訪 問 者




男は、いつになく急いでいた。
鬱陶しく垂れこめた雲。空気が、水の匂いを含んでいる。

いつもの細身の背広。べつに一張羅を着ているわけではない。
本来ならば、少しばかり雨に濡れたところで、そう困ることもないのだ。
…………だが。
濡らすわけにはいかない……これだけは。

男は、面倒臭そうに舌うちをすると、手にした紙包みを抱えこんで走りだした。
その背中を追うように、大粒の雨。
革靴の下で、砂利が跳ねた。
 
 ――――――――
 
同じころ。
庭に面した縁側に、だらしなく寝そべった姿があった。
座布団を折って枕代わりにし、腹ばいになっている状態だ。
傍らには、丸い盆。
冷めた茶と、大福でも包んであったとおぼしき紙の残骸。
そして、枕元に無造作に散らばった原稿用紙たち。

そう。
お世辞にもお行儀がよいとは思えないような格好で、彼……水川抱月は「お仕事」をしていたのだった。
長々と寝そべったまま、一枚書き、二枚書いては止まり。
反故紙の端に落書きをしてみたり、意味もなくごろごろと寝返りを打ってみたり。
誰が見ているわけでもないのに、一人でくたっと死んだふりをしてみたり。
しまいには、愛用の万年筆を咥えて、ぼうっと空を眺めたりなんぞしている。

……要するに、煮詰まっているのだ。

空模様までがあやしくなってきている。
と思っているそばから、雨が降りだした。

「……一天、俄かにかき曇り――。ひっそりと惨劇が起こるにはうってつけの天気だね」

屋根を、庭木の葉を叩く、雨粒。
ばらばらという音がいっそ小気味よいほどだ。

「このあたりで、雷なんかも欲しいところ――」
申し合わせたように、空が光った。
続いて、威勢の良い雷鳴。

「た〜〜〜〜まや〜〜〜〜〜。かぎや〜〜〜〜」

見当はずれのかけ声をかけつつ、雨戸を閉めるために立ち上がりかける。
さすがに、この大雨がふきこんではたまらない。


と。
抱月は、人の気配を感じて顔をあげた。
玄関から来ない、ということは、裏の塀を乗り越えて来たということ。
それはつまり――訳知りの知人か、さもなければ泥棒か、ということになる。

「おや…………水も滴る――――――――――」
言いかけて、抱月は言葉を止めた。

「続きはどうした」
男は、不機嫌な声で吐き捨てる。

「だってねえ……」
「何だ」
「滴ってる……だけだし?」
「………………帰る」

こんな所へ来たのが間違いだった、と言わんばかりの苦い顔。

「まったく。相変わらず怒りっぽいねえ……橘」
「誰のせいだと思ってる」

縁側に上がると、男――橘省吾は、水を吸って重くなった上着を脱いだ。
髪からも水が滴っている。

抱月は、立ち上がるのも億劫なのか、そのまま座敷へ這いずっていく。
とりこんだのはいいが畳む気のないらしい洗濯物の山から、手拭いをつまみあげ、橘に放った。

「横着者め」
「はいはい。ずぶ濡れで僕の家にあがりこんできたのはお前だよ? 文句は言わない」
「小雨になったら帰るから、傘を貸せ」
「やだね」
「………………」
「風情もなにもあったもんじゃないねお前は。
 『遣らずの雨』っていうだろう? ああ、お前が来る前から降ってたから、『来るなの雨』かな?」

「へらず口は健在のようだな、水川」
「お蔭様でね。これが僕のとりえだから」
「…………別に褒めてないんだが」
「知ってるよ。お前が人を褒めたりしたら、お日様が西から登って、卵からいきなり鶏が出てくるよ」
「どういう意味だ」

「いいから、とっととお風呂に入っておいで。今さっき入ってきたばかりだから、まだあったかいはずだよ」
「ふん」
「僕のダシが出て、きっと美味しいよ」
「誰が飲むか」
「あはは」




しばらくして、ぶつぶついいながらも湯から上がってきた橘は、座敷の端にどっかりと腰をおろした。
苛々を鎮めるために、煙草に火をつけようとするが、湿っているらしくなかなか火がつかない。
「…………しっかし……お前って――」
「………………何がいいたい」
「これ以上ないくらい、浴衣の似合わない男だね」
「放っとけ」

通いの家政婦が洗ったらしい浴衣は、ばりっと糊がきいている。しかし。
衿元にうっすらと残る染みは、きっと団子のタレか何かの名残りだろう。家政婦の苦労がしのばれる。

橘は、借り物のそれを上手く着こなしている。
それなりにさまになってはいるのだが……。

「それにさ。……この前髪。まるで昔に戻ったみたいじゃないか」
「触るな! 撫でるな! 気色の悪い」
「あ……そこまで言う」
「まったく」
「どうせそこまで言われるんなら、好き放題したほうが得だよねえ?」
「どうしてそうなる」

「現在、っていうのは、今この瞬間しかないからさ」
「…………水川?」
「僕はまだ、実感できてない。あの幹彦が、もういないなんてことをさ。
 今この瞬間に、涼しい顔して現れそうじゃないかい?」
「………………」
「僕は葬儀には出なかったけれど……幹彦が焼かれて骨になったのをこの目で見たって、きっと納得できないんだろうと思うよ」
「水川」
「このきな臭い世の中、僕もそのうち、この国には居られなくなるだろうしさ」
「――――――」
「その時はこの家は――」
「お前のことだ。どうせ何年かすれば、けろっと帰ってくるんだろう。その時、宿がなくて俺の家に転がりこまれるのは困る」

本当に迷惑だ、という表情を作って、橘がぼやいた。

「橘………………?  それって――」
「ふん」


「くだらんことを考える間に、原稿の一枚や二枚書け。書き上げようが書き上げまいが、〆切は間違いなく来るぞ。〆切前のこの瞬間を大事にしたらどうだ」
橘は、せいぜい不機嫌そうな顔をして、言い放った。

「………………鬼。あとほんの少しで、惚れ直すとこだったのにさ」

ぶつぶつと文句を言いつつ、散らばった原稿用紙をかき集める抱月の足元に、紙包みが投げつけられた。
「え?」
雨で少し湿った包みを開けると――。

「…………松月庵の芋けんぴ!!  それに!! うわあ、ざらめせんまで!!!」
「やかましい。時間を考えろ。俺はもう寝る」
「ごめんごめん、さっきの無し!! 惚れ直したよ、橘!!  いや。橘様!!」




             ――橘が、力いっぱい後悔するまであとニ秒。



                                                   END