Blanket |
いつの間にか、眠ってしまったらしい……。 机がわりに使っている木箱から顔を上げると、ぐらりと視界がゆらいだ。 肌寒い。 昨夜のレビューの帰り、雨に濡れたせいだろうか。 |
「くそっ」 寮に戻って、早々に休むしかない。 だるい身体を無理矢理起こして、上着を羽織る。 本当は、この場で眠ってしまいたいところだ。 だが、そんなことをすれば、状況は悪くなるだけだろう。 妙に重く感じる扉を押し開け、寮に向かう。 |
薔薇の木の前を通り過ぎ……ようとしたとき。 「やあ、金子君」 腹のたつほど明るい、間の抜けた声が呼び止めた。 「また、サボタージュかい?」 「最悪だ」 「え?」 「あんたにだけは……会いたくなかっ――」 「……金子君?!」 限界だ。 脚に、力が入らない。 頭に霞がかかり、すぐそばにいるはずの繁の声が遠くなっていった。 |
――光伸様、そんなところにいらしては、お身体にさわりますよ。 ――お風邪を召されたりしてはいけません、お部屋にお戻りになって……。 煩い。 どうせ、「旦那様」や「奥様」に叱られるのが怖いだけだろう。 僕のことなんてどうでもいいと思っているんだ。 扱いにくい子供だと、陰口をきいているのを知らないとでも思うのか。 この家には、何でもある……僕の欲しいもの以外は。 この身体……ここ一番の時に無理のきかない身体が恨めしい。 我ながら、不甲斐ない身体だ。 簡単に熱を出す。今もこうして、咳に苦しんでいる。 腫れ物に触るように扱われるのは、御免だ。 思うままにならない身体を寝床に横たえ、鬱陶しい取り巻きを締め出した。 僕が自由になれるのは、このときだけだ。 頭脳明晰な探偵になって、難事件を解き明かすこともできる。 鮮やかに立ち回り、皆を驚嘆させることも。 その事件の舞台はいつも、おどろおどろしい中に、隠しようのない美しさがあって。 僕はいつも、夢中になった。 その本を読んでいる間だけは、全てを忘れることができる。 この、忌々しい脆弱な身体のことも。 この、不甲斐ない己のことも……。 こんな文章を書ける人は凄い。僕は、この人に救われたのだから。 決めた。 ……この人だ。 この人に、ついていこう――。 水川抱月――名前も綺麗だ――。 |
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驚いた。 目の前で、金子君が倒れた。 とっさに抱きとめた身体は熱く、呼吸も浅い。 とりあえず、家まで運んで寝かせ、かかりつけの医者に往診を頼んで――。 いろいろばたばたしていて、寮に連絡しなければ、なんてことは少しも考えつかなかった。 おおかた、また夜遊びでもしていたんだろう。 困ったものだ。 粋がって、意地を張るのは本人の勝手だけれど、どうにも放っておけないね。 君は、驚くほどに自覚がないんだ。 賢いし、一種の勘のような洞察力にも恵まれているのに、自分のこととなると |
温まってしまった手拭いを、たらいにつける。 試しに触れてみた額はまだ熱い。 大人ぶって、上げるときもある前髪は乱れ、額にはりついている。 金子君が、うっすらと目をひらいた。 苦しいかい、と問おうとすると、何か呟いて再び眠ってしまった。 熱で潤んだ瞳。 まばたきすると音のしそうな、長い睫毛。 紅潮した頬。 うっすらと開いた唇。 ……どれをとっても、罪なくらい美しい造形だ。 自分の鼓動が、どうしようもなく早くなってしまっているのを感じる。 かぶりをふって、湧き上がった想いをなんとか抑えた。 手拭いを絞って、額にのせてやる。 傍の机に向かいながら、思った。 ――参ったな。 これじゃあ、仕事にならない――。
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どうやら、夢をみていたらしい。 子供のころの……夢。 まだ、浅い夢と覚醒のあいだをたゆたっている。 俺はまた、熱を出したのか? 視界が霞む。ここはどこだ? 激しく咳こむと、ぼんやりとした後姿がふりかえり、こちらに寄ってきた。 そっと、上掛けを直し、熱を確かめるように頬に触れていく。 ひんやりとした、大きな手が心地よい。 人影は、そっと近づいて囁いた。 「………………光伸、」 聞き慣れた、柔らかな声だ。 快い。ずっと、呼んでいてほしい。 「光伸」 でも。 この声でこう呼ばれたことは、あまりない。 鼓動が跳ね上がり、思わず目をみひらくと――。 空色の瞳が、すぐ目の前にあった。 一瞬の間。 ようやく状況がつかめたとき。 その声は言った。 「……ひっかかった。 「貴様――!」 「おやおや。熱は少し下がったようだけれど、ひどい声だね」 「黙れ」 「たまにはそういうかすれ声も、色っぽくていい」 「――――!!」 この男は。 「怒ってるのかい? ガキだねえ。光伸坊ちゃんは」 「馴れ馴れしく呼び捨てにするな」 「ええっ? いい名前なのに」 「お前に呼ばれるのが我慢ならん」 「僕は天邪鬼だって知ってるだろう? 「いい加減にしろ! 「え? 何て呼ばないって? ねえもう1回!!」 しまった。 心底、嬉しそうだ。 「……ガキか」 「現役のガキに言われたくないねえ」 「き……さま……ゴホッ、治ったら覚えていろ」 「仕方ないね。一応病人なんだから、大人しく寝ておいで。 要らん、といい損ねた。 正直とても食べられそうもないのだが……。 |
しばらくして。 丈の短い割烹着を、むりやり着た繁が現れた。 小鍋を手にしている。 ……嫌な予感。 「お待たせ。金子君」 「食い物を……探してくる、といわなかったか?」 「いやあ。お手伝いさん、故郷に帰ってて一週間戻らないの、忘れてたんだよねえ」 「で?」 「お粥。作ってみたんだけど」 こわごわ、蓋を開ける。 一応、粥の形はしている。焦げてもいない。 「食べさせてあげようか? はい」 「自分で食う」 断固として断った。 一口。 「おい」 「どう? 美味しいかい?」 「いいから、作る工程を順にいってみろ」 「ええと。冷やごはんがあったから、水と一緒に火にかけて――」 「そこまでは合ってる。……それで?」 「とろみが足りないと思ったから、ちょっと」 「何を入れた?」 「葛粉……とお砂糖」 「そのひと手間が余計だというんだ! どうして途中から葛湯になる!!」 「美味しいかと思って」 「こんなに甘い粥がどこにある!!」 「オートミール……とかライスプディングとか?」 「英吉利の人間のそこが理解できん。何故主食が甘いんだ……。 「じゃあ、要らない?」 「要らん。素直に汁粉でも出されたほうがましだ」 「あ、そう。じゃあ、僕が食べるからいいよ。 ぐっ。 「気が変わった。……よこせ」 「あれ? 食べるの?」 「言っておくがな、食材が勿体無いだけだからな……くそ。甘い!!」 我ながら馬鹿だ、と思いつつ、全部たいらげた。 甘い。一体どれくらい砂糖を入れたんだ。 はなはだ不本意ながら、そのお手製粥とやらを食べて眠ったら、風邪は良くなったらしい。 |
……そして――。 「金子く〜〜ん」 情けない声がする。 あの後、繁も熱を出し、寝込んだ。 しかも、俺よりもっとひどい風邪だ。 「君でさえもかかった、タチの悪い風邪だよ。 「まったく、こんな状態なのに口のへらない奴だ」 「病人なんだから、大事に扱ってよ。 「………………まったく」 |
繁がこの状態なのはいい気味だが、新作が読めないのは辛い。 仕方がない。作ってやるか。 代わりに塩でもいれて……。 それでは結局、普通の粥か。 |
「とびきり、甘いやつだよ?」 「うるさい!! 黙って寝ていろ!!」 まったく、手のかかる男だ。 意地でも割烹着は着ないぞ、と心に決めつつ、俺は台所へ向かった。 |
END |
Blanket 1 毛布。上掛け。ブランケット。(名詞)
2 毛布でそっとくるんで優しく抱きしめてやるように、愛する。 |