Butterflies |
目の前をふと、何かがよぎった。 きらり。 ふわり。 帯のようにさしこむ薄明かりの中、それは現れ―― そして、誘う。 手をのばしてとらえようとして、思うようにならない。 身体が、濡れた綿のように重い。 水の中のように濃密な空気。 だるい腕をようやくもちあげ、それに触れた……はずだったのに。 僕の指は、すり抜けてしまった。 ……いつもこうだ。 あれは、幻だとわかっているのに。 硝子の色をした……美しい蝶。 |
僕の記憶の中で「彼」は、いつもセピアの光に包まれている。 寮の、あの窓を通してくる夕暮れ時の光。 僕はあのとき、だらしなく寝台に寝ころびながら本を読んでいた。 規則正しく聞こえていた音がとぎれ、僕はふと顔をあげた。 そして、窓辺で机に向かっている彼に近づいていく。 声をかけようとして驚いた。 「どうしたんだい、これは!!」 「…………? 指を切った、だけですが?」 彼は不思議そうにこちらをみつめた。 机の上には、削っている途中の鉛筆と、小刀。 そして、血。 「だって……お前、こんなにざっくり……」 「そう痛くもありませんし、たいしたことではありませんよ」 見ているこちらのほうが眩暈がした。 「ああもう、こんなに血が出てるのに、放っておくわけにはいかないだろう! ポケットにあった手巾を取り、強くおさえる。 しかし、血はそう簡単には止まってくれなかった。 気がつくと僕は、血のにじむその指を口に含んでいた。 「ほら。一応、これで血は止まったみたいだ。 「レイフ…………?」 「え?」 「どうしてそんなに慌てることがあるんです?」 「どうして……って」 「こんな傷など、心臓より高くしてしばらくおさえておけばすむことです。 「そりゃあそうだろうけど、心配だろう? だから――」 「……心配、ですか」 彼は、首をかしげたまま考えこんでいた。 おそらく、本当に彼にはわからなかったのだろう。 そして、顔を上げるなり呟いた。 「君は、変わった人ですね。レイフ」 「それはこっちの台詞だよ、幹彦」 思わぬ言葉に、笑いがこぼれた。 |
とらえたはずの蝶が、ずっと遠くを飛んでいる。 きっと、どこまで追っていっても同じことなのだろう。 触れたい。 口づけしたい。 それが叶っても、虚しさは埋まらない……今ならわかる。 それでも、こうして追ってしまう。 届かないのは、痛いほどわかっているのに。 |
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「……おい…………」 誰かが呼んでいる。 今は放っておいてほしいのだけれど。 身体中が痛くて、だるくて仕方がない。 何も考えたくない。 「……おい!! 起きろ!!」 頬を思いきり叩かれる。 「…………痛い」 「呼んでも起きん貴様が悪い」 「ああ……金子君、来てたの」 「まったく……何だその腑抜けた顔は。 「………………」 そういえば朝、チョコレエトをひとかけら口にしただけだ。 「その顔はまだ食っていないな? ほら!」 むりやり、口に何か押しこまれた。 ご飯……不揃いだがどうやら、おむすびのようだ。 「つべこべいわずに食え! 今日という今日は、無理にでも食わせるぞ」 「金子君?」 「何だ。文句は言わせんぞ。 「有難う。気持ちは嬉しいけど今は――」 「黙れ」 「…………わかりました」 「よし」 やれやれ。 食欲は少しもないけど、口にむりやり詰めこまれてはたまらない。 「また、寝てないだろう?」 「寝てるよ」 「さっきのようなのは、眠ったうちに入らん」 確かに。 気づくと、夢と現実の狭間を漂っている。 浅くけだるい白昼夢。 さっき見ていたセピアの光も、もしかしたら 何もかも、ひどく現実感が薄いのだ。 …………彼が消えてしまってから。 今よりかかっているこの壁も、現実のものなのか。 ここにいる金子君も――。 ばしっ。 また、頬をはたかれた……どうやら現実らしい。 「痛いって。……非道いなあ、金子君」 「ほう。痛みは感じるわけだ」 「当たり前だよ」 「いつまでそう、惚けているつもりだ? 「え……?」 「あいにくだが――、」 「あ痛! もう起きてるよ、そんなばしばし叩かなくても!」 「あいにくだが、俺は土田のように甘くはないぞ」 いきなり、衿首をつかまれた。 ぐいっとひきよせられ、真正面からにらまれる。 「………………?!」 「き……さま……は――!!」 そう言うなり、金子君は衿を放し、目の前で、がっくりとうなだれた。 いったい、どうしたというんだろう。 「金子君?」 肩が小さく震えている。 「……どうすればいい?」 「え……?」 「どうすれば、戻ってくるんだ、貴様は!」 「金子君……何を――?」 「さっきも、呼んでいたぞ……涙を流しながら!! 「………………!」 「あいつはずるい。一番ずるいやり方で人の心を縛って……。 吐き捨てるように言った。 僕は、金子君の頭を撫でようとして……失敗した。 急に壁に押しつけられ、唇を重ねられた。 噛みつくように、幾度も。 痛いほどに強く抱きしめられる。 「貴様をどうしたらつなぎとめておけるか、そんなことすらわからないまま、 今にも泣き出しそうな声だった。 僕は、震える背をそっと抱きしめて囁いた。 「…………嬉しいよ」 気を抜くと、涙が流れてしまいそうだ。 このところただでさえ、涙腺が弱くなっているというのに。 |
「どこにも行くな」 「行かないよ。ここにいる」 それから僕たちは何度も、口づけを交わした。 ただ、触れあうことで確かめた。 お互いが確かにここにいることを。 お互いの心が、確かにここにあることを。 ずっと眠っていない僕を気づかってくれたのか、それ以上のことはしなかったけれど。 いつもは、触りたがりなのは僕のほうなのに、金子君はいつまでも放してくれなかった。 ぴったりとくっついたまま、離れようとしない。 髪を撫でても、ふりはらおうともせずに大人しくしている。 まるで、大きな猫のように。 |
いとおしい、この体温を感じながら、僕は思っていた。 金子君もまた、必死に手をのばしていたのではないか。…………この僕に。 それならば嬉しいのだけれど。 もしそうなら、僕は喜んで、その手の中に飛びこもう。 |
目の前を、光がよぎった。 セピアの光を抱いた、硝子の蝶。 音もなく舞っている、幻の蝶。 幹彦が遺していったこの蝶は、これからもずっと、僕の心の中に輝きつづけるだろう。 僕が忘れないかぎり。 …………だから、もう僕は追わない。 |
その夜は、ひさびさに夢も見ずに眠れた。
しがみついたまま眠ってしまった誰かさんのせいで、身体中が痛かったけれど、 ……こんなに幸せそうな顔をして眠っているのだし。 |
END |
I just wanna touch you−− I just wanna touch and kiss And I wish that I could be with you tonight You give me−−cause you give me butterflies inside, inside and I ………… ‘Butterflies’ by Michael Jackson |