Bedtime Story
 
頬に触れた感触で目が覚めた。
眠りを妨げられた、という気はしない。むしろ、何か怖ろしいものから救い出された心地さえする。
ほんの一瞬前のことなのに、もうどんな夢を見ていたかはっきりとは思い出せない。

ふわりと触れた、この手。
僕よりも大きい手。それでいて繊細な、長い指。
その温もりが、悪夢のざらりとした後味を忘れさせてくれた。





「ああ…………ごめんよ。
 起こすつもりはなかったんだ。君がひどく、うなされていたようだったから」


困ったような顔をして、その人は言った。
僕よりもずっと歳上のはずの彼――水川抱月は、時折とても可愛らしくすら思える。
心のどこかに、まだなお透明なものを持っている……そんな不思議な人だ。

今でも時々、心が痛む。
自分は、要さんのものになってから、ひどく変わったと思う。いろいろな意味で。
強くもなったし、同時に少し、弱くもなった。
僕には…………大事なものが出来たから。
要さんと、それから――。



「あんたもつくづく、変わってるよね。僕にどんなことされたか、忘れたわけ?
 お気楽な頭で羨ましいよ」

零れ出るのは、いつも憎まれ口。
本音を写した、歪んだ鏡。
わかってはいる。わかってはいるのだけれど。

「僕が変わってる、って言うんなら……真弓君、君もたいがい変わってると思うんだけど?」

慣れきったもので、相手もひるまない。
実際、彼がその気になれば、わけがわからないうちに言いくるめられてしまうこともある。
一言言えば、その二倍や三倍は返してくるような男だ。

「変わってる? どうしてさ」
「遊びにおいで、って言ったら、本当に来たしさ。
 ――あ。もしかして、忘れられなくなるくらい、よかった?」
「………………あんたは………………」
「僕はちゃあんと覚えてるよ。あの時君がどうやったか。
 さすがに、蝋燭が出てくるとは思わなかったけどねえ」

軽く笑いながら、とんでもないことを言う。

「お望みならば、今ここでそっくり再現してあげてもいいよ?
 なんせ、一生の間に一度できるかできないかの経験だからねえ、自分でもびっくりするくらい
 鮮明に覚えてるよ」

ふふん、と鼻で笑ってみせた。
どうして、こんなところで得意になるんだか。

「あんた、僕を苛々させて楽しいわけ?」
「………………ん〜〜〜〜。楽しいねえ」
「つきあってられないよ」
「あはは」
「……………………」
「あ。そうだ」

抱月は、いきなり立ち上がると、土蔵の梯子に向かった。つくづく、次の行動が読めない。

「どこ行くのさ」
「え? えーと。ちょっと台所まで」
「本当に?」
「本当だよ。こんな夜中に逃げ出してどうするんだい? 甘味処だって開いてないし」
「………………………………」
「あ。信用してないね。やだなあその目つき。いいから、ちょっと待っておいで」



足どりも軽く階下へ消えた抱月は、しばらくして戻ってきた。
手にした珈琲碗のひとつを僕にすすめると、自分も口をつける。

「…………うわ。甘い。何だよこれ」
「見てわからない? ホットミルク、ってやつだよ」
「それにしたって、こんなに砂糖入れることないだろう」
「それは……仕方ないねえ」
「仕方ない? 何が」

「だってこれは、特効薬だから」
よくぞ訊いてくれました、と言わんばかりに、得意げに答える。
…………………………………………怪しい。

「まさか…………何か盛った?」
「さあて? それはどうだろ」
ひきつづき、にやにやしている相手に、ちょっと不安になる。……やりかねない。

「な〜〜んてね。おや? 何か盛ってほしかったような口ぶりだねえ。
 残念ながら、ただの牛乳と砂糖だけだよ。…………………………今回は」
「今回は?」
「すごく効くやつは、また今度」

何だかもう、怒る気力もない。
僕は、盛大なため息をつきつつ、もう一口。やっぱり甘い。

「そうそう。やけどしないように、少しずつお飲み」
「……特効薬って」
「牛乳ってね。いろいろと効くらしいよ。苛々だとか、不眠だとか。
 あっためたのを、寝る前に飲むといいって聞いたことがある」

苛々してるのは誰のせいだと思いつつ、さらに一口。…………慣れると結構美味しい……かも。

「あとは、お砂糖の魔法、かな?
 甘いものを食べると、ちょっとほっとするだろう? 真弓君、あれ、どうしてだかわかる?」
「あんたが甘いものに目がないから」
「それもある。大いにあるけどね。一般論としては?」
「そんなこと、考えてみたこともないよ」
「考えて」
「………………………………?」
「はい、時間切れ〜〜〜〜〜〜〜!!」
「だってまだ――!」
「ふふん。答え、気になる? なるよねえ。しょうがないなあ。教えてあげよう。
 飲みながらでいいから聞いて」

空色の瞳が輝いた。
すごく楽しそうだ。こうなってしまうと、もう聞かないわけにはいかない。

「いいかい。ここに、子供のころの君がいる。
 何か哀しいことがあったのかな、君は泣いてる。
 小さい君は、もうどうして泣いてるのかも思い出せないのに、涙が止まらない。
 そんな自分をどうしたらいいかわからなくて、また涙が出てくる」


抱月はまるで、小さい子供に昔話でも聞かせるようにゆっくり、語りはじめる。
子供扱いされるのは嫌いだけれど、この声は嫌いじゃない。

「そこへ誰か――誰でもいいよ。
 親戚の誰かだっていいし、通りすがりのお兄さんだっていい――まあ、誰かがやってきて、
 君の前にかがんで、どうしたのって訊いてくる。でも、君の涙は止まらない」
「……………………」
「困ったねえ、ってその誰かは笑って、飴をひとつ取り出すんだ。
 勝手に顔がほころんじゃうくらい、甘くて美味しいやつを。
 君は驚くけど、つい嬉しくなっちゃうんだね。気がついたら涙は止まってる」
「……………………」
「誰かは、君の頭をそっと撫でて、にっこり笑って去っていきましたとさ。はいおしまい。
 ……答え、わかったかい?」
「ほんの少し……ね」

「『もう泣くのはおよし』でも、『偉かったね』でもいい。
 そんなあったかいものと一緒にもらった甘い味が、君の中のどこかに残ってるんだ。
 それを思い出すから、甘いものは心をやわらかくするんだよ。いくつになったってね」

何を夢みたいなこと言ってるんだろう。
そんな綺麗事を並べたって、信じるほど子供じゃない。
甘いものひとつでその場はおさまるかもしれないけれど、結局はごまかしだ。
何の解決にもなってない。
甘さが残っている間に苦いものを口にすると、その苦みはさらにひどく感じられる。

「残念だけど」
「…………え?」
「そんなことされた覚えはないよ」

そう。そういう声をかけられるのは、僕じゃなかった。
優しくなだめられるのも、抱きしめてもらうのも、僕じゃなかった。いつもそう。
僕なんかよりずっと馬鹿で子供で、どうしようもなく我儘で……なぜかそれでも愛されている奴が、いつもそばにいたから。

僕は「いい子」で当たり前。
何を言われたって、何をされたって、文句ひとつこぼさない。
何を言われたって、何をされたって、涙ひとつ流さない。
だって、そうだろう? お人形は涙を流さない。
叩きつけられてばらばらになったって、笑ってる。



抱月は、何も言わずにこちらを見ていた。
底まで透けて見えそうなその瞳は、謝りも、慰めもしなかった。

沈黙に耐えかねて、僕は最後の一口をすすった。
熱くてやけどしそうだったミルクは、もうすっかり冷めてしまっている。
甘い。

ふと僕は、思い出した。
小さいころなんかじゃない。そんな遠い、不確かな記憶じゃなく、もっと。
もっと最近の、鮮明な記憶。


  頬に触れる、優しい手。
  僕よりも大きく、それでいて繊細な長い指――。


その手が、すっと伸びてきた。
僕の手からカップをとって、傍らの机に置く。
そして、僕の頭をそっと撫でた。

「ようやく、特効薬が効いてきたみたいだね。薄いけど、上掛けがそこにあるからもうお休み」


正直まだ眠くはなかったけれど、僕は言われるままに横になった。
抱月に背を向け、目の前の壁を睨む。
今きっと僕は、ひどい顔をしているだろう……から。

背後に、抱月が横たわる気配があった。
ほんの一瞬、ちらりと盗み見ると。
片ひじをついて寝そべって、何だか嬉しそうに目を細めて僕を見ている。
なんで……なんで、僕なんかにそんな顔を見せるんだろう。この人は。
あんな非道いことをした僕なんかに――。
本当にわからない。


背後の気配が動いた。
伸びてきた手は、上掛けの上に無造作に乗せられた。
何をする気だろう、と思う間もなく、それは規則正しく拍子を刻みはじめる。

とん、とん、とん。

赤ん坊を寝かしつけるときのように、やわらかに。
とだえることのない鼓動のように、確かに。

とん、とん、とん。

どちらも、何も言わない。
目をあわせることもない。
ただ、背中ごしの相手の気配と、上掛けごしの温もりだけが全てだった。

こらえようとしても、涙はあふれてくる。

     『もう、泣くのはおよし』

とん、とん、とん。



特効薬は…………確かに効いた。悔しいけれど。


END