Inspiration
 
「それ」はいつも、突然に訪れる。
 こちらの都合など関係なしに、だ。

 珈琲をすする。
 苛々と指で机を叩いてみる。
 それでも、まったく効果がない。
 
 目の前には、匂いだけで胸の悪くなる、山盛りドォナッツがある。
 きなこをまぶしてあって、表面はがしがしで中はふっくらで美味しいんだよ、などと
力説して、無理矢理このミルクホオルに連れてきた当人はというと――。

 ものすごい勢いで、筆を進めている。
 それが、原稿用紙ならいいのだが、書いているのは紙ナプキンだ。
 本来ならば、ドォナッツの油で汚れた手を拭くために置かれたものが、
一枚、また一枚と真っ黒になっていく。

 こうなってしまったが最後、声をかけても反応がないのはわかっている。
 ドォナッツをむさぼり喰らう「繁」の顔から、「水川抱月」の顔に変わり、
少しはしまって見えるのは良いのだが、さすがに店に迷惑というものだ。

 ゆうに6・7枚は書いただろうか。
 ふう、と息をつくと、「水川抱月」は「繁」に戻った。

「……あ〜〜〜〜。ドォナッツ、すっかり冷めちゃったねえ」

「さっさと食わんのが悪い」

 ふん、と悪態をついてやる。
 汚れた手でこすったものだから、額にインクがついている。
 
「執筆に熱心なのは大変素晴らしいことだが、時と場所をだな――!」

「ねえ、金子君」

「何だ」

「三上、って知ってるかい?」

「さんじょう? 何だそれは」

「何ていうかねえ、こうやって暮らしていても、あっちこっちに物語の欠片というか
 とっかかりみたいなものが落ちていてね」

「…………」

「それが降ってくる瞬間のこと」

「何が『三』なんだ」

「馬の上、厠の上、枕の上」

「…………はあ?」

「移動してる時、用を足してる時、床に入る時、
 ようは、油断してる時を狙って、『それ』は降ってくる…………ってさ。
 昔昔の中国の偉い人の言葉だよ。確か」

「随分と曖昧な記憶だな」

「あはは。昔もよく言われたよ」

 口をきなこまみれにして、繁が笑った。
 まったく、と紙ナプキンを手渡してやる。

「あ、すまないねえ」

 ようやく、本来の使い方をされたそれは、もう8枚目だ。
 そろそろ、女給の視線が痛い。

「あれ、帰っちゃうのかい、金子君」

「ちょっと、用事を思い出した」

 俺はそう言うと、勘定を机に置いて立ち上がった。
 ……そう。
 たしか、この先に店があったはずだ。






 後日。
 水川家の土蔵に上がりこんだ俺は、ぽかんとする繁の前に、紙包みを放りだした。

「……何だい、これ」

「…………やる」

「チョコレエト……じゃあないみたいだねえ、あ。革の匂いがする」

「匂いを嗅ぐな!」

「開けてもいいかい?」

 黙ってうなずく。

「…………………………あ。手帖だ!
 いいねえこれ。大きさも丁度いいし、手にしっくりなじむよ」

 当然だ。
 あの後、ミルクホオルを出た俺は、舶来品を扱う文具店へ向かった。
 そこで小一時間、選びに選んだ逸品だ。
 それほど高くはないが、大きさから書き心地まで吟味しつくした品。
 文句は言わせない。

 当の繁は、蛇腹になってるねえ、だの、止めるゴムがついてていいねえ、だの、
はしゃいでいる。
 こういう時、本当に年上なのかと疑いたくもなるが、まあ、嫌いではない。

「例の…………何だったか、三上、だ」

「え?」

「ネタが降ってきた時、受け止めるのが紙ナプキンではあまりに情けないだろう」

「箸袋とか、大福の包みの時もあるけどね」

「あのな! …………とにかく、俺が言いたいのは!」

「君のことだから、店の主人に無理を言ったりして、長いことしつこく
 選んでくれたんだろうねえ。ありがとう」

「余計なお世話だ!」

「いやあ、本当に気に入ったよ」

「そう素直に言えばいい。だいたい貴様は余計な一言が多すぎる――」

「そうだ」

「あれねえ、三、じゃなかったよ。僕の場合」

「はあ?」

「もうひとつあるんだよ。言うと怒るから言わないけどさ」

「…………試みに、言ってみろ。怒るか怒らないかはその後決める」

「君ってさあ、本当に偉そうだよねえ。無駄に。
 この段階でもう怒ってるから、言わないよ」

「気になる!」

「しょうがないなあ。君、だよ」

「…………?」

「うん。馬と、厠と、枕。それから、君」

「………………!!!!!!」

「あ。真っ赤になった。
 やっと分かったかい? 察しが悪いねえ。まったく。
 頭の回転は速い子だと思ってたんだけどねえ」

「貴様! それが余計な一言だと言うんだ!!」

 この男に必要なのは、手帖と、それから、へらず口が治る薬だ。
 俺は、死ぬ程後悔した。


END