〜キネマ倶楽部に集う人々、熱く語る〜 |
「あしたのジョー」 かつて「我々は、あしたのジョーである。」と言い残して北へ亡命したアナーキストたちがいた。 しかし、私には、負けて明日を生き延びたジョーよりも、今日に命を賭け死んでいった力石の方が好きである。 昭和40年代の読者は、ノーガードから繰り出すクロスカウンターに魅了されていた。いわゆる肉を切らせて骨を断つという戦い方は、今でも日本人の好きなスタイルだろう。 ベトナム戦争、学生運動が激化していた当時、あらゆるものを思想的にみる風潮が席捲し、このボクシング漫画も、特に大学生によって政治的に読まれていた。 高度成長経済に対する批判が頂点に達しつつあった時であり、戦後文化がひとつの区切りをつけようとしているときであった。 敗戦を経験し、すべての価値観が覆され、新たな現実を直視せざるを得ず、そこから新しい文化が熟成し、その転換期にきていたのである。 当時の学生は、父親の姿から何もない現実を感じ、彼らが育てつつあった文化の全体像を見渡せる世代だった。 それから半世紀近く経た現代、今の若者は、何もない現実を見ることはできないし、それを感じるには相当の勉強と想像力が必要になる。 それでも、そこから思想を展開しようとすると抽象的にならざるをえない。現実にいくつものフィルター、虚構がかかっているからである。 「あしたのジョー」を今見るとき、当時の矢吹丈をイメージすることはできない。背景の現実がないからである。 だが変わらない現実もある。己の肉体である。 そして、自分の居場所を求めようとするモチベーションである。力石が計量台に載るときの身体は、本物の ボクサーをも唸らせるものがあるのではないか。この肉体のリアル感が、この映画の命である。 そして、このリアル感が、スタッフ全員の原作に対する思い入れを体言している。 何がそこまで惹きつけているのか。 昔、犯罪は社会との関わりのなかで描かれていた時代があった。今は罪を犯すのを世の中のせいにするなという。それだけ社会は個人と対立するものではなくなってきている。個のモノローグ性が強くなっている。それはボクシングやサーカスがスポーツと変わり果てていることと無関係ではないだろう。 対戦相手にたいする憎しみや、社会に対する恨みがすっかり抜け落ちているのである。 ジョーが力石を認めるのは、戦った後である。戦う動機は、やはり情念でしかない。それが今のスポーツには感じられない。 残念ながら、この映画にも希薄である。それは映画のせいではない。そういう環境なのだ。 文化を積み重ねて、色々なものを身近に獲得し、失くしたものに気がつかない。まして失くしてしまったものが現実だとは、誰も思いたくないだろう。だけどこの映画をみると、そういう事を実感せざるを得ない。 (2011/06/04 キネマス)
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「悪人」 言ってみれば、こう言う映画も観念的というのかもしれない。 プロットが透けてみえるというか、頭の中で考えた範囲でしか描かれていないという意味でしかないが。要するに現実が描かれていないと言うということだ。 物語の舞台は佐賀と長崎だが、それぞれの土地の匂いが全く感じられない。風景は写っているけど生活描写がないからである。 主人公の男の家族と職場、女の職場も紹介はされているが描かれているとはいえない。 女が、自転車で自宅と職場を往復する場面、売り場で愛想笑いする絵柄、ふと外を見るといつもと変わらない景色の挿入、男が訪ねてくると、好奇と嫉妬の目で見られるという設定。すべて閉鎖性という象徴である。 説明に終わっている。加えて、彼女は言葉でも自分の生活を説明している。 相を練るとき、全体のテーマ、それに基ずく構築、そのための素材を集め選び、考え推敲していくわけだけど、それぞれに現実感をもたせ詳細を埋めてゆくと、設計図が幾重にも塗り替えられてバランスが崩れ、元が見えなくなってきて再び書き直す。そうすることで作品が形を成していくわけだけど、この映画には、その跡がみえない。 文化が形成される時、人は理想的な観念をもち、現実にぶつかり、挫折し考え修正し再び構築していく。そういうことを繰り返し、文化は形作られ、塾生しやがて腐り、分解してゆく。 文化形成のどの時期に生まれるかによって、現実に対する認識がちがってくる。大雨で増水した河を歩いて渡るのと、車で通り過ぎるくらいの違いがある。 ここに登場する男と女、そして老婆にどんな現実がみえていたのかはわからない。生活描写が甘いからである。 地方の閉鎖性、劣等感、焦燥、そういう漠然とした抽象的なイメージしか伝わってこない。自分達が引き起こした事件によって、ようやく自分達だけの現実がみえてくる。 現実に甘い人間は、現実に対して抽象的な概念をもちがちになる。彼らは自分の世界に閉籠もるか、破滅の道をとるかである。ここに出てくる人々も、型どうりの展開をしていく。灯台という原風景に閉じこもり、追い詰められ開き直る。 結局、女を殺すことができず、悪にもなりきれず堕ちてゆく。 被害者の父が、娘を殺した男ではなく、彼女が憬れていた若者を追いつめていくことで、彼を、言いようのない、得体の知れない現代の犯罪の象徴としたいのかもしれない。彼ら若者とそれを生み出す土壌、その間に事件を起こしてしまった主人公がいるという構図だろうが、ここには何も描ききれていない。 説明があるだけだ。もし、そこに気がついてないとすれば、それこそ悪である。 (2011/06/04 キネマス)
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「かいじゅうたちのいるところ」 原作の絵本から受けるイメージを大事にしつつ、それを勢いにして映画を観にいった。絵本の世界が見事に映像化されていて、主人公の感情を体験する事ができた。 こういう類の映画を云々言うのも興がない気もするが、監督がスパイク・ジョーンズとあってはその創り方が気になるところである。やはり、「マルコヴィッチの穴」を想わせるものがある。 主人公が怪獣の島で巻き起こす騒動は、プロローグに描かれているように、全て彼の家で一度体験している事柄ばかりである。主人公の少年マックスと姉、母、そして彼女の男友達。更に言えばマックスのなかには、王様とかいじゅうが棲む。 マックスにとっては、家の周囲はもちろん家の中も冒険する処で溢れた場所である。冒険はいつも身を危険に晒す。だから雪合戦も彼にとっては実戦である。効果音でその臨場感を裏付けている。そして戦いから帰った少年は、床に体を横たえ椅子に坐っている母の足を撫でる。子ども動物が親に甘えて傷を癒している図である。 そして子供が大人へと脱皮する、というのがこの映画のポイントである。 スパイク・ジョーンズは、「マルコヴィッチの穴」でメディアを通してしか生活できない情報化社会で自己を亡くした人間が、特定の虚構化された人物の:きぐるみ:を着ることによって、他者を演じる興味を覚え自分に成ってゆく。演じている者が、演じているキャラクターに押し殺されているのを覚えて、:きぐるみ:から脱皮する過程が描いていたわけだが、成功していたとは思えない。 今回は、それほど複雑でもないし、いい原作に恵まれたこともあってキレイにまとまっている。 マックスは母の行為を受け入れることができず、家の中のテントに引きこもり、狼の着ぐるみに引きこもり、さらに:物語:のなかにひきこもる。ところが、物語の中でも同じ問題に突き当たる。親友と理想の家を造ろうとしたとき、そこにも自分だけの逃げ場を造ろうとして友の気持ちを裏切る。だが、今度ばかりは逃げられない。物語を創ったのは少年自身だからだ。彼は物語を閉じることをきめる。自分を自分でみる力がついたのだ。自覚に基く決断をして家に帰った時には、眠っている母を見守る優しさも身に付けていた。見事な脱出劇に仕上がっている。 とはいえ、この映画を理屈でいってもつまらない。見終わった後、自分の中の:かいじゅう:が目覚めないと意味がない。今の世の中、自分の内側の王様がすべてを支配して、かいじゅうが、暴れる隙がないように思える。物語というのは:かいじゅう:を目覚めさせる装置を内包している。この映画は、そういう物語の面白さを伝えてくれる。スパイク・ジョーンズが映画を撮る理由もそこにあるに違いない。この映画を観てそう感じた。 タイトル かじゅうたちのいるところ の 入り口と出口 (2010/01/31 キネマス)
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「沈まぬ太陽」 二つの太陽 執筆中から話題の絶えなかった小説の映画化である。実際この長編小説を映画に再構成するのは大変だったろうと思う。 私が感じたところでは、成功しているかどうかはともかく、ここに描かれているテーマの方向性には肯けるものがある。ただ全体の構図をわかりやすくする為にドラマ性を抑えてあるように思える。例えば演技をみれば解り易いけど、見られることを意識した芝居になっている。要するに舞台に近い動きをしている。その分だけ底の浅さは否めない。 日本経済を支えた企業の功罪を描いた映画は数にいとまがない。昭和30年代、40年代特に多く製作されたように思う。この映画もそのうちの一つである。 御巣鷹山の惨事が、この映画の核となっている。戦後の高度経済成長が背景に織りまれ、その出発点となる敗戦の惨状が、御巣鷹と相似形をとる構成になっている。 日本が人道の罪を犯して敗戦し、膨大な犠牲をだして得た、日本国憲法を基盤にした民主主義を獲得し、解釈を重ね、判例を積んでそれを固有のものとして、未来を見据えるための道しるべにするまで育ててきた。その縮図を映画は描こうとしているようだ。 渡辺 謙 が演じているのは一個の人間というより、日本企業がみ失わないようにしている、その良心という側面の方が強いようだ。 始めのほうに、彼が像の眉間を打ち抜く場面がある。この姿は、遺族に謝罪に歩いている印象に馴染まない。これは野心である。会社も社員も抱くものだ。これが光にも影にもなる。彼にもこのトゲはぬけない。象牙がいつまでも部屋に飾られている。 一般生活者と、彼との生活感覚のズレ。彼がいくら矜持としての良心を意識しても埋まらないズレ。無意識の野心の影が拭えない。それをどのように克服するか、御巣鷹は彼にどのように関わっているのか。興味はそこに集中していくわけだが、ドラマ性が希薄なため、はっきりしない。犠牲者の慰問をとうしての御巣鷹山とアフリカの大地に、何か痛低するものがあるのだろうが漠然として像を結ばない。 御巣鷹山の状況、事故の原因、会社の対応の全体像、夫々の詳細の描写がもうすこしあればと思う。 ところで、戦後の企業悪と言えば水俣がまず思い浮かぶが、これを映画にしようという会社は、昭和40年代はともかく、今はまずないだろう。たぶんモチーフに華がないからだろう。山崎豊子さんの小説は、社会性の強いものが多いが、大学病院、銀行、商社、航空会社。映画になっているものは、エリートが働くところが圧倒的に多い。商業映画はそんなものだ。 (2009/10/30 キネマス)
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「どろろ」 手塚治虫原作の「どろろ」の実写映画版。漫画の実写化、最近多いですねー。ヒドイのばっかりです。同じ時代劇系で言うと「あずみ」なんかありましたが、ガッカリする作品ばかりです。これからも続々と公開されますがもう期待はしてません。 今回の「どろろ」はテレビスポットなどで断片を観たらそんなに悪くなさそうでした。別に観るつもりはなかったんですけど、タマタマ観ました。TBSを儲けさせようとか思ったワケじゃないです。 一番印象に残ったのはオオサンショウウオだなあ。着グルミなのでゴジラとかウルトラマンの怪獣を思わせて、微笑ましかった。日本のお家芸だよなあ。子供の霊のカタマリのキャラも日本ならでわ。 香港アクションでは人間対人間だからカラス天狗の翼付きワイヤーアクションも斬新に感じました。 話の展開としては前半は魔物を倒し、百鬼丸の出来方?を物語るので楽しく観れました。 中盤は魔物を立て続けに倒すシーンがババババッと続くので、これはちょっと良いテンポだと思いましたが次に百鬼丸とどろろのマッタリとしたシーンに移るのでその落差が気になりました。まあどの映画でも中だるみってありますけど。 後半の醍醐の城から対決はちょと物足らなかったなあ。予算かな。城の中で魔物も入り乱れて壮絶にやって欲しかった。魔物だって暗がりの方がボロかくしになってリアルに見えるのに。 (2007/02/01 T.A.)
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「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」 世界的な児童文学書待望の映画化ってヤツです。子供の頃に読んで夢中になったモンです。作者C・S・ルイスの「永遠の愛に生きて」のが先に映画化されてて例のタンスのシーンもあったりする。 物語は大人になってから読んでないので結構忘れていたが、映像的には忠実に再現されていて素晴らしかった。アスランはでかくて威厳があって本物のライオンみたくてナイス。ティルダ・スウィントン演じる白い魔女もバッチリ。タムナスさんは個人的にはもっと若い人が良かったかな。メインキャラの4人の兄弟の3人は良かったんだけど、主人公のルーシー役がイマイチ好感がもてなかった。原作でも大人っぽくて、でもおしゃまな感もあり許容範囲内なんだが、映画では全然可愛げがないし子供っぽさがなさ過ぎ。なんか子役が大人の女性を演じているように感じた。 そもそも子供向けの話なので、大人が観るにはちょと飽きる部分もあったが、戦いとかは迫力あって逆に子供サンに大丈夫かとかも思った。吹替え版のが良いって話もあるが、劇場で観る場合周りが子供サンだらけになるので字幕版を鑑賞してきましたよ。 主人公ルーシーに好感が持てないと映画としてはカナリきついが、ハリーポッターやロードオブザリングみたくキャラクターが同じでないので、次回作以降にまだ期待が持てると思う。 (2006/03/23 T.A.)
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「エミリー・ローズ」 ドイツで起こった悪魔祓いについての裁判の実話らしい。興味を持ったのでネットで探してみたが殆ど情報は得られなかった。英語のサイトならあるかもしれないが。 基本は裁判劇とは知ってたが、せっかくのジェニファー・カーペンター迫真の演技のシーンが少なかったのが残念。陪審員の協議も見てみたかった。 エクソシストみたく超常現象をハッキリ映像化し悪魔は実在するといった描き方でなく、ギリギリ精神病かもと思わせる程度にしたトコロがまた真実味があった。夜中の3時ってのと123456ってのが怖くて良かった。んだが証拠や証人を小出しにするのがお決まりすぎ。納屋に行った意味もワカラン。猫のエピソードもいらん。 要するに俳優陣も良くて、感動的なオチだったがもう少し良く作れたんじゃねーのといった印象。ローラ・リニー扮する弁護士を主役にしたせいで彼女の出番とアップ多すぎ。イヤ、キレイで良い女優サンだが、彼女のシーンを減らせばもっと憑きっぷりが堪能できたハズ。 (2006/03/20 T.A.)
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「ミリオンダラーベイビー」 イーストウッド作品を見るたびに感心させられるのは、その器用さと手際の良さだ。『許されざるもの』以来、孤独と老いと死というテーマが一貫して底辺に流れている。今回もその例に漏れない。 文学的なモチーフを娯楽作品に構築し直す手腕は実証済みだ。特に今回は、娯楽という要素にこだわっているように見える。 主役の女性の貧しい生活描写として、ウエイトレスをしている彼女が、客の食べ残しを持ち帰るシーン。夜遅くまで一人残って練習して、モーガン・フリーマン扮するトレーナーが、彼女に近づくシーン。もう一つ例をあげると、ジムの中に少し風変わりな練習生がいるが、このキャラクターは、アメリカ映画では伝統的で、その使い方も昔から使い古された技術である。 普通は、こういう在り来たりを避けようと工夫する。 何故、娯楽映画の典型的な方法にこだわるのか。極め付きを言えば「見世物に成り下がった女子ボクシング」など、どうして撮る気になったのか。 モーガン・フリーマンのモノローグが物語を導いてゆく。「ボクシングは尊厳のスポーツである。勝者が人間の尊厳を全て奪い去る。」という言葉が耳に残る。 三人の人物が登場する。 イーストウッド扮する主人公(A)は、長年のパートナーである黒人(B)という友人がいる。これはフリーマンが演じているが、(A)は元ボクサーの(B)の失明と引退後の生活に自責の念を抱いている。止める責任がなかったとはいえ、無理な試合を続行させ、選手生命を絶つ結果をもたらした一因を担ったからだ。この事が(A)のその後の人生に大きな影響を与える。 タイトルマッチとは言いながら、未熟な選手に、生命を危険にさらしてまで戦わせていいのか。彼は、命と人間の尊厳の関係のバランスを見失っている。 友人(B)は、(A)に人間としての信頼は置いているが、マネージャーとしては失格だと考えている。 人生に、そうチャンスはない。男は負けると分かっていても、戦わなければならない時がある。自分にとって最後となった試合も、悔いはない。事あるごとに、金の事で小言を愚痴り、大きなチャンスを人に持っていかれる。そんな(A)を見ていると、仕事の張り合いも失せてくる。もっとも、試合ができなくなった自分に失望し、靴下に穴が空いても平気なほど自堕落になっていることも間違いないが。 或る時、例の風変わりな練習生が、ジムのボクサーに嬲り者にされているのを見て、(B)はその男をK.O.する。その時彼は自分の中に、かつてリングの上で戦う男のプライドが息づいていることに気づく。と同時に、自分が生きていく根拠地がジムにあることを自覚する。 そして、主人公、ヒラリー スワンクが演じる女性ボクサー(C)。 彼女が背負っているものは家族である。父親を子供の時に亡くし、母親と弟、妹とトレーラー暮らしをしている家族のために一攫千金を狙う。失われた家族の回復のために、彼女は戦う。 これが、各々の背景である。 (A)が家族を失った訳は書かれてない。彼は教会に通うが、神を信じているわけではない。家族に会うために通っている。彼にとって、教会は仮の家である。 (C)が家を買って、自分の家族に知らせるエピソードがある。 彼女の期待に反して、母親は自分の生活を守ることしか考えられなくて、喜んでくれる様子はない。(A)はその様子を遠くから見ている。そこに、自分が家族を失った理由を見たかもしれない。その帰途、二人は店に寄ってレモンパイを食べる。「本物のレモンを使った、本物のレモンパイ」という言葉が耳に残る。この二つのシーンの間に、彼女の口から亡き父と犬の逸話が語られる場面があるが、ここだけを採ってラストシーンの前振りと取るとつまらない。この映画には二箇所重要な場面があるが、ここはその一つで、登場人物が人生を模索するうえでキーワードになるところである。 もう一箇所は最後の試合の場面で、その模索の動機づけになるところだ。 (C)の試合の相手は、反則を平気で使う。だけど、客はそれを支持し熱狂する。だからチャンピオンは、それをトレードマークだと考えてしまう。(C)も、そういう相手とわかっていながらゴングが鳴ると、油断して反則を許してしまう。審判も客の人気で、判断のタイミングを誤る。 そしてセコンドは動転して、(C)を迎えいれる準備が十分にできていない。全てのところで、それぞれ奇妙な認識のずれがおきている。そして、皆、判断を誤る罪を犯している。通常なら、リングの上で(C)が意識を失う描写で十分だし、その方が相手に憎しみが増し(C)は同情を得る。しかしイーストウッドは、セコンドにもミスを犯させ誰が見ても彼女に重大事が起きた事をわからせる。(リング上で意識を失うだけだと、事の緊急性がわかるのは外の病院で、それを知るのは(C)の関係者だけになる。)椅子を使ったのは、重大性を際立たせるためである。 誰もに、ここで重大なことが起き、すべての人がそれに対して一因を担っていることを認識させる必要がある。この部分は、「ミスティックリバー」の色合いがある。イーストウッドは、このリングでの出来事を今の世界状況と考えているようだ。だから、チャンピオンの行為とセコンドのミスを、物語上のケレンと見るとテーマを見失うことになる。 (C)が全身麻痺状態になった時、(A)は当然衝撃を受けるが、ある生活を思い浮かべる。これは、ある意味彼が求めていた生活形態のひとつかもしれない。そうすることで、自分の罪の意識を消化できるかもしれないし、彼女に対して家族の愛情を抱きはじめている。ところが病状は悪化し、彼女のプライドはこの状態で生きていくことを拒絶する。 (A)は決断しなくてはならなくなる。 人間の尊厳と生命、これを二項対立としてとらえると永久に答えはでてこない。彼はこの問題を自分の状況に沿って考えることにする。 これは、自分たち二人の間に起きている問題だ。自分も彼女にも家族はいないも同然だ。そして彼女は今、威厳を持って戦っている。ならば、自分はセコンドとしての務めを果たさなければならない。自分たちは、まだ戦いの途中なのだ。そして戦いを終えて共に家へかえる。これが、彼の結論である。 イーストウッドは、ここで倫理の問題を持ち出しているわけではない。家を作り家族を護る者が持つべき条件としてのプライドを訴えている。(C)がこれまで持てなっかた物を、今目の前の女に見たわけである。その行為は、彼女に対しての敬意であろう。 この映画は、ボクシングを素材にしているがボクシン映画ではない。試合のシーンを省略しても、ドラマは成立する。それでも敢えて、試合のシーンを前面に出したのは、娯楽性のためだけではないだろう。 映画のなかに、二度ホームメイドという言葉が出てくる。これは、ホームメーカーという言葉を連想させる。ブレッドウイナー(主人)に対して主婦という意味で使われることがある。家族を護る女性である。その女達の戦いをボクシングに換喩しているいようだ。 (C)はアイリッシュ系の設定である。そうすると、開拓移民ということを考えないわけにはいかない。移民としてのアメリカでの生活。長い歴史の中での、苦しく厳しい戦いの中で、家族を作り守り続けてきた人達の生き様を、ボクシングの試合に描いたのではないだろうか。 もう少し視野を拡げれば、戦いは世界中でまだ続いているという事に気づく。悲惨な状況の中で、家族を守って戦い続けてる人が世界各地にいる。ひとつの家族が存在する、その長い歴史の背景を考えると、(A)の行為は自然なものに映る。尊厳は、生きる戦いに於いて絶対的な糧だからである。ボクシングが素材に選ばれたのは、イギリスと共に、アイルランドでも伝統的スポーツであり、それが、彼らの誇りを支える精神的支柱となっているからである。 イーストウッドは、(A)が家族を失くした理由を特定していない。様々な状況、色々な理由で家族と離れ離れになっている人々に、エールを送っていると思われる。 さて、この映画からは色々な事が読み取れるが、映画界に対する皮肉もその一つだろう。「見世物に成り下がった、女子ボクシング」同様に「見世物に成り下がっている映画」に対しても憤りをみせる。エンターテイメントでも上質のドラマはできる。それを証明するため、敢えて娯楽的要素にこだわったのではないだろうか。 付け加えれば、映画の質の悪化は観客にも一因があると言っているようだ。映画の最後の試合の構成を見ると、一番悪いのはチャンピオンではなく、反則を支持している客である。これは、『許されざる者』に出てくる保安官に対する視線と同じである。 映画作りの現場も家族のようなものである。「本物のホームメイドを」というのがイーストウッドのプライドだろう。 (2005/12/12 キネマス)
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「コープスブライド」 ティム・バートン、マイク・ジョンソン監督のストップモーションアニメーション。 わしのストップモーションアニメーションの原点は「シンドバッド七回目の航海」とかでなく、サンリオの「くるみ割り人形」。最近テレビでやっていたので、改めて観ると79年の作品の割りに非常に良く出来ている。実写なんかもあって。おおっ杉田かおるが声演ってたのか! 次がヤン・シュワンクマイエルですよ。夜中にやってたアリスはタマランかった…。人形モノでチェコの右に出るもんはないなー。ダークなトコもヨーロッパならでわ。 そんで、「ナイトメアビフォアクリスマス」。当時はCGだらけの中、今時ストップモーションアニメーションの長編アニメなんてウレシ過ぎるってイソイソと観に行き、期待を裏切らず、今となっては超人気モノ。次作「ジャイアント・ピーチ」は子供向け過ぎてイマイチだった。 今回の「コープスブライド」は、人間が主人公なので、んー?と思い、映画紹介で観た限りでは良く出来すぎていてCGのようにも見えたので、あまり期待していなかった。 実際観たら、バートンの世界が炸裂してて、キャラクターも皆不気味可愛かった。物語も厳密には悪役は一人だけだし、感涙もした。だが、音楽にインパクトはないし、ナイトメアほどには人気は出なさそう。 死者の町なので、骸骨が大量出演ってのは止む得ないだろうが、もうちょっと汚してリアルに作って欲しかった。長老も骸骨にヒゲを生やしただけで、インパクトに欠けた。犬も部分的に肉や毛があった方が良かった。 声優陣も、ナイトメアに比べて、ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン、トレイシー・ウルマン、リチャード・E・グラント、クリストファー・リーなどビッグネーム揃いだが、映像に集中してしまうので意味がない。その分、製作に金を回すべきだよ。 なんか酷評みたいな文章になったが、実は面白かったし、良かったです。好きっす。DVD買いまっす。 (2005/11/04 T.A.)
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「ヴェニスの商人」 シェイクスピアの作品は映画では良く観るが実際に読んだ事は一切ない。 この作品もどんなハナシだっけーと思いながら、段々あーそーゆーハナシだった…。みたいな感じ。 元々パチーノのファンだし、監督さんもそういう風に作ったんだろうし、時代的にユダヤ人の悪役は許されないし(「パッション」は例外だよな)パチーノの演技力の素晴らしさもあってか、シャイロックに感情移入した状態で見続けたので、法廷のシーンはまるで集団リンチに思えた。 そしてポーシャ悪女説の出来上がり。あんだけヒドイ求婚者だらけでは誰でもマシに思えてくるだろーさ。 法廷では「慈悲を見せて、引き下がらせるチャンスは再三与えてやったのに、拒否したんだから、この結果は自分のせいよ!無一文の性格と顔の良い旦那を貰ったんだから、私のお金も全額返して貰うわよ!旦那も恩を売って誓いもさせて、縛りつけ大成功!尻に敷いて、浮気なんかさせないわっ!」って感じ。アントーニオとシャイロックの経緯も知らんと、しゃしゃり出てきて、結果的にはシャイロックの破滅(改宗までさせるなんて鬼かっ!Noと言えっと思っちゃったよ)させといて、ウキウキの新婚生活突入っすか。 シャイロックがブッチギレた理由も十分理解できた。差別にあいながらも娘と財産が生き甲斐で、それを同時に失い、法にすがって復讐に燃える事だけが拠り所になっていたのに、結局は法に逆手を取られて。理不尽(差別?)な法の一部に止めを刺されてたが、そんなもん最初から分かってそうだぞっと突っ込み。 シャイロックの娘も、一度でも親を説得しようとは思わなかったのか?とかあまりの自分勝手っぷりに呆れたが、最後のシーンがあったので、まだマシ。逃げた奉公人も若干元の主人シャイロックに不憫さを感じてったぽく見えた。 アントーニオにしても、自分の行いのせいもあるし、同性愛説もあるので、好きなバッサーニオは結婚しちゃうし、彼の為に死ぬならそれも本望って感じで、最後まで殺されても良さそうだった。むしろ望んでるような。 結局は元凶のバッサーニオが坊主丸儲けかよー。納得イカネー。 パチーノは「リチャードを探して」とかでリチャード役を演じてたが、シェイクスピアと言えばケネス・ブラナーとは全然違うなー。ブラナーはアントーニオかグラシアーノを演りそう。勿論スタンダードにシャイロック悪役で。 (2005/11/04 T.A.)
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「shane[シェイン] THE POGUES:堕ちた天使の詩」 The Poguesの元ボーカル、シェイン・マガウアンのドキュメンタリー映画。The Clash繋がりで好きになったバンドだが、シェインからはクラッシュのクの字も出なかった。Sex Pistols以外のパンクバンドはクソ発言もあったりして、何をーと思った。でも、Johnny Rottenがアイリッシュだというプチ知識もあったり、シェインが口ずさむ、"No future"があったりして、ちょっとお得。 ただ、映像的には半分近くをミュージックビデオが占めていて、代わりに当時の貴重なライブ映像やインタビューとかがあればなと思った。テレビ番組の出演は貴重だけど、口パク多いし、ポーグスはやっぱライブが一番だと思うので。 シェインがポーグスを抜けてからは、新譜も買わず(せいぜいNick Caveとのデュエット位か)久しぶりの現在のシェインの印象は太ってて老けたなーだった。あったり前なんだけど。歌唱力(前もあったとは言えないが)落ちてるよーな気がするし。 それでも、人付き合いの悪そうなイメージがあったが、家族やアイルランドを大事に思ってるトコや(ご家族は総出演?)、性格が良さそうな印象は受けたし、人当たりも良さげで、やたら熟女にモテてた。「いつかきっと新しい歯が生えてくるわよ」ってのには笑った。 バンド脱退の経緯なんかが勿論シェインの口からと当時のマネージャー、大好きな曲の一つ、"Thousands Are Sailing"のライターPhilip Chevronのインタビューからなんつーかボヤッ〜と語られてた。真相はイマイチワカラン。成功したバンドなんてそーゆーもんか。まぁ最近は再結成ライブとかあったみたいだし、願わくば新譜なんか出してくれると良いかなー。皆生きてる内にね…。 (2005/11/02 T.A.)
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「皇帝ペンギン」 映画館の予告編で始めて目撃して以来、絶対観ようと思ってたエンペラーペンギン。観てきました。 「WATARIDORI」、「ディープ・ブルー」に続く生き物ドキュメンタリー。普段は字幕派なのですが、映像をキッチリ観たいので吹替え版を観ました(近所では吹替え版しかやってなかったし)。 ペンギンに限らず、動物のコケるシーンは面白いですなー。家族の再会の場面もキッチリ感動します。淡々としていそうだが、ビックリって意味でホラー映画ばりのシーンもあります。 映画館は寒いってのを忘れて、真夏の格好で南極の真冬の寒さを鑑賞してしまったので、ある意味体感してしまいました。イヤイヤ比較にはならんでしょうが。 皇帝ペンギンのヒナはペンギン界でもブッチギリの可愛さです。親が115cm位なので実はヒナでも相当でかい。 「ディープ・ブルー」を観た時も感じたが、これで映画になるんだとしたらNHKの「地球・ふしぎ大自然」とかの作品は相当レベルが高いんじゃないかなと思った。 (2005/08/03 T.A.)
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