Close to you
 
 
蝋燭の炎が揺らめき、影が踊る。
昼間でも決して明るいとはいえない、埃っぽい土蔵の中。
一応、火鉢はあるが、真冬などは着込まなければやっていられないほど冷える。
物好きといわれようと、仕方がない。
彼にとっては、ここが一番落ちつく場所なのだから。

この隠れ家の主、水川抱月は、ただ黙々と原稿用紙に向かっていた。
驚くべき早さで、升目を埋めていく。
頭の中にあるものをそのまま、紙に移しとっている……それだけなのだ。
これは一番最後の作業。
頭の中ですべて組みあがってしまわないと書きださない。
遅筆と思われるのは、この癖があるからだ。
……ネタさえあれば。
そして、いったん、書き出してしまえば後は早いものだ。
一日足らずで長篇を書き上げるという快挙を成し遂げたこともある。……数えるほどだが。

いつもならば、締切ぎりぎりまで放っておく抱月が、珍しく仕事をしているのは訳がある。
次回掲載分の章を書き終わると、ちょうどその原因がやってきた。
土蔵の階段を登ってくる、軽い足音。
「…………先生?」
少しばかり、おどおどしているようにも思える声。
癖のない黒髪を、まっすぐに切り揃えた少年……彼だ。
抱月は、万年筆を置いて、ふりかえった。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね。真弓君」
「あの……」
「ん? 何だい?」
「僕、お仕事の邪魔じゃありませんか?」
「とんでもない!! ほら、これ! 今終わったばかりだよ」
「本当に?」
「あ、信用してないね。非道いなあ」
なつっこい笑みにつられたらしく、少年も控えめに微笑んだ。


「散らかってて悪いね。
 …………どこでもいいよ。君の好きなところにお座り」
にっこりと笑って、促す。


                                  ――――――
 

真弓君は、遠慮がちに腰を下ろした。
3歩くらい先の、本棚の脇。
手を伸ばしたら、あと少しで届きそうなくらいのところだ。
……あと少し。

こんな話を聞いたことがある。
人間にも、なわばりがある、と。
これ以上入ってきたら警戒する、という距離があるらしい。
それは人によって違って、たとえば、僕のようになつっこい人間の場合は
その距離はひどく短い、という。

僕は触りたがりだから、ひょっとしたら、ほとんどないに等しいのかもしれない。
ならば彼――真弓君の場合は……?

ここ最近、真弓君はよくここに来てくれるようになった。
そのたびに、僕は同じことを言う。
好きなところにお座り…………と。
最初は、部屋の入口近く。
次は、本棚の陰あたり。
次は――というふうに、少しずつ近づいてきている。
ほんの一歩くらいの違いではあるけれど、それが僕には嬉しかった。

自分の存在が、目ざわりなのではないか――。
邪魔には、なっていないか――。
そういうことを、おずおずと尋ねてくる。
だから僕は、彼がいるときにはつとめて仕事をしないようにした。
できるだけ、早いうちに終わらせてしまって、ゆったりとした時間を楽しむ。
目ざわりなんかじゃない、邪魔だなんて思っちゃいないよ。
口に出さなくとも、彼が自然に感じとることができるように。

「先生?」
読んでいた本から顔をあげ、こちらを見ている。
「……何だい?」
「僕、いつもこうして遊びに来させてもらって……
 それだけだけど」

「うん?」
「先生……楽しい?」
「うん。楽しいよ。とっても」
「……本当?」
「本当だよ。夕方が待ち遠しいくらい。
 君が来るようになってから僕の原稿が早くなったって、担当さんが喜んでたよ」

「先生、やっぱり変わってるよ」
「よく言われるよ。自分じゃ、そのつもりはないんだけどねえ」

――ほら。その笑顔だよ。
前は、ずっとうつむいていて、どこか哀しげな笑顔しか見たことがなかった。
喜怒哀楽を表に出すことが、まるで罪であるかのように。
ずっと「お人形」でありつづけなければならなかった。
いつも罵られ、辛い思いをして……。
言葉は、行為は深い傷となって残り、今も彼をさいなんでいる。
その傷を癒す――などということは僕には出来ないけれど。
傷ごと抱きしめることなら、できる。
自分の価値を認めることができず、いつも不安でたまらないらしい彼の問いに、応える。
何度となくくりかえされる問いに、応える。

      君といると楽しいよ。

      君が、必要なんだよ。

      大好きだよ。

そんな言葉を、なにげなく織り交ぜる。
その言葉がいつか、彼の心に届くまで。

僕は、あきらめない。
今度こそは、決して手を放したりしない…………。


もう少し。
あと、ほんの少し。
3歩の距離が埋まらない。
きっかけが必要だ。
できれば、彼のほうから来てくれれば。
おいで、というのは簡単だけれど――。
…………そうだ。

「…………何してるの? 先生」
「いやあ、この瓶が、なかなか…………!」
「開かない?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!  駄目だ!
この飴玉が僕を呼んでるん、だけどね! ……赤いやつ」

「力任せにやったって駄目。コツがあるんだ」
「ええ?  真弓君、開けられるの?」
「ちょっと貸して」
1歩、2歩…………3歩!
何気なく歩いてきた真弓君は、こちらへ手をのばした。
その手をつかんで――。
「わっ!!」
彼は簡単に、僕の懐におさまった。
「先生……!!」
抗議の声は無視することにして、優しく髪を撫でた。
よくここまで来たね、と。
身体が、小さく震えている。
「まだ…………怖い?」
そっと、囁いた。
「ううん。……怖くない」
答えに反して、腕の中の身体はまだ固い。
「くっついてるとあったかいね。……ねえ。しばらくこうしていようか?」
「え?」
「こうやって、撫でていていい?
君も、僕のこと好きなだけ触ってていいから」

かすかに、彼はうなずいた。
おずおずと唇を重ねてくる。
わずかに開いて応えてやると、彼はそっと舌をからめてきた……。
こわばっていた身体が、解けていく。
少しずつでいい。
いつか、君の心もこうして解いてあげられれば――。


熱がとおりすぎてしまった後も、僕たちはしばらく、そのままでいた。
髪を撫でられるまま、うっとりとしていた真弓君が、ふと顔をあげた。
「そうだ。……先生、瓶は――?」
「ん? 真弓君は、何色の飴玉がいい?」
「……え?」
はね起き、飴の瓶を取った真弓君は、愕然としていた。
瓶の蓋は、難なく開いた。
「あはは。ばれちゃった」
「だましたの?」
「うん。僕、それが仕事だし……あ、赤いのひとつ、頂戴」
真弓君は黙って、瓶の蓋を閉めなおした。
手に青筋がたつくらい力いっぱい。
……ああ、あんなにしたら、本当に開かなくなるのに。

3歩の距離が縮まったことを考えれば、安いものだ。
真弓君も、少し強くなったようだし。
…………でも。
でも。
僕は、未練がましく、硝子の向こうの赤い飴玉をみつめていた。

 
END