Cast away -side T- |
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――……海軍学校に、入ろうと思う。
卒業したら、どうするのか……。
そう訊かれたから、答えただけだ。
空色の瞳がゆらいだ。
しかし、それは一瞬のことで、すぐにそっけない返事が返ってくる。
「……………………そう」
ほんの少し前まで、妙にうきうきしながら話をしていたのに。
道場でも開く?
それともいっそ、僕のところへお嫁に来るかい?
……などと、いつもの調子で軽口をたたいていたのに。
俺は何か、まずいことを言ったろうか。
どうもいけない。
金子などには、お前の日本語は端折りすぎでわからん、などと
言われるし…………口下手なのは百も承知だ。
俺がたまに口をひらくと、ろくなことを言わないらしい。
そしてまた…………会話の糸口を見失ってしまった。
……ここしばらく、日常とかけ離れたことが起こりすぎた。
あの人が…………逝った。
あの男の……月村教授の胸に抱かれたまま。
死に顔は、不思議なほどに穏やかだった。
折り重なるようにして倒れた教授の背を抱くように、腕が回されていた。
最期の意志を表すかのように、その腕はなかなか外れなかったと聞く。
もう、それだけで十分だった。
俺があのとき、扉を開かなければ……。
そして、偶然居合わせた抱月を連れて行かなければ……。
あの微笑みを、あの腕を見ずに済んだのに。
よそう。繰り言だ。
あの人は、幸せの中で逝ったのだ――そう、思えばいい。
そしてあの人は、月村と手をとりあって消えたあの人は。
俺の心の底に棲むことになった。
愛だの、恋慕の情だのよりもっと……、
ずっとずっと深い、暗い場所に葬られた。
俺は、それでいい。
この思いは多分、恋情などというものではないだろう。
俺はそれを、一人で墓まで持っていけばいい。
しかし。
今回のことで、より深い傷を負ったであろう男がいる。
学生時代の月村に想いを寄せ……、それをひきずって生きてきた。
そして、再び出会い、またその想いの欠片を拾い上げたらしい。
月村と、あの人……日向要を、二人とも愛していたのだと思う。
これは俺の憶測にすぎないが。
「日向要を愛している」月村を。
「愛することを覚えた」月村を。
愛していた……のだろう。彼は。
そして、あの現場に居合わせてしまった。
俺と同じものを見た。
しかし、小説家などを生業にしている、繊細にすぎる感受性を持った男と、
我ながら鈍い俺とは、衝撃も、それが落とすであろう翳も比べ物にはならない。
事実、何か……違うのだ。
軽口をたたき、おどけてみせるのは変わらない。
しかしそのすぐ後ろに、空虚なものを感じる。
薄ら寒いような、何か。
感情の波があまりにも激しすぎたために、逆に表に出ない……というような。
凪のように見える、心の中の嵐。
無理に押し殺された何かがきしむ音が、聞こえてくる気がした。
深夜。
今日はもう、何も書けそうにない……。
そう言って、抱月がペンを置いた。
どちらが何を言うでもなく、泊まっていくことになった。
眠れない、といっていた抱月は、腕枕をしてやるとすぐに眠った。
ずっと年上にもかかわらず、子供のような心を残しているらしいこの男は、
時折こうして触れてくるのだ。
肌をあわせる時も、文字通り並んで眠るだけの時もある。
それで安心するのなら、構わない。
これも多分、恋情とは違うだろう。……ただ、どうも放っておけないのだ。
寝息を聞いているうちに、俺も睡魔にあらがえなくなった。
そして、何時間くらいたったものか。
隣の抱月が、身じろぐ気配があった。
……起きたのか。
やはり眠れないのだろうか。こうして一晩のうちに何度も目覚めることがある。
もし寝返りを打っただけなら、起こしてしまうことになる。
そう思って、そっと薄目を開けて見てみた。
仄灯かりの中、抱月がこちらを見ていた。
透き通った、哀しげな瞳がこちらを見つめていた。
俺が眠っていると思っているのだろう。
普段饒舌なだけに、無言の重みがある。
西洋人形のような整った顔立ちに、すっと翳がさした。
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「――どうした」
気づくと、声をかけていた。
「………………」
答えはない。
見開かれた瞳が震えていた。唇を噛み、何かに耐えているようにも見える。
「泣くな」
こちらの胸までついてくるような、悲痛な表情。
何とかしてやりたい。……だが、どうしたらいいものか見当がつかない。
悩むより先に、腕が抱月を抱きよせていた。
「………………泣いてないよ」
掠れた声が痛々しい。
「泣いてない…………まだ」
「そうか」
「うん」
泣く時を……感情を溢れさせる時を逸してしまったのだ。きっと。
せきとめられた想いは、決壊しようとしている。
「ならば、泣け」
俺の一言でいいのならば……と思って、自然に出た言葉だった。
腕の中の抱月の力が抜けた。
同時に涙が、堰を切ったように流れる。
それでいい。
ようやく、久しぶりにこの男の生地を見た気がした。
涙を流しながら、抱月は唇を重ねてきた。
思うさま、甘えさせてやりたい。この俺で力になるのならば。
夜着をはだけ、直截に抱月のものに触れる。
口でして、少しでも楽にしてやるつもりだった。
しかし――。
「…………ちょっと、待った」
当の抱月が、それを止めた。
「何だ」
「されるだけなのは好みじゃないって……前、言ったはずだよ」
そう、冗談めかして言う。
その笑顔は、いつものものではなかった……また、無理をしている。
ならば、どうしろというんだ。
逡巡していると、相手が思いもよらぬ行動に出た。
「……おい!」
「いいから」
俺を押し倒して上に乗ってきた。
それは初めてではない。だが今回は違う。
逆向きに跨り、俺のものに口づけたのだ。
「これなら、君にもしてあげられる。
僕だけされて、君は醒めてるのなんて、ごめんだからね」
そう、言い放った。
「まったく……」
そっちがそのつもりなら……と、俺は目の前の白い肌に手を伸ばした。
大きく左右に割り、その中心に舌を這わせる。
「…………っ、あ!」
抱月が、困惑したような声をあげた。
そのまま、舌でこじ開けるようにしてやると、びくんと内側が震えた。
指も使って、十分にほぐしてやる。
すると、思い出したように抱月も、舌を使いはじめた。
いつもながら、巧い。あっという間に追い上げられてしまう。
「………………!」
先を舐め、頬の裏を使って吸い上げられた。さすがに限界だ。
「……いいよ。出して」
ついばむように口づけしながら、抱月がそう言った。
囁きが、熱くなった部分にかかる。
息を乱して、達った。
ほとんどを抱月が呑み下したのがわかった。
残りを頬に伝わせながら、抱月はゆっくりと指を舐めた。
ちらりとふりかえって、見せつけるように。
震えがくるほどに淫靡な眺めだった。
乱れるさまを、もっと見てやりたい――。
指を増やし、中で螺旋を描くように蠢かせた。
「あ………………っ、んん、…………!」
艶を含んだ声が洩れる。
そのまま、同時に前にも触れようとした。
「……いい、よ、まだ…………そこは」
「どうしてだ?」
「…………うしろ……だけで、ん! 達けそうだ、から…………アアッ!」
「…………」
驚いた。
初めて肌をあわせた時から、感じやすいのはわかっていたつもりだが。
天性のものなのか……それとも、誰かの手で……?
暗い情念が、一瞬頭をもたげた。
そして、過敏な部分を少し手荒に指で突く。
「……そ……こ……………………!」
掠れた声で叫んで、抱月は達した。
乱れた息のまま、今度は俺の胸に舌を這わせてくる。
心地よいその感触に、しばらく酔っていると。
……目が合った。
時折冷たく見えるほど整った顔が、俺のもので汚れている。
気高い人を、自分の手で穢してしまったような気がした。
手を伸ばし、白い頬を拭う。
「…………あたたかいね」
抱月が呟いた。
「…………掌がか」
「それもあるけど…………ね」
君が、さ。
ふいに囁かれた。
どくん、と体中の血が逆流したような気がした。顔が熱い。
「揶揄うな」
そう言って、軽く睨んでやる。
……もちろん、照れ隠しに、だ。
囁いた本人は、悪びれもせずに微笑んでいる。
ふと。
何かが聴こえた……というか、響いてきた気がした。
「…………今何か、言ったか?」
「……え? ううん、何も」
「そうか」
「もしかしたら……言った、かもしれないね」
そう言った抱月は、心なしか嬉しそうな顔をしていた。
「…………」
「ねえ、土田君」
「何だ」
「ちょっと……手伝ってくれないかな」
「何をだ」
「今……僕の目の前に大きな岩があってね。
僕ひとりの力じゃ動かせない。
体当たりしたって駄目なんだ。僕が怪我するだけで、ね。
悪いんだけど、力を貸してくれない?」
「どうすればいい?」
「壊して……ほしいんだ。僕を。
ひとときでもいいから、カケラも残らないくらいに粉々にね」
茫洋とした声で、剣呑なことを言ってくれる。
「だが――」
あんたの身体が気がかりだ、と言おうとするその言葉にかぶせて。
「僕が……、泣いたって叫んだって、やめなくていいから。
それとも、優しい君には――難しいかな?」
挑発するように、誘惑するように言った。
「……駄目かい?」
上目づかいの濡れた瞳が、誘っている。
くらりときた。
だが……俺は知っている。
この男がこうして、自らを貶めて、蔑んでいるとき。
持ち前の手管で誘っているとき。
ほんの一瞬、空色の瞳に翳がさすことを。
痛々しくて、見ていられない。
――もう、止せ。
心の中で、叫んでいた。
俺が、受け止めてやるから――と。
胸の奥にこみあげてくるものがある。
恋情ではない。しかし……ただの同情などともまた違う。もっと強い想い。
突き動かされるまま、抱月を這わせた。
怪我をさせるつもりはないので、一応、指で確かめる。
そして……一気に貫いた。
同情ではない。なりゆきで、手を貸してやるのとも違う。
ならば何だ。その感情の名を、俺は知らない。
ただもどかしい。自分に苛立っていた。
「…………ひ……っ、ああ……!」
苦痛と快楽の狭間にあるような、声。
蕩かしてしまいたい。この声をずっと、聴いていたい。
一度腰をひき、奥へ。
「んんっ!!」
熱い声が洩れる。
ぐっ、と締めつけられたのを感じ、それを何度も繰りかえす。
「…………まだ足りないよ……もっと――」
腰を高く上げ、誘う。
白くしなやかな背で、金髪が踊った。
「もっ……と」
熱にうかされたように、何度も求める。
細く長い指が、畳をかきむしっている。
爪を、指を傷めてしまいそうだからと、上から手を握ってやる。
俺ができることならば、願いを叶えてやりたい。
苦しむ姿は見たくない…………だが。
「壊れたい」というのが願いならば、俺はどうすればいいのだ。
思うさま抱いて、俺だけのものにしてしまいたい、という暗い欲望と、
苦しみ全てを取り除いてやりたい、という願いと。
二律背反の苦しみ。
教えてくれ。…………俺は、どうすればいい。
正反対の想いを同時に抱きながら、その背をかき抱いていた。
「ん……んっ、い…………い、あ――」
前に回した手の動きを激しくする。
と。
「つち…………だ、くん……」
「…………?」
「いい……よ。泣いて。いまだけ……は……」
「…………」
泣く? 俺が?
言われて、初めて気づいた。
どうやら俺も、涙を流していたらしい。
しかし……背を向けていて、しかもこの状況で、よくも気づいたものだ。
そういう男なのだ。抱月というのは。
身勝手なように見えて、いつでも、相手のことばかりを考えている。
「僕には……見えないから――」
存分に泣け、とでも言うつもりか。
有難い気づかいだが……無用だ。
「……あ、……あ、あ、……も……う!」
「少し黙っていろ」
余計なことなど考えられなくなるまで……。
「…………! ひ、……! …………ごめ……ん、あ……!!」
「……くっ」
激しくゆすり上げ、同時に達した。
その後も、もう一度、と求められてはそれに応えてやった覚えがある。
あれは何度目だったか……。
抱月の脚を肩に担ぐようにして、深く穿った。
陶酔しきった彼は、あらぬことを口走り、涙を流す。
ぐい、とある一点を突いてやった瞬間。
焦点のぼやけた、潤んだ瞳がこちらをみつめた。
「………………わ……たさない、よ」
「………………?」
「行か…………な………………――ッ!」
喉の底から、しぼり出すような声。
「…………おい!」
白い首すじをのけぞらせ――
気づくと彼は、腕の中で意識を失っていた。
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何度も、呼んでみる。頬を叩いてみる。
深く埋めていたものを抜き去っても、ぴくりとも動かなかった。
朝方の光の中、頬がいつにも増して蒼白い。ここ最近で痩せたような気もする。
眠っていない、と言っていなかったか……それなのに俺は。
どうして気づかなかった。
気のせいか、触れた肌が冷えている。
長い睫毛が、影をおとしている。
この瞳は二度と開かれないのではないか…………。
不安にかられた。
何か。
何かないか。
気つけになるものは…………そうだ、たしか台所に……。
慌てて瓶をひっつかんできて、中身を口に含み、うすく開いた唇に流しこむ。
「…………ん」
「気がついたか」
まだ少しぼうっとしているようだが……とりあえずよかった、と胸を撫で下ろした。が。
「あ、……やあ、土田君。お早う」
あまりにも普段どおりの口調。
「悠長なことを言っている場合か!」
「え、何がさ」
「その……平気か」
「ああ。……そういうこと。
僕なら大丈夫だよ。……さすがに……腰がたたないみたいだけど」
ほっとして、身体の力が抜け――、
気がつくと、とまどう抱月を抱きしめていた。
「…………! え?? え? どうしたんだい、いきなり」
「……あんたが」
「…………?」
「あんたが目覚めないから、……本当に、壊してしまったかと――思った」
口をついて、本音が出た。
抱月が、ふわりと微笑んだ。
ようやく見ることのできた、いつもどおりの彼の笑顔だ。
今、気づいた。
俺はこの笑顔が見たかっただけなのだ。きっと。
……だが、この後がいけなかった。
「平気だって。本当だよ?
なんならもう一回……するかい?」
「馬鹿をいうな!!!」
からかわれているのは、この俺にだってわかる。
抱月が苦笑した。
「何が可笑しい」
「え? ううん。何でもないよ。こっちのこと」
そうはぐらかすと、抱月は俺の頭をかかえこむように抱きしめた。
「……苦しい。そろそろ放さんか」
「やだよ」
「……まったく」
仕方がない。このまましばらく、こうしているとするか。
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この想いの名を、俺は知らない。だが、これだけはわかる。
この人の笑顔を守るために。
安らげる居場所になるために。
俺はここにいるのだろう………………多分。 |
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夜が……明けてしまった。
あたたかな腕の中でぼんやりと思う。 遠く。
聴こえるはずのない波の音が、かすかに聴こえた……。
そんな気が、した。
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END |