「焼夷弾の雨。さすが強気の私も、これで駄目だと何度も観念した」
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(八木功さん・反町・県立横浜第二中学校三年生・当時15歳)
出典:横浜市・横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災1〜体験記編〜』(1976/6/1発行) |
当時、私は県立第二中学校(現翠嵐高校)の生徒だった。…登校の支度をしているうちに警戒警報、まもなく空襲警報が出され、私はその日の登校を断念した。…表の方で「反町の遊郭が焼けているゾ」という声が聞こえて来た。急いで反町の表通りに出て遊郭の方を見るとちょうど我々の子供の頃遊んだ原っぱの向うにある「金浦」が火炎に包まれているのが見えた。
ザーッとひっきりなしに聞こえる焼夷弾の落下音に対しても、いちいち防空壕に駆け込むほどの余裕はなかった。…激しい爆発音とともに、斜め前の家で焼夷弾が炸裂した。一瞬にして戸障子、襖を吹きとばし、紅蓮の炎を吹き出して燃え上がった。…
市電の反町停留所に出て青木橋へ向かう坂道を走り続けると、…広い電車通りには家財道具をかたわらに置き、うつろな目をして座り込んでしまっている老人も何人かいたが、とても他人のことまでかまっていることは出来なかった。走り続けている間にもザアーッという焼夷弾の落下音は間断なく続いている。青木橋に達する五十メートルぐらい手前で、ひときわ激しい落下音に思わず身を伏せると、目の前一メートルぐらいの所に長さ八十センチ、径十二センチぐらいの八角形の焼夷弾がアスファルトに突き刺さり火を吹き始めた。あわてて五歩ぐらい駆け出す。そこへまたまた焼夷弾の雨。さすが強気の私も、これで駄目だと何度も観念した。それでも何とか青木橋を渡り、洲崎神社の方に向かって再び走り出した。
正午頃だというのに空は黒煙でおおわれ、あたりの風景もまるで夜である。電車通りを隔てた授産所の五階建ビル(後の神奈川保健所)は窓という窓から真紅の火を吹いて、ゴォッという音が窓越しに聞こえて来る。ふと本覚寺を見るとあの由緒ある本堂が火に包まれ真赤な梁と柱のみになったと見えた途端、もの凄い火の粉を舞い上げながら倒壊した。凄絶というか無残というか、今も瞼に焼きついていることこの凄まじい光景に私は声も出なかった。…
さしもの火勢もやっと衰えて来た頃(二時頃だったろうか)人々は、やっと重い足をひきずりながら各人の焼け跡に向かって帰り始めた。…反町の我が家跡にもどった。無残! 表通りからの枝道は瓦礫と、まだくすぶり続けている熱気のために通ることが出来ない。仕方なく近くの空地に行き、ここで父達を待つことにした。…空襲から五時間経ってもなお我が家の焼け跡には立ち入ることが出来ない熱気があった。…
この日から数日は焼け跡の整理に追われ…焼けトタンを集めて作った屋根だけの小屋に入ったのは三日目くらいからだった。地面に敷いたナマコ板の上で寝るのだから、体が痛くて寝れたものではなかった。焼け跡で暮らした四日程の間に親類、知人の変り果てた焼死体とも何度か対面した。近所の家でも一家全滅という家がいくつかあった。東横線の高架の下にも数知れぬ遺体があった。松本方面で特に死者が多く出たのは、先に三ツ沢方面を焼かれ、反町、松本町の人々が避難を始めた頃には行く手を遮られて煙にまかれ、火にあおられて行き場を失った人達が多かったためだろう。
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