このSSは、もともと萌え師匠の一作の続きのつもりで書いたものでした。
萌え師匠のSSは、陵辱要さんが、水川に命じて、月村先生と……させる
というものでした(恐)。

 

Arsenic

 
――ねえ、

聞き慣れた声が呼び止めた。

 
いつものように寮を抜け、滑りでてきた夜の街。

窮屈な学生服は脱ぎ捨てて、馴染みの宿に預けてきた。

今、この時ばかりは自由。自分を縛るものは何もない。

たとえ誰かと出くわそうとも、それは訳知りの知人ばかりだ。

そう。

呼び止めてきたその声も、確かに訳知りの知人ではあった……のだが。

 
決して、ここにいるはずのない男だった。

大島をさらりと着流した姿は、見事なまでに場の雰囲気から浮いている。

闇を払う金の髪、見目のよさも手伝って、道ゆく人々の好奇の視線を集めている。

当の本人はといえば……。

カフェーの入口脇の壁に背をあずけ、気怠げにこちらに視線を投げていた。

その空色の瞳は翳り、生気がない。

「やあ。金子君。……待ってたよ」

「嘘をつけ。たまたま逢っただけだろう」

「嘘じゃないさ。
 察するに君、これからレビューを観にいくところだろう?」

「だとしたら何だ」

「………………」

「用がないなら行くぞ。貴様の相手などしているほど俺は暇では――」

「ねえ、君さ……」

「何だ」

「レビューで明かすはずの夜をひとつ、僕に譲ってみる気はない?」

「…………はあ?」

「どうせ君のこと、レビューなんか見飽きてるんじゃないかい?
 損は――させないよ」

「……………………」

毎度のことながら、この男――水川抱月の行動は読めない。

今回は何を企んでいるのだ、と軽く睨んで値踏みしてみる。

また揶揄う気だろうか…………と。

しかし。

どうもいつもと様子が違う。

瞳の光が、暗くひずんでいる。

「天下の水川抱月、ご乱行か? つきあってやらんでもないが……。
 いったい何があった?  らしくないな」

「らしくない……か。
 案外、君が知らないだけで、これが僕の生地かもしれないよ?」

「ほう。面白い」

「行こう」

今まで見たことのないような微笑い方をして、抱月は身を翻した。

 
勝手知ったる、という風情で、彼は裏道に入っていく。

すいすいと角を曲がり、路地を抜け……。

看板すらかかっていない、分厚い鉄の扉をくぐった。

キイ、と音をさせて中にすべりこむ。

店員らしき男が物蔭から現れ、抱月と無言で視線を交わした。

そして、そっと鍵を握らせる。

「ここへは、よく来るのか」

「…………………………昔、ね」

「…………ふん」

自分は決して手の届かない領域――過去に、舌打ちをひとつ。

 
――――――――
 
……それは、残酷な命令だった。

誰を抱け、といわれたところで、今更どうということもない。

時折、小さな棘が心の裏を傷つけるけれど。

ひっかかれるのは、慣れてる。いっそそれを愉しむ術だって知ってるつもり。

でも、今回に限っては――。

洒落にもならないし、冗談にしたって最悪だよ……要君。

苦々しいものがこみあげる。

 
月を抱く――。

その筆名を選んだ理由は、と問われても、上手く説明できない。

月の毒を。

そして、どうすることもできなかった己の罪を、しっかりと抱いたまま生きて行く。

陽の光の差し込むことのない、甘美な夜の静寂の中を。

自戒。自虐。憎悪、そしてその正反対の感情。

全てを、その名に封じこめた。

その名で呼ばれるたびに、鮮やかに思い出すように。

深く、この胸をえぐるように――と。

 
――どうしました……?  レイフ?
 
この腕に抱かれていてさえ、その声の静けさは変わらなかった。

切れ長の瞳も、揺れもしない。

磁器のように冷たい肌が、上気することもついになかった。

こちらの感情ばかりが、逆撫でされる。

動かぬ、その整った顔立ち。

はらりと額にかかった前髪。

…………あの時のままだ。

窓から差し込む光の加減さえ、息遣いさえ、はっきりと覚えているというのに。

彼には、記憶に残す必要すらなかった――。

胸が痛み、叫びだしたくなるような感情を、何とか押し殺す。

氷に触れるような思いで唇を重ねながら、心は血の涙を流していた。

ふたつの瞳が、満足げにこちらを見ていた。

 
 
「っく、…………ん……んあ……っ」

甘い声に、触れる肌の熱さに安堵する。

味も匂いもない毒にあてられ、冷えきってしまった血の温もりが戻ってくる。

わざと入口でとどめておき、前だけを追い上げてやると。

「よ……せ、……なん……つもり――……ん!」

きゅうっと締めつけ、焦れて腰を揺らす。

「欲しい?」

「…………誰……が……ッ!」

「あ、そう」

「……ふ……! い……やだ、……放、っせ――」

弾けそうになっているところを強く握ったまま、深く。

「あ…………ああ、っ、や…………」

何度も強く揺すり上げた。

微妙に角度を変え、弱いところを突いてやると、
溺れているかのような腕が首にまわり、口づけをねだってきた。

彼の望むものを両方与えながら、自分もまた、与えられていることに気づいた。

そして僕はようやく――蘇生した。

 
「おい」

「何? まだ足りない? 欲張りだねえ、君」

「違う! たまに心配してやればすぐこれだ」

「心配?」

「何でもない! 忘れろ」

「嬉しいねえ、そこまで想ってくれるなんてさ」

「金輪際、貴様の心配なんぞしてやらんから覚えておけ」

「あ。非道い」

「非道いもくそもあるか。
 俺が心配するとしたら、それは水川抱月の次の本が出るか否か、 
 ただそれだけだ」

「うーーーんと。それはどうかな」

「……は? まさか貴様」

「金子君。岩永君に上手くいってくれない?」

「………………参考までに訊く。締切はいつだ」

「――――――――明後日」

「貴様!!!」

 
どうやら、毒の陶酔に身を委ねている時間は、今の僕にはなさそうだ――。

頭ごなしに怒鳴ってくる 「解毒剤」 がここにある限りは。

果たしてどちらが幸せなのか……。

それを考える暇すら、与えてはくれないのだから。

ともあれ、とりあえず助かったよ……有難う。

心の中でつぶやいた。

口に出したら最後、またつけあがるだろうから。

 
END
arsenic (英) 砒素。致死量0.2グラム。無味無臭無色。