Chrysanthemum
 

「……不味い」

 その日、僕はただでさえ苛々していた。
 銀の匙をくわえながら、硝子の皿の上の、もはや薄茶色くなった物体を睨む。
 そこへ。

「おい、繁。居るか?」
 遠慮のない声が、塀を越えて降ってきた。

「僕なら居ないよ」
 我ながら大人げない、と思いつつ答える。
 
「おらんものは答えんだろうが!」

「あ、そう。じゃあ今の、君の幻聴。
 僕は忙しいんだよ」

「あのな……。
 俺が知らないとでも思ったか!
 〆切は明後日だというのに、貴様という奴は!
 縁側に卓袱台まで持ち出して――」

「うるさいねえ、君は」

「……参考までに訊く。
 その皿の上のものは何だ」

「これ?
 水羊羹……だったもの」

「だったもの?」

「和菓子屋の親父さんが砂糖の量を間違えたのか何なのか……。
 味がしないんだよ」

「味がしない? そんなわけはないだろう」

「勿論、小豆の味はするよ。
 でも、それだけなんだ……マメ味のぶよっとした何か」

「うわ、聞いただけで吐き気がしたぞ」

「食べ物は、粗末にしちゃいけないからね。
 ……いくら、ぶよっとした何かでも。
 だから、僕は僕なりに努力はしたんだよ」

「砂糖か」

「西瓜に、塩をかけると、甘みがしまって美味しくなるよねえ?
 だから、塩をひとつまみ」

「ほう」

「そうしたら、しょっぱいマメ味になっただけだった……」

「考えうる限り、最悪な結果だな」

「まだあるよ。塩が敗因だと思って、その上から、砂糖を足したんだ」

「もういい。もう聞きたくない」

「口いっぱいに広がる、絶妙なあまじょっぱいマメ味。
 ジャリッ、ぶよっとした食感も手伝って、この世のものとも思われないものに……。
 あれだね、これがきっと、筆舌に尽くしがたい、ってやつだね」

「頭痛がしてきた。
 そんなものに貴重な表現力を使い果たしている暇があったら、
 一枚でも原稿を書かんか!」

「それはねえ……。
 原稿を書けないから、今こうしてるわけで――。
 えーと。逃避の逃避って、一周まわって元に戻るのかなあ。
 そうだったら意味がないねえ」

「まったく。
 次回作のネタの端もつかめていないのか? 水川『抱月』!」

「……はぁい。
 目の前を、きらきらしたものが横切ってはいるんだけどね。
 そのしっぽがつかまえられないんだよねえ」

 金子君は、肺腑の底からしぼり出すような、深いため息をついた。
 僕だって、これだけ熱心な読者になら、喜んで出来たての原稿を読ませてあげたいよ。
 ……できるもんなら、だけれど。

 視界の端に、ちらりと赤いものが映った。
 金子君の手元に、花が一輪。

「金子君、薔薇なんか持って、どうしたんだい?」

「ああ。
 ……………………………………やる」

 長い長い「溜め」を置いて、金子君は言った。
 薔薇を一輪、差し出された僕はというと……。
 正直、ちょっと戸惑った。

「え? ……薄気味悪いねえ。
 いったい何のつもりだい?」

「言うに事欠いて、薄気味悪いはないだろう!
 これは、『水川抱月』宛てだ。
 『水川繁』になど、ペンペン草一本もやるか!」

「ペンペン草……。
 何にも貰わないよりはましだけど、
 ちょっと傷つくねえ」

「つべこべ言わず、取っておけばいい」

「一本、ってところがひっかかるんだよねえ。
 察するに、誰かに貰った花束のうちの一本だけを、
 申し訳程度に持ってきたんじゃないかい?
 君のことだから、懐が寂しいってこともないだろうし」

 金子君が、ぐっと言葉につまった。
 おや、図星?
 
「貰った、というのではないぞ。
 いや、貰った……のか?」

「煮え切らないねえ」

「花屋の前を通りかかったら、目の前に一本落ちてきた。
 拾ってやったら、花屋の娘がくれた」

「……へえ。
 おおかた、その娘さんの手に触れて、あっちが顔を赤らめたりした、とか?」

「……いちいち覚えているか、そんなこと!
 俺はこれでも意外と――」

「はいはい、おモテになるようで!」

 面白くないね。
 花には罪はないけれど、そんな経緯で渡ってきたものを有難く貰えるわけもない。

「……大人げないな、貴様は」

「どっちが!」

「確かに、これは人から貰ったものかもしれん。
 だがな! これを見た瞬間、水川抱月だ、と思ったんだ」

「え?」

「ローテローゼ、と言うんだったか。
 その、血を思わせる真紅といい、端正な花弁の形といい、
 俺が昔想っていた、水川抱月の文章のイメェジにぴったりだったんだ」

「水川繁はペンペン草だけどねえ」

「それを持ち出すな! 
 こんな恥ずかしい台詞を言った俺が莫迦みたいだろうが!」

 金子君は、耳まで真っ赤になっている。
 まったくこの子は、素面で殺し文句を吐くんだから、困ったものだ。

「それで、僕はどうすればいいわけ?
 お返しに君に、花でも贈るかい?」

「いらん……が、何の花なのかは気になる」

「……えーとねえ。菊!」

「あのなあ!
 誰が仏花なんぞ貰って喜ぶか!
 そんな抹香臭いものは、仏壇にでも飾れ!」

「君、作家になるの、やっぱり諦めたほうがいいと思うよ」

「はあ?!」

「想像力が貧困すぎるって言ってるんだよ。
 菊といったら、上田秋成くらいは思い出してもらわないと」

「雨月物語……『菊花の約』か!」

「ご名答。
 はっきりは書いてないけれど、あの二人はいわゆる『そういう関係』に
 あったと思うんだよねえ」
 
「…………ぐっ」

「あと、菊侍童、って知ってる?
 周の王様のおつきの少年が、王の枕をまたいじゃって流刑にされて、
 毎日、菊の葉にお経を書いて水に流したんだ。
 その水が験力を持つようになって、それを飲んだ少年は
 800年も長生きした……って話」

「それは知らなかったが……」

「枕、ってあたり、ひっかかるよねえ。
 どういうおつきだったのか。
 目の覚めるような美少年が浮かばないかい?」

「……あのな!」

「それにねえ……菊といえば、『菊座』とか」

「……おい!!」

「あ、また真っ赤になった。
 さては今のは知ってたね。
 そりゃあねえ……しょっちゅう僕が舐めたり出し入れしたり――」

「〜〜〜〜〜〜!! いい加減にしろ!」

 声がひっくり返ってる。
 面白いねえ。
 もうちょっと揶揄ってやろうか、と思った瞬間。

 金子君の背後に、露を置いた大輪の白菊が見えた。
 ……いや、「視え」た。

 取り落とした匙が、硝子の器に当たって、高い音をたてた。

「おい……! 繁? どうした」

 僕は一瞬、ほうけていたのだろう。
 金子君の掌が、目の前でひらひらしているのを見て、ようやく我に還った。

「金子君! 紙! 万年筆も持ってきて! 早く! 駆け足!」

 僕はもう夢中だった。
 何しろ、頭の中で金子君の姿をした、菊のよく似合う美青年が喋りはじめ、
動きはじめてしまったのだから。
 それを一言洩らさず書きとめ、すくいとるように描写する。

 一瞬にしてプロットは出来上がった。
 主人公の青年が、事件に巻き込まれ、鮮やかに謎を解き明かすまで、
はっきりと幻視できた。

 ……その声が、金子君のものだっていうのが、ちょっと癪にさわるけれど。

 金子君が原稿用紙の束を抱えて戻ってきた。
 ねぎらいの言葉もかける暇も惜しんで、一気に筆を進める。

 傍らに、息をこらして見つめる金子君がいる。
 この分なら、3時間くらいで彼に読ませることができるだろう。
 
 走りだしたペンは止まらない。
 彼は、まさか天啓の源が自分なんて思ってもいないに違いない。
 僕は心の中で、そっと笑った。


 皿の上では、とっくに忘れ去られた物体が、静かに乾きはじめていた。

END