほとんど注意を向けることがない。社会全体が想像力を枯渇させられている。
 (高橋) ランズマン(『SHOAE』の監督)は被害者のトラウマを暴き立てようとしている、との批判もあるが、そこまで踏み込まないとホロコーストの核心がつかめない。ある種の野蛮さがないと開かない、歴史の開かずの間があるのではないか。その点で、戦後日本には『SHOAE』に匹敵する仕事があったのか。

 ここまでで40ページ(対談4回分)。この後8回分の対談が続く。
 元慰安婦の人たち、『SHOAE』のユダヤ人の《身体的記憶の復活》。
 1999年の夏は見渡す限り傍観者だらけの《不可思議な全体主義》。
 戦後初めて全国戦没者追悼式で歌われた《五十四年目の「君が代」》。
 教員のようにはっきりと踏み絵を迫られることはなく、何気ない日常業務のなかにこそ落とし穴がある《見えない強制》。
 政治・社会・道徳のシステムを食い破り続けている《駄作としての資本主義》。
 在庫処理と称して一度も使われていないものが大量に処分されているこの国の現在に、道義というものが生じる契機があるのか。その国が《何を子どもたちに言うのか》。
 この夏の4法案を売れない商品と見なし、市場に流通させなかったマスコミを主とする《痛々しき情報市場化社会》。
 カジノ資本主義のもと、弱者同士が本当の的を見失ってど突き合いを演じている。犠牲者を生み出しながらあたかもそれが無いかのように突き進んでいく《サクリファイスの構造》。
 末尾に対談後の辺見の一文《新しい「ペン部隊」について》が付され、戦前の「ペン部隊」に比して現在のマスコミの問題を指摘している。




憲法を守り、活かす運動を、今年もさらに大きく
■駅頭宣伝行動のお知らせ■ 2011/01/07

 みなさま あけましておめでとうございます。
 昨年、かながわく九条の会は結成2周年を迎えました。
 改憲の動きは予断を許しませんが、その動きに負けることなく、神奈川区で憲法を守り活かす運動を今年もさらに大きく広げていきましょう。
 今年もよろしくお願い致します。

 2011年最初の取組みのお知らせです。

 日時 2011年1月10日(月)午後1時30分より
 場所 JR東神奈川駅西口で、署名宣伝
 集合 共同事務所 午後1時より準備します
                                      【事務局;小林】








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