Dear……

 
「………………!」

しまった。…………注意していたはずなのに。

見る間に机の上が赤く染まる。

「どうした?」

「……何でもないよ」

「見せてみろ」

咄嗟に隠した手を、強引につかまれた。

「これは……切ったのか? どうした」

「やれやれ。……まったく、お前には嫌なところばっかり見られる。
 この状況……見りゃわかると思うけど?」

橘にとらえられたままの左手はそのままに、空いた手で机の上を指した。

素っ気ない茶封筒。差出人は勿論、無い。

入っていたのは殴り書きの口汚い言葉と――、

「ふん。剃刀か」

「いつものことだよ。
 死ね……って、知りもしない人間から言われてもねえ。
 でも、ご親切にその手段まで同封してくれてる。
 案外気のつくいい人なのかもしれないねえ」

「この馬鹿が」

「聞き飽きたって……その言葉は。
 確かに油断した。いつもはわざと下から封を切ったりしてるんだけど、
 考え事しててついうっかり、ね」

「結構深く切ってる。おまけに利き腕か」

「紙を千切るときって、大体利き腕が上にくるだろう?
 それで、このとおりざっくり」

「月村にでも縫ってもらうか?」

にやりと笑って橘が吐き捨てた。

「改めて言わせて貰うけどね。…………お前は本当に意地が悪い」

「それこそ聞き飽きた。
 お前も物書きの端くれなら、もっと効果的な言葉を選ぶんだな」

「はいはい。苦言感謝するよ――って、痛いって! 橘!」

腕を強くつかまれ、ざっくり切った傷口を舐め上げられる。

もちろん、ひどく沁みた。

あまりの痛みに顔をしかめつつも思っていた。

加虐趣味の趣向を装いながらも、その手は正確に止血点を押さえている。

つくづく、意地が悪いんだかそうでないんだか、まったく読めない男だ。

こんな時にまで冷静に観察している自分が可笑しくてつい、笑いが零れた。

「何が可笑しい」

「何でもないよ」

「そういえばお前は、いたぶられるのが趣味だったか。水川」

「うわ、……痛いよ本気で! 橘! 謝るから!  ごめんって!!」

「…………ふん」

 
翌日。

机の上に見慣れないものを見つけた。

革のケースに入った、黄金色に輝く短剣――に似せたペーパーナイフ。

それこそ、触れるだけで怪我をしそうな危うい外見を、見事に裏切った逸品。

その脇に、カードらしきものが添えられている。

裏返してみると、それはタロットの一枚だった。

              `the strength’  「力」

…………ああ、なるほど。そういうこと。

眩暈がしそうなくらい気障な演出なのに、仕掛けたのがあの男だと
妙に自然なのは気のせいだろうか。

まったく、素直じゃない。

まあ、そこが橘らしいところなのだけれど。

妙に几帳面に巻かれた包帯を見ながら、僕はナイフを抽斗にしまった。

 
――――――――
 
「おい。水川抱月」

「金子君……。
 いい加減、`その姓名まとめて呼び捨て’、やめにしない?
 いつまでたってもなんかひっかかるんだけどさ」

「そういう名なんだから仕方あるまい?」

「…………はいはい」

「何だそのやる気のかけらもない腑抜けた返答は?」

「来てくれたのは有難いけどね、まだもう少しかかりそうなんだ。
 ちょっと息抜きしようと思ってたとこ」

「ほら」

「え?」

「郵便受けにごっそり入っていたのを持ってきた。
 フアンからの手紙か?」

「ああ。わざわざ持ってきてくれたの。すまないねえ。
 後で読むから、そこへ置いておいてくれるかい?」

「今読まんのか?」

「うん」

「つまらん」

「何が?」

「俺以外のフアンがどう考えているのか、知りたいものだと思っただけだ」

「ふうん。気になる?」

「別にそれほど気にはならんが」

「またまた無理しちゃって。可愛いねえ」

「………………付き合いきれん。帰る」

「まあまあ。そう怒らないでって。
 実を言えばね、君には刺戟が強すぎるんじゃないかって思っただけだよ」

「あいにくだがこの金子光伸、この手紙の束の中に恋文のひとつやふたつ
 混じっていようと驚かんが?」

胸を張って言い放った。

やれやれ。やっぱり発想がまだまだ可愛らしいね。

それが金子君らしいところ……もちろん嫌いじゃないけど。

「あはは。そんないいもんじゃないよ」

「………………?」

「もちろん、中には熱心なフアンからの有難い激励の言葉も沢山あるさ。
 でもねえ……」

「でも?」

「剃刀なんかは当たり前。いつだったかは、虫の死骸がばらばらに刻まれて
 入ってたりしたっけ。
 ……よくこんなこと思いつくな、って逆に感心するくらいの嫌がらせだよ」

「卑劣な輩だな」

「ほら。僕、書いてるものが書いてるものだからさ。
 潔癖な紳士淑女には嫌われやすいんだよ。
 それにこのご時世にこんなもの悠長に書いてる僕も僕なわけで……」

「…………それにしても!」

「まあ仕方ないことだし、僕も大概しぶといからこんなことじゃ潰れないけどね?」

もう、いい加減に慣れたよ、と笑ってみせる。

すると金子君は、小さく舌打ちをして立ち上がった。

「あれ? 読んでいかないのかい? 新作」

「…………気が変わった!!!」

そのまま、階下に続く梯子に向かって歩き出す。

いつもながら、彼は本当に判りやすい。

遠ざかる背中が、明らかに怒っていた……僕の代わりに。

 
数日後。

馴染みの和菓子屋にでも行こうかと家を出ようとしたとき。

郵便受けに手紙を見つけた。

上品な、純白の封筒。

切手もないし、住所も書かれていない。

宛名の筆跡に見覚えがある気がして、僕はその手紙を持って家に戻った。

使い慣れたペーパーナイフで、すっと切れ目を入れ、取り出した便箋には……。

妙に几帳面な読みやすい字で短い文章が綴られてあった。

―― 貴様も物書きの端くれならば、
    熱心なフアンが一人でもいるうちは筆を折ろうなどと思うな。
    ……あいにくだったな。
    貴様はどうやら、一生書き続ける運命だ。 

心当たりのありすぎる……尊大な、そっけない文章。

僕は思わず苦笑した。

そして、文机の抽斗に大事にしまった。

筆頭フアンからの激励の手紙とも、熱烈な恋文ともとれるその手紙を。
   

END