Count on me |
それは、ある日の朝。 昨夜の雨で、全てが洗い流されたような、爽やかな朝のこと。 ある探偵小説家の家の郵便受けに、一通の手紙が届いた。 「頼みましたよ」 書いてあったのは、そっけないその一言だけ。 小説家は、普段の大島に外套を羽織っただけの姿で、差出人の住所へ駆けつけた。 差出人の死後、通いの家政婦の手によって出されたらしい手紙。 小説家は、そう多くない「彼」の遺品と、幼子の眼をした青年を引き取って帰ってきた。 |
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………………そして。 あれから何ヶ月がたったものか、ようやく身のまわりの騒ぎも落ち着き、変わり映えのしない日常が戻ってきた。 変わったのは………………ずっと行方知れずだった教授がいなくなったことだけ。 定期試験も課題も、変わらずに押し寄せてくる。 |
「こらこら……。髪をひっぱるんじゃないよ、要君」 小説家――水川抱月の膝を、当たり前のように独占した彼は、不思議そうに見上げるばかりだ。 「せんせい?」 「はいはい。ここにいるよ」 抱月はとっておきの笑顔で微笑みかけるけれど、それは彼を指してはいない。 焦点のぼやけた瞳がみつめるものは、もう決して戻ってはこない「彼」だった。 「せんせい、だいすき」 「おや。嬉しいねえ」 幼子のような彼は、小説家に何かを手渡した。 近くの雑木林で拾ったらしいどんぐりだ。 「くれるのかい? 優しいねえ。有難う。僕もおかえししなきゃね。はい」 懐から飴玉を取り出して、要さんの口に入れてやる。 すると彼は、ふわりと微笑み、抱月に抱きついた。 「うわ……こらこら、およしって」 「…………………………………………あのさ」 隣に置いた卓袱台で課題を片づけていた僕は、無駄なこととは知りながら言ってみた。 「え? 何何? 真弓君も飴玉ほしい?」 「いらないよ。そんなもの」 「あ。どんぐり? 駄目だよ。これは要君がくれたんだから。ね〜〜?」 「ね〜〜」 「…………………………」 「嫌だなあ。そんな怖い顔しちゃってさ。原稿が珍しく早く片付いたんだからいいじゃない。 たまにはこうやって息抜きしたって」 「あんたさ。僕が何やってるか見えない?」 「課題……だねえ」 「…………………………」 「協力してほしい? いいよ。語学限定で手を貸してあげる。世にも珍しい水川抱月の個人教授。 書きとりなんか大得意だよ。妖しい漢字ならいくらでも」 「お断りします」 「勿体無い。金子君あたりなら、大枚はたいてでも授業受けそうなのにねえ。 もっとも、水川抱月が僕だと知ったらビタ一文払わないだろうけど」 「…………………………」 うるさい。わずらわしい。どうしてこの人はこうなんだろう。 僕は無言で帰り支度を始めた。 「帰っちゃうのかい? まだ課題終わってないだろう?」 「寮に帰ってやった方が能率が上がるよ。こんな所よりよっぽどね!!」 「あ…………そう。そんなこと言うんだ。せっかく教えてあげようと思ったのに」 「何をさ」 「さっきの和訳、間違ってたよ。3箇所」 「…………」 「だけど、そんな意地悪を言うんなら、教えてあげない」 「………………あんたは!!!」 堪忍袋の緒が切れた。 僕の剣幕に驚いたらしく、要さんが抱月の後ろに隠れた。 こわごわと、こちらを窺っている。 「大丈夫。大丈夫だって。怖くない怖くない。僕がついてるよ、ほら」 ちょっと悪いことをしたかな、と思いつつも、そのまま無言で帰ろうとした。 その時。 |
「…………お待ち」 背中に、声がかけられた。 「嫌だ」 即座に答える。 「本当に困った子だねえ。やきもちってのは、もっと上手くするもんだよ」 「言っておくけど、僕はあんたなんか――」 「ほら。これ」 「…………?」 言いつのろうとする僕に、抱月が高々と掲げてみせたのは、包帯。 利き腕である左手の指に、包帯が巻かれている。 「さっき要君がおいたをしてね。花瓶を割っちゃったんだ。その破片を拾っててちょっと」 「…………だから何?」 「いやあ参ったね。片づけようとしている横から手を出すものだから、危なくて仕方がない。 要君が破片を玩具にしかけたところを取り上げて、大騒ぎになってね。その時に切ったらしいよ」 見れば、包帯に血が滲んできている。 結構深く切ったのかもしれない。 「ほら。幹彦のことがあっただろう。あれから要君、血にひどく過敏になってるようでね。 こうして怯えて、今日はずっと離れないんだ。僕が、要君を置いていくんじゃないかって思ってるん じゃないかな」 抱月は、「まったく困ったよ」と軽く笑いながら、その実、ひどく辛そうに見える。 傷の痛みじゃなくて、もっと深いところの痛み。 「まあ、事のからくりはこんなところ。本当のところを教えないってのは少々、フェアじゃないからね。 ……それだけだよ」
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月村先生は、ひとつ失敗した。 いっそ、僕あてに手紙を送ってくれればよかったのに。 誰よりも手のかかる二人のお守りをしながら、僕はぼんやりとそう思った。 |
END |