Hummingbird

 
一言、言い訳させてもらうならば――――、

……障子に、穴が開いていたのだ。

そこから、うっすらと光が洩れていた。

普段は隠し通している好奇心がつい、頭をもたげた。

これだけでは、理由にならないな。

 
この、障子の穴。

以前、勝手に入りこんだ野良猫が悪戯してできたものだ。

見知らぬ猫が廊下を徘徊していようとも、追い出しもしない。

やあ、などと気軽に声をかけ、紐の端か何かを持ってきて、あっという間に
「友達」になってしまう。

遊びに飽きて出て行くならそれでもいい――。

あいつは、猫にもそんな関わり方をする。

あるいは俺もまた、猫の一匹に過ぎないのかもしれない……。

嫌な考えをふりはらい、俺はそっと、穴を覗いた。

 
見慣れた座敷に、長々と寝そべった背中がある。

深緑の大島に映える、いい加減にくくられた金髪。

畳の上には、何枚もの音盤が散らばっている。

片ひじをつき、だらしなく寝転がったまま、音楽を聴いているらしかった。

繁の好みは、よくわからない。

流行り歌はあまり聴かず、自分の基準で選んでいるらしい。

底抜けに明るい曲を聴いているかと思えば、
この世の終わりのような曲を聴いていることもある。

選びとる対象はばらばらだが、これだけはわかる。

………………躁鬱のわかりやすい奴だ、と。

今聴いているのは、舶来のものらしい曲だ。

硝子細工のように繊細な女の声が、切ない愛を歌っている。

繁の、もうひとつの祖国の言葉で。

悪くない。

そう思っていたら。

美しい旋律に、新たな音が重なった。

ふわりと、自然に。

繁の声だ、と気づくまで暫く時間がかかった。

俺としたことが……聞き惚れてしまっていたのだ。

音盤で歌い上げる女の背を、後ろから優しく抱きしめるかのように、
声は、そっと寄りそった。

甘く囁き、細いうなじに唇を這わせ、耳を軽く、噛む……。

空いた手は、脇腹をゆるゆると滑りおりていく。

吐息の熱さが伝わってくる。

触れられてもいない肌が、じんと痺れた。

ただの、歌じゃないか――。

そう思おうとしても、目が勝手に潤んでくる。

 
伴奏に合わせ、下のパートを勝手に作って歌っているらしい、

……ということがわかったのは、更に後になってからだった。

悔しいが上手い。

歌詞とはいえ「I love you」を大安売りしているあたりは気に入らないが。

そう思ってしまって、慌てて我にかえる。

何を考えているのだ……今日の俺はおかしい。

もし万が一あいつに知れたら、力一杯からかわれるに決まっている。

進んで肴になりにいくような真似はしない。今日こそは。

そう思って、そっと立ち去ろうとした。

そのとき。

 
「ただ聴きしていくつもりかい? 金子君」

声が追ってきた。

その主は、背を向けて寝転んだまま。

驚いた。つくづく、要らぬところで勘の鋭いやつだ。

「あんなもので金をとるつもりか?」

下手な歌い手に大枚をはたくよりは惜しくないが……という本音は伏せる。

「おや、つれないねえ。
 天下の水川抱月と、音盤の美女の共演。
 そんなに見られるものじゃないのに」

「音盤の美女とでも銀幕の美男とでも、勝手に共演していろ!
 俺は知らん」

「けち。僕は別に、お金じゃなくったって構わないんだけど?」

意味ありげな視線を送り、にやりと笑う。…………こいつは。

そっちがその気なら。

「…………代価のほうが間違いなく高くつくと思うが?」

「お釣りは貰っとくよ」

「図々しい奴だな」

「あれ? 払う気満々なわけだ。嬉しいねえ」

「誰がそんなことを言った」

「でもさ、ちょっとしたもんじゃない? 僕の声」

「知るか、そんなこと」

「小さい頃は、教会なんかでよく歌ったもんだよ。
 天使の声、なんて言われてさ。懐かしいなあ」

「天使が気を悪くするぞ」

「非道いねえ。……そういや金子君も、なかなかいい声してるよね」

「俺は貴様の前で歌った覚えはない」

「え。歌ってたじゃない」

「いつ!」

「この間。僕んちのお風呂でさ」

「……………………!!」

しまった。聴かれたか。

「なかなかどうして、けっこう高いところまで出る綺麗な声だよね」

「うるさい……………………っ?!」

何の前ぶれもなく、いきなり唇を奪われた。

「何をする…………!」

「払ってくれるんでしょ?
 僕も聴きたくなっちゃった。君のソプラノ」

「そんな高い声が出るか!」

「………………試してみる?」

「よ…………せ、……………………あ…………ァ!」

 
結局あの後、声が嗄れるまで……………………………………。

暴利にもほどがある。

「好奇心は猫をも殺す」……そんな格言が身にしみる。

金輪際、障子の穴など覗いたりするものか。

そう思いつつ、横で無防備に眠る稀代の歌手を睨みつけた。

 
END