In the closet |
「やあ。よく来たね〜〜。金子君」 いつものように、遠慮なく水川家の土蔵に上がりこんだはいいが――。 そこには、いつになく上機嫌な繁の姿があった。 満面の笑みだ。 「……何か、悪いものでも食ったか? 一週間前の饅頭とか」 いじきたないこいつなら、ありえる。 「ええ? どうして?」 「いつも笑顔で出迎えたためしなどないだろう……気味が悪い」 「あ、非道い」 とたんに拗ねる。 まったく……犬か。しょんぼりと垂れ下がった尻尾が見えるようだ。 「いくら僕だって、一週間前のお饅頭は食べないよ。四日前くらいだったら考えるけど」 「きっと、そんなに長く置いておく前に食うだろうからな」 「あ! 金子君。今隠した包み、もしかして……八千草堂の草団子――?!」 「待て!!」 「……って、僕、犬じゃないんだけど」 「似たようなものだ。いいか。言っておくがな。俺は貴様のために買ってきた訳じゃない。 「やっぱり買ってきてくれたんじゃない。まったく素直じゃないねえ。 「ああ苦労したとも! 「ええ〜〜〜」 「情けない声を出すな。原稿が上がったら好きなだけ食え」 「せめて一口! 味見だけ! ね?」 「その手には乗らん」 「鬼担当……」 「何か言ったか??」 「……何も」 「まったく、どれだけの人間が新作を待ってると思う」 「それは嬉しいんだけどねえ」 「原稿をおとしたりしてみろ。どれだけのフアンが泣くか」 「……君も泣いてくれるかい?」 「……………………」 「金子君?」 「………………うるさい、判っているだろう! そうじろじろ見るな!」 「そんなに期待されちゃあ――」 意地悪く笑って、こちらをちらりと見る。 「裏切るわけにはいかないね」 これさえなければ。 「……それで? 書く気は起きたのか?」 俺は大袈裟にため息をつき、繁を睨んでやった。 もちろん、草団子の包みは、しっかりと取り返してある。 「そりゃあ、人質が君の手の中にあるからね。 「あるけど何だ」 「金子君……君、協力してくれる気、ある?」 俺が断れないことを見抜いている表情だ。 そして実際、断れるはずはなかった。 「抱月先生の頼み」であるかぎり。 |
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「……で? これは何だ?」 「あれ? 見て判らない? 和服、着物……とも言うね」 「それは判ってる!! これをどうしろというんだ!」 「うん。ちょっと着てくれないかな〜〜、と思って」 いつもの調子で、軽く言う。…………だが。 目の前に広げられているのは、和服一式。 藍に近い紫の地に、藤色と白で染め抜かれた、大輪の桔梗。 薄闇の中で、仄かに光っているような花弁には、露がおりている。 着物の柄としては、悪くない。 しかし、これを自分が着る……というなら話は別だ。 「僕のフアンに京都の呉服屋さんがいてね、特注で仕立ててもらったんだ」 「それはいいが、これは友禅だろう?」 「うん。無理いって、男物に作ってもらったんだけど」 「…………」 「いっそ、君なら派手な曼珠沙華なんかでも着こなせそうだ……って思ったんだけど、 何を言い出すんだ、この男は。 曼珠沙華でなくて、本当によかった。……が。 「悪趣味だ」 「誰かさんみたいに、ドレスを着せたりするよりは、ずっとましだと思うけどねえ」 「………………!!」 「要君に呼ばれて行ったときの、君の顔といったら――」 「……………………うるさい! 着ればいいんだろう着れば!!」 「そういうこと。物わかりがいいねえ」 「…………くそっ」 思い出したくもない過去を持ち出されて、顔が火照る。 確かに俺は、メートヒェン……要にドレスを着せて、事に及ぼうとしたことがある。 ところが、逆に罠にかけられて、現れたのがよりにもよって――。 ――あれは、酒に盛られた薬のせいだ。 雰囲気にのまれて……それに悪くなかったから……。 ……ちょっと待て。俺は一体、何を考えているんだ。 |
「おーい、金子君? 手伝おうか?」 「断る!!」 何とか身繕いをすませ、衝立の陰から様子をうかがう。 「着られたかい?」 おいで、と手招きされて、しぶしぶ出ていくと……。 「へえ〜え……」 そう、間の抜けた声をあげたきり、繁は黙ってしまった。 滑稽なのは、自分でもわかっている。 いっそ、笑い飛ばしてくれでもすれば、気が楽なのに。 「あんまり……見るな」 「どうしてだい?」 「笑いたきゃ、笑えばいい。ただそうやって見られていると……息苦しい」 「ああ、ごめんごめん。そういう意味じゃないんだよ、ただ」 「ただ?」 「…………見惚れてただけ、って言ったら、君、信じるかい?」 「寝ろ」 「え?」 「いいから即刻、横になれ。……熱があるだろう」 「風邪ならもう治ったよ。ひどいなあ。やっぱり信じてくれないんだ」 「あんたは、日頃の行いが悪すぎるからな」 「成績最優秀、素行最悪の君に言われたくないね」 「あいにくと俺は、今までばれるようなドジを踏んだ試しはないが?」 「そうみたいだねえ。年季の入ったでっかい猫が見えるよ。肩ごしに」 「不愉快だ。帰る!」 「あああ〜〜〜!! ちょっと待った! 悪かったって! 謝るから!!」 「わかった! わかったからそうしがみつくな! でかい図体で鬱陶しい。 「うん。えーと」 「…………早くしろ!」 「それじゃ、遠慮なく――」 「……え?」 |
突然、床に押し倒された。そのまま、馬鹿力で組み伏せられる。 「いきなり何をする……――?!」 ちょっと待て。どうしてこうなる? 言いかけて、背筋が凍る。 繁の手に握られているものが、視界の片隅で光ったからだ。 つめたく、金色に。 眼が、違う。 ……本気の眼だ。 どうして。 喉がひりついて、声が出ない。 「苦しませたりはしないから……許しておくれ」 吐息にのせて囁かれ、こんな時なのに身体が熱くなる。 「嫌だ……止せ!!!」 かすれた悲鳴は唇で塞がれ、熱い舌に頭の芯が痺れる。 ナイフが、風を斬る音がした。俺の心臓をめがけて、まっすぐに。 この手で殺されるならば、それもいいかもしれない、と思ってしまった瞬間。 |
「なーんて、ね。……びっくりした?」 いつもどおりの声。 はりつめていた空気が、音をたてて崩れおちた。 「…………はあ??」 わけがわからない。 「いやあ、君も役者だねえ。いい表情をする」 「説明……してもらおうか」 「嫌だなあ。怒ったのかい? そのわりに、目がうるんでるようだけど」 「…………!!」 にやっと笑って、繁はナイフを自分の手首にあてた。 「やめろ! 何を――!!」 思わず、繁の腕をつかんでとめようとすると……。 「ほらほら、よく見てごらん。ペーパーナイフだよ。 気が抜けた。 と同時に、無性に腹が立ってきた。 「貴様は……!! 俺をからかって楽しいか?!」 「うん。楽しいねえ。凄く」 即座に返ってきた答えに、呆れ果てて言いかえす気も起きない。 金輪際、相手なんかしてやるもんか。 |
「君の、ああいう表情を見られたことは収穫だけど、」 「……いい加減にしろ」 「どうも、ありきたりなんだよね。……ねえ、どう思う?」 「何がだ」 「君ならどう殺されたいか、ってこと」 他の者が同じ台詞を吐いたなら、即座に逃げ出すところだが、この場合は違う。 本人の人となりにはいろいろと問題はあるが……他でもない、人気探偵小説家、 「――それはまさか、新作の?」 「当たり。おや、目が輝いた。相変わらず現金だねえ。君は」 「……何とでも言え」 「あはは。……友禅に、大輪の華のように散る鮮血、ってのはまあ、綺麗だけれど、 「まあな」 「それに僕、痛いのって苦手でね」 「それでよく、探偵小説家としてやっていけるな」 「自分が怪我をしたりするのは大丈夫なんだよ。痛みの程度がわかるからね。 「面倒な性格だな」 「まあ、それはいいとしてもね。で? さっきの質問の答えは?」 「……俺は――無様な死に方はしたくない。ただそれだけだ」 「じゃあ、ご希望どおりに、なるたけ綺麗に殺してあげなきゃいけないね」 |
……傍で聞いている者がもしいたら、さぞ剣呑な会話だったろうと思う。 でも俺は、心が躍るのを隠しきれなかった。 新作に協力できるのなら、死体だって演ってやる。 |
「となると、絞殺も駄目だねえ。方法としては簡単だけれど、後が美しくない」 「水死も、水膨れで醜いしな」 「友禅のオフェーリア……ねえ。それも見てみたいような気もするけどね」 「オフェーリア……? 溺死した狂女だろう? どうしてそんな役を俺が」 「狂女って――まあ、そういやそうなんだけど、身も蓋もない言い方だねえ」 「事実そうなんだから仕方ないだろう」 「じゃ、それでいこうか」 「は?」 「すぐ引き揚げれば、比較的綺麗だよね?」 「それは……まあ」 「決まりだ」 抱月が、悪戯を思いついた子供のように笑った。 |
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大体の筋は決まった。 あとは、細かいところを考えるだけだ。 「……でその、友禅の美少年が――」 ……あれ? 「ちょっと待った」 「え? 何?」 「基本的なことを訊いてもいいか? 溺死するのは、女じゃなかったか?」 「あ。 そのこと?」 「たしかあんたは、友禅のオフェーリア……とか」 「うん。確かに言ったね。……まあ言ったけど」 「言ったけど?」 「せっかく金子君がいるんだし、無粋な真似はしたくなかったから」 「どういう意味だ?」 「さっきも言ったろう? 誰かさんがやったみたいな真似さ」 「女装……ということか?」 「さすがに頭の回転が早いね」 「悪かったな。……無粋で」 「そうだね。せっかくのいい素材を、台無しにすることはないよ。 「友禅は、女装には入らないのか?」 「わかってないねえ。そのへんが、サジ加減ってもんだよ。 「…………」 「もし、どうしてもひと味足りないと言うならね……。 |
そう言って、繁は階段を下りていき、しばらくして戻ってきた。 「お待たせ」 「それは何だ?」 小さな、漆か何かで装飾された……貝だろうか。 「これ? 友禅のおまけ」 長い指が唇に触れる。 そっとなぞられる感触。 ぞくりとした。 「何をす…………!」 「こらこら、暴れない。大丈夫だって。ただの京紅だから」 「京紅?」 「小筆もついてたけど、この方がエロティックでいいかなと思って」 「……あのな」 「よし、出来た……これで十分」 満足そうに目を細めて、こちらをみつめる。 どうかしている…………俺も、だが。 「小説の中では、酒に盛られた睡眠薬で眠ってるうちに溺死……なんだけどね」 「…………?」 「さすがに、こんなことは雑誌には載せられないから」 ちょっと待て。 にっと笑った繁が、抵抗する間もなく唇を重ね、舌をからめてきて――。 何か…………薬? 「何を……飲ませた?」 「さあねえ? 睡眠薬じゃないことは確かだよ」 「…………まさか」 「即効性だって言ってたけど…………そろそろ効いてきたかな?」 「貴様――!」 意地悪く囁かれ、首すじを辿るように唇が這う。 鎖骨を舌がなぞり、衿元から忍び入った指が、肌を滑る。 それだけで、鼓動がはね上がる。 鮮やかに甦ってくる、記憶の破片。 赤と紫を基調とした部屋に置かれた安楽椅子。 酒だけではない、どろりとした酩酊。 それに浸された俺は……。 どうしようもなく昂ってしまった身体を……熱を扱いかねて、 そう……今もだ。 「…………んっ」 「そんな顔をされると……殺すのが惜しくなってくるね」 「いい、から……もう……っ――!」 「しどけなく乱れた着物、紅の赤……生々しい、情交の痕――」 言葉で煽りながら、強く揺すりあげてくる。 息も継げないほどに。 「…………あ……ァ……は、…………!」 「さすがに、そこまでは書けないのが勿体ないところだけれど……」 限界だね……と囁かれると同時に。 波の高みまで、一気に放りあげられ、そして――――落とされた。 |
気がつくと、目の前に抱月の広い背があった。 布団の上に座り、髪を束ねている。 そのまま置いていかれる、と思うと同時に、身体が動いていた。 後ろから抱きつき、無理な体勢で口づけをしていた。 「大胆だねえ」 そう言われて、はじめて我にかえった。 自分でも信じられない。 きっと、真っ赤になっているんだろう。……ひどく、顔が熱い。 「あの薬、確かに凄い効きめだね」 「…………言うな!」 「胃のあたりが、すっきりしてないかい? 金子君」 「はあ?」 「……君、偽薬効果、って言葉知ってる?」 「まさか」 「うん。……あれ、胃薬」 さらり、と言ってのけた。 「貴様…………!!」 もう、こいつの言うことなど、信じてやるもんか。 そう今、心に決めた。 |
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「待望の」水川抱月の新作。 正直気が進まないが、読まないわけにはいかない。 朝の湖畔。 水を含んだ友禅の上に、静かに降り積もる紅葉の赤。 同じ彩は、横たわる少年の冷たい唇にも――。
悪くない。 いつもと同じく頽廃的ではあるが、幕切れは純文学のように、哀しく切ない。 水川抱月、新境地か――と誰かが評しているのを聞いた。 結構なことだ。真相を知っているのは、俺だけ……なのだから。
ただ一言だけ言わせてもらえば……。 胃薬のことは、言ってくれるな。 もう二度と…………そう。決して。 |
END |