I SPY
 
  湿った枯葉を踏む足音が、苛ついている。
 学生服の、細身の背中がひらりと舞った。
 いつものように軽やかに塀を乗り越えた……はいいが、着地するときに少し裾に跳ねがあがった。
「……くそっ。だから、雨上がりは嫌だというんだ」
 整った顔立ちに似合わぬ悪態がこぼれる。
 面白くもない――――と舌打ちをすると、彼は靴を脱ぎ、ずかずかと上がりこんだ。
 
 「おい……上がる……」
 青年は、階上の主人に怒鳴りかけてやめた。
 靴ぬぎのところに、神経質にそろえられた靴。
 脇の土壁にかかった、くたびれた外套。
 それを目にするなり、彼はその場で身づくろいをはじめた。
 何度か、軽く咳払いをして、あらためて梯子段に向かう。
 

  と。
 階上から、甲高い声が降ってきた。
「助かりました!! せ〜〜んせい、今回は、どんな風のふきまわしですか?」
「人聞きが悪いねえ、それじゃまるで、僕がいつも締切を破ってるみたいに聞こえるよ」
「みたい、じゃなくて、実際ぎりぎりなんですよ」
「はいはい、言葉もございません」
「じゃあ、頂いていきますね。いつもこのぐらい早いと大助かりなんですけどね」

 挨拶もそこそこに、瓶底眼鏡の編集人の岩永が降りてくる。
 締切破りにいつも泣かされているだけに、今日は心の底から幸せそうに見える。
 急な梯子段を下りる足取りまでが軽い。

「あ、金子さん」
「これは岩永さん、いらしてたんですか。その原稿……確か、原稿はまだ先――――」
「はい〜〜! よくぞきいてくださいました! なんと! 一週間も早く上げてくださったんです!」
「一週間も!」
「そうです! 夢じゃないですよね〜〜?」
「あの水川先生が?」
「そうです。あの水川先生がです!!」

「それは何よりです。僕もこちらへお邪魔している手前、
 そのせいで原稿が遅くなった……などということがあっては申し訳がたちませんから」
 苦笑しながら金子が答えると、編集人は急に声をおとした。
「何はともあれ、これが新作です。……それで、金子さん、申し訳ありませんが――――」
「もちろん、ご協力しましょう」
「有難うございます、助かります!」
 
 二人は、いつものように土蔵の一階の隅に並んで座った。
 今さっき出来上がったばかりの原稿に、まず金子がひととおり目を通す。
 そして――――。

「ここと、ここと…………、それから、ここです」
 岩永が、原稿の何枚かを抜き出し、その一部を指差す。

「ええと……『ヘリオトロープ』、『燐光が』……これは『恐るべき悪魔の所業』ですね」
 すらすらと読み上げる。
 そのたびに岩永は、原稿の横に朱でルビをふっていく。
「なるほど〜〜。ヘリオトロープ、ね。言われてみれば、そう見えなくもないような……?」
「あとは大丈夫ですか?」
「ええ、何とか。助かりました〜〜。いつもすみませんね。金子さん」
「なに、お安い御用です」
「そう言っていただけると助かります。先生も、普通に書けばまあ読めるのに、
 筆が乗ってくるとどうも……。かといって、毎回うかがうわけにもいきませんからね」
「わかります」

「それにしても、流石は金子さんです。うちの編集部総出でも読めないことがあるのに」
「こうみえても、フアンのはしくれですから」
「すみませんが、またお願いします」
「いつでも喜んでお手伝いしましょう。
 それじゃあ、僕は先生に用事がありますので、失礼します」
 丁寧に頭を下げ、金子は梯子段を上って行った。

                       ――――――――――――――――
  階下に岩永の気配がなくなったのを確認して、どっかりと腰をおろす。
 きっちりと上までとめた衿をくつろげ、慣れた手つきで煙草に火をつけた。

 ふう、とため息。

 すると。
 遠慮のない手が伸びてきて、さっき上げたばかりの前髪をぐしゃぐしゃと乱した。

「うわっ! いきなり何をする!」
「いやあ、お上手お上手。いつもながら、大変な役者だねえ君は」
 わざとらしく、繁が手を叩いた。

「茶化すな!」
「やだよ」
「まったく……」
「この、大嘘つき」
「何だと?」
「稀代の詐欺師、今世紀最大の猫かぶり。偽優等生、
 ……えっと、他には」
「いい加減にしろ貴様!!」
「だって本当のことだし?」
「黙れ!」
「ほーらきた。猫がはがれるとたちまち、この有様だっていうのにねえ。
 さっき岩永さんに見せたのの半分でも、可愛げがあればねえ。
 いつでも喜んでお手伝いしましょう……だって。あはは。痒くなっちゃうよ」

 そっくり真似されて、顔から火が出る。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
 わかった! 貴様がそのつもりなら、俺はもう二度と協力などしてやらんからな!」
「え?」
「あんなまずい字、俺の他に誰が読めると思う!」
「うわ、非道い。達筆、って言ってほしいな」
「非道いもくそもあるか!
 達筆がきいてあきれる! あんなミミズの酔っ払ったような字を書いておいて」
「ミミズ……ねえ」

「言っておくがな!
 水川抱月筆癖判読検定があったら、間違いなく俺は師範になれるぞ!
 貴様のせいでいらん仕事が増えた」
「でもさ。雑誌に載る前の原稿読めるんだからいいじゃない」
「それはまあ……そうだが」
「そうだよ」
「俺は騙されんからな!」
「あ、やっぱり駄目?」
「まったく……もし死後に生原稿が発見されたら、
 判読不可能な字ばかりで編集者が泣くぞ」
「そこまで言うかな……。いいよ。見つかる前に全部焼き捨てるから」
「勿体ないだろう! それくらいなら俺がもらう!」
「じゃ、君、このまま判読係やってくれる? 手書きの師範の免状あげるから」
「くれるものなら欲しいが……って、何の解決にもならんだろう! 真面目に書け!」
「はいはい」
「聞いているのか!」
「聞いてるって。本当に怒りっぽいねえ君は」
「誰のせいだ!」
             ――――――――――――――――
 …………二人は知らない。
 階下の片隅で、聞き耳をたてている者がいたことを。
 忘れた外套を取りに戻ればこれだ。

 薄暗がりで、編集人・I氏は思っていた。
 事実は、小説よりも奇なり。
 もちろん、あの礼儀正しい青年の変貌ぶりにも驚いたけれど、それよりも何よりも。
 この二人のやりとりの行方が気になる――――と。

 
       「世紀の探偵小説家、水川抱月あやうし!
        美貌の青年との息づまる大論戦の結果や如何?
        いよいよ大波瀾の次号、大いにご期待あれ!」


 もしも、連載小説のようなあおり文句をつけるとしたら、だいたいこんなものか。
 職業がら、どうしてもこんなことを考えてしまう。
 おどろおどろしい挿絵の脇に、黒々と印刷された文字。
 しかし、蓋を開けてみればそれは、ただの盛大な口喧嘩なのだ。
 
 いつも見ているだけに、二階の抱月の困り顔は容易に想像がつくが――――。
 あの上品な子爵の子息が、いったいどんな顔をしてつめよっているのだろう。
 また、怒鳴り声が響きわたった。
 もともとがいくぶん高い声なだけに、よく通る。
 つづいて、なだめるどころか火に油を注ぐような抱月の弁明。
 

 そして哀れな編集氏は、こみあがってくる笑いをこらえるのに大変な努力を強いられることとなった。
 
 
END