P.C. |
背後の気配がひとつ、ため息をついた。 何やら考えこむような沈黙ののち、 今さっき渡したばかりの紙の束から顔をあげて――。 「おい」 いかにも不機嫌そうに、声をかけてきた。 いつものことながら、声をかけるタイミングは心得ているらしいから、 その点では助かるのだけれど、今日は少し様子が違う。 「はいはい。何だい、金子君」 ペンを置いてふり返ってみる。 想像したとおりの仏頂面がそこにあった。 蝋燭の薄あかりの中ですらわかるその表情。 「これは何だ」 そらきた。 「何だ……って、ご所望の新作だけど? 一番に読みたいって言ったから出来たてを渡したんじゃない」 「それはわかってる」 珍しく何か言いよどんでいるようだから、わざと明るいふうを装って様子をみることにした。 こうやってつつくのも、たまには面白い。 「筆頭読者どのには、何かご不満があるようだけど、 何か気に障る表現でもあった?」 「違う」 「じゃあ……重大なトリックの矛盾とか?」 「違う」 「ふうん」 このへんでわざと、つき放す。 金子君が苛々してくるのは計算の上。 このまま放っておけば、そのうち勝手に喋りだす。 それがわかっているから、僕は殊更ゆっっくりと立ち上がってみせ、 書棚にある壺から飴を取り出した。 断られるとわかっていても、わざと金子君にもすすめてみる。 口の中にひろがる、これもまたわざとらしい甘さの、桃の味。 座布団をひきずってきて、筆頭読者どのの前に正座する。 どうせ、このあと来るのは、知ったふうなおこごとだろうとわかっているから。 これが要君なら、隠そうとしても顔色か無邪気な失言でわかるだろうし、 土田君なら、いつもより5割増しで黙るだろうからそれはそれでわかりやすいといえば そうなのだけれど、彼には負ける。 「…………何が悪いというわけではないが――、」 案の定、ひどく言いにくそうに切り出した。 「ないが――何?」 「その、強いて言うなら、悪いところがないところが問題だ」 「え?」 「問題がなさすぎる」 「ええと……?」 「底意地が悪いが破綻のないトリック、 血腥いが流麗な文体。何をとっても申し分ない」 「それはどうも。 ……………………で、何が気に入らないんだい?」 「そつがない……のだが、これは俺の知っている水川抱月とは違う」 ざらりとした一言が頬を撫でた。 まったく、要らないところで鋭いのだから困る。 「まあ、君の言うところの『粗悪な模造品』だし? 本人はこのとおり、陰りの美学もへったくれもない人間だしねえ」 「今ごろそれを持ち出すな!!」 赤くなった……面白い。 「どこ、とは言えんが、ざらついた感触がする」 こっちが黙っているのをよいことに、金子君は勝手に続ける。 「文章が荒れているというわけでもない……だから一層腹が立つ」 「へえ?」 確かにここのところ、ちょっといろいろありすぎた。 我ながら根に持つ性格だ。 粗悪な模造品騒ぎももちろんだけれど、 その同じ誰かさんがまた、知ったような口ぶりで毎回、 これでもかとばかり古傷をえぐり倒すから! さすがにこっちも腹が立ってきた。 「あのねえ。金子君」 「何だ」 「心のうちに鬼や異形のひとつやふたつ、抱えていないで 物書きなんか務まると思うかい?」 「………………」 「飼いならしたくても暴れるものがあるからこそ、 それを紙の上に放す……そんなことがあってもバチは当たらないと思うけど?」 「…………………………」 「で? まだ他に文句は???」 「…………………………貴様が小説家で、本当によかった」 「あはは」 「何故そこで笑う!」 こらえきれなくなった笑いがあふれた。 確かに。 こんな人間、物書きか役者にしておかなければ、世の中剣呑この上ない。 「さすが、筆頭読者どのだね。 よくぞ見抜いた――といいたいところだけど」 「けど?」 「ついでに、現実の犯罪発生をもうひとつ防いでみる気はない? 君の手で」 「…………はあ?」 その後どうなったか――は、書くまでもない。 桃の飴よりは苦く、そして甘かった…………とだけ言っておこう。 |
END |