Blue eyes Blue
 


   
 馬鹿馬鹿しいほどに、簡単なことだったのだ…………それは。
   今となってみればわかる。
   もし叶うならば――。
   あの頃の、怖いものなど何もなかった幸せな……愚かな自分に、耳打ちしてやりたい。


            ――――――――――――――――


「何を笑ってる? ろくでもない薬が、とうとう脳にまわったか?」

 煙草に火を移しながら、吐きすてられた言葉。
 先程までの痕跡を少しも残さず、身なりを整えたその男は、視線ひとつよこさない。

「そうかもしれないね……いささか、遅すぎたようだけど」

 一糸まとわぬ姿でうつぶせに寝そべったまま、答える。
 正確には、乱れたシーツが足先に申し訳程度に絡まっている……そんな格好だ。
 薬、酒、それ以外。
 もはやどれのものかわからない、けだるい酩酊の名残りをひきずったまま。

 さっき蹴り落とした枕を拾う。
 ふわふわと頼りないそれをかきよせ、抱きかかえるようにして、僕は独り言のように続けた。

「遅効性の毒っていうのはね…………………………よく、効くんだよ」
「始末が悪いな」
「――そう」

「…………ねえ。橘」
「何だ」
「お前はさ――――、」
「…………」
 言いかけると、橘がいかにも面倒臭げにこちらを向いた。
 目が合ったのをよいことに、そのまま、上目づかいにねめつけてやる。
 まだ残っている酔いのせいで、迫力には欠けるけれど。

「お前は……………………気づいていたんだろう?」
 ずっとひっかかっていた問いを、唇にのせる。
 その瞬間、ごくわずかに相手の表情が変わった。

「何のことだ」
 わざとらしいとぼけ方だ。
 何としてでも、僕の口から言わせたいらしい。いつもながら意地の悪い男だ。

「…………幹彦のことさ」
「くだらんな」

 橘の爪が、机を叩いている。苛ついているらしい。

「簡単な話だ。一度目は俺も驚いた。だがそれが、何度も続けばな。
 面白いものが拝めたものだ。
 上級生という名のくだらん連中と、倉庫へ消える優等生。
 しかも、日によってお相手が違うときてる」

「………………」

「ある日、お相手同士が鉢合わせして、放課後の裏庭で刃傷沙汰が起きた」

「………………」

「俺のリーベだ、いや俺のだ、などと吠えたあげく、片方がナイフまで持ち出した。
 ナイフがかすめて、もう片方の腕から血がしぶいた。
 自分の頬にその血がかかっても、あいつはいつもの調子で薄笑いを浮かべていたぞ」

「そんなことがあったなんて……聞いてないよ」

「……さあな。おおかた、力でもみ消したんだろう」
 言葉のとおり、灰皿に煙草を押しつけて消し、橘はこちらを見た。
 苦笑しつつ、続ける。

「その後、それとなく刃傷沙汰の話を持ち出して、つついてみたんだが……。
 あいつは、何と答えたと思う?」

「聞きたくないよ」

「『上級生に従っただけです。いけませんか?』」

「もういい!」

「お前が訊いたんだぞ。水川。最後まで聞け。
 俺は答えたさ。
 『いいや』とね。
 その言葉だけを取り出したら、確かに間違っちゃいない。
 長幼の序。昔からの美徳だ。
 それでおおかたの察しがついた。
 月村が優等生である理由。
 月村という男の流儀――」

 僕が耳を塞ごうとするのを愉しむように続けながら、新しい煙草に火をつけ、
橘はゆっくりと煙を吐いた。

「そういえば……奴が一体、何者であるかも知らずに、世話をやく莫迦がいたな」

「悪かったね」

「その男は、呆れるほど献身的で健気で……恋に酔った詩人の見本のようだった」

「気づいていながらお前は、僕に伝えようともしなかった」

「当たり前だ。考えてもみろ。
 今まさに甘い夢をみてる奴に、これは夢なんだと言ってやったところで何になる?
 耳をかすはずはないだろうが。放っておいてもどうせ、目覚めるときは来る。
 そのぶん、真実に気づいたときの傷は深いが、美しい思い出に仕立て上げることは出来る。
 たとえ現実が、どんなに残酷であろうとな」

「……………………橘」

「ん?」

「美しい友情に、心から感謝する。お前が大好きだよ…………吐き気がするほどにね!」

「それはそれは。光栄だな」

 無理矢理に立ち上がると、世界が回った。
 おぼつかぬ足どりで、数歩。
 橘の前に立ちはだかり、唇から煙草を奪って灰皿に放る。
 真っ向から睨みつけてやると、橘は、口の端だけで嘲笑った。


   僕はどうせ…………莫迦だ。すこぶるつきの。そんなことはわかってる。
   ただ一言、こう言えばよかったんだ。
     「幹彦、僕のものになれ」――と。
   そんな簡単なことにすら、気づかなかった。……あの頃は。
   気づいていたとしても、そんなやり方で縛りつけるのは趣味じゃないけど。


 にやにやと笑いながらこちらを窺っている様子が、どうにも癪にさわる。
 僕は、整えられた橘の髪に手を伸ばし、思いきりぐしゃぐしゃにしてやった。
 それでも、何もなかったかのような顔をしてされるがままになっている。
 まるで、思い出したくもない「誰かさん」のように。
 
 心のどこかが、焼き切れる音がした。

 ネクタイをむしりとり、釦を外して、直に肌に触れる。
 僕の肌より、いつもすこし熱い肌。
 下もくつろげて、唇で、舌で追い上げる。
 むしゃぶりつくようにして、わざと手荒に。
 その段階になってはじめて、橘が口をひらいた。

「これから……………………出かけるんだが」

「知らないよ。そんなの。どうせ、あの女のところにでも行くんだろ。
 なら、皺の寄った汚れたスーツのほうが似合いだよ」

「本当に手のかかるガキだなお前は。慰めてほしいなら、素直にそう言ったらどうだ」

「誰もそんなことは言ってない」

「ならば何だ」

「僕は慰められるのも同情されるのも、好みじゃない。
 それくらいならいっそ……」

「いっそ?」

「――蔑まれたほうが、よっぽどいい。
 奇異なもの、穢れたものを見る目には慣れてるからね!」

「救いようのない莫迦だな」

「おあいにくさま。はなから、お前に救ってもらおうなんて思っちゃいないよ」

 言いすてて、手の中で育ったものを舐め上げる。
 跪いていた身体を起こしかけて、
 つい先程橘が放ったものが身体の奥から流れおちるのを感じた。

「んん……っ!」

 これならまだ、大丈夫だ。
 そう判断して、僕はそのまま、橘の上に腰をおとした。
 頑丈さだけが売りのような椅子が、ぎしりと音をたてる。
 酔いの残滓の助けを借りて、さっき鎮まったばかりの熱を呼び戻した。
 目の前の男を、視線で責めながら……揺する。

「…………っ、あァ……ッ!」

「何のつもりだ」

「わかり……きったこと、訊くんじゃないよ」

「ふん」

「………………ん! っひあ……!」

「前言撤回させてもらう」

「え?」

「お前は、見下げはてた莫迦だ」
 
「……お褒めの言葉……っん! 有難く、頂戴する……よ!」




   …………お前のせいだ。


 ようやく、やる気を出したらしい相手にしがみつきながら、心の中でなじる。
 
 泣きたいくらいに憎い。だが同時に、愛おしくて仕方がない。
 ゆがんだ心が、同じくらいにねじけた心を求めてやまない。

 永遠に届かないことは身に沁みてわかっているはずなのに、それでも――。
 それでも、月に手を伸ばしてしまう性。

 傷つき、血を流すのは自分だと知りながら、それでも刃に触れにいってしまう性。

 そんなものを満たす相手は……「人でなし」だけだ。
 どちらにせよ、「人でなし」であることには変わりないのだけれど。

 欲しいのはただ、新しい傷。古傷の痛みを忘れるくらいに鮮やかな……痛み。
 そして、束の間の享楽。
 その両方を投げ与えてくれる、憎い愛しい男の腕に、身を委ねる。

  
    
   …………お前の、せいだ。



「…………! おい、水川。そんなに締めつけるな」

「煩い」

「――――?」

「僕は一生、お前を許さない……今決めた」

「面白い」

 猫科の肉食獣のように獰猛に笑うと、橘は僕の腰を持ち上げ、
抜けかけたところで手を放した。
 
 自分の体重がそこだけにかかり、奥まで激しく貫かれる。
 それを何度も、僕が音をあげるまで繰り返した。
 
「……!! ふ……! あ! ぅあ! あ……ん!」

 いつもより圧迫感を増した橘が、内側を擦り上げる。
 達しそうになると、前を握って封じられ、僕の弱いところを狙って突き上げられた。

 前で果てることを許されぬまま、中だけで何度も達かされた。

 朦朧とした意識の中、椅子の軋む音だけがいやに明瞭に聴こえていた。 

END