the kindness |
「……これでよし、と」 抱月は、茶色い紙袋を抱え、満足げに微笑んだ。 久々の街だ。 おまけに、愛用のインクが切れたから、という立派な理由があるので、 紙袋の口を少しだけ開けて、中をのぞく。 ついでに、というには多すぎる量の、チョコレエトや飴のたぐい。 小洒落た紙で包まれた飴玉をひとつ取り出すと、口に放りこんだ。 甘酸っぱいオレンヂの香り。 至福の笑みを浮かべながら、行きつけの書店に向かった。 |
お気に入りの店。 舶来の文具なども扱っていて、品揃えもまた、彼の好みにあう。 綺麗に並べられた万年筆の脇を通りすぎ、目当ての物を探す。 ブルーグレイのインク壷を見つけて買うと、そのまま本の置いてある棚に向かった。 自分の新作が平積みになっているのは未だに照れくさいらしく、足早に通りすぎる。 こうすればよかった、ああ書けばよかった、と後悔するのはいつも、 新刊書の棚を軽く眺め、数冊を選び、あとはお定まり。 洋書の棚に行き、新しいものがないか探す。 翻訳されてからでは遅いのだ。 海の向こうでは、どんな新奇なトリックが生み出されているか判らない。 ……それが、抱月の持論だった。 現に、土蔵にも洋書のための棚がある。 ペーパーバックの独特な匂いに包まれながら、新刊に手をのばそうとすると。 「あれ? これは確か――」 濃紺の表紙に、箔押しされた金文字。 ――ちょっと値がはるけれど、まあいいか。 そうひとりごちると、抱月はその本を手にとった。 |
―――――――― |
授業が終わり、要はいつもの扉を叩いた。 名前が変わり、学生の一人として迎えられ……たのは少し前のことなのに。 未だに、制服……というか洋装に慣れない。 「失礼します」 声をかける。 「はい、どうぞ」 いつもと変わらない、落ち着いた声が答えた。 ……いた。 ほっとして、扉を開けると。 「…………あれ?」 「やあ。要君」 そこには、思っていたのとは違う人の姿があった。 「……水川先生? あの、月村先生は――?」 「幹彦? いないよ」 「え、だってさっき……」 「あ。あれ、僕」 してやったり、という顔でくすくす笑う。 「あはは。まさか、要君までひっかかってくれるとは思わなかったなあ。 「驚いた……僕はてっきり、月村先生がいらっしゃるものだとばかり――」 「学生のころ、先生の真似をしたりして喝采をあびたものだよ。 本当に、多才な人だ。 学生時代も、さぞや人気があったことだろうと思う。 きっと、華やかな学生生活を送っていたのだろう……あのことがあるまでは。 「まったく……子供じゃないんですから、悪戯は大概にしてください。 「ごめんごめん。ちょっと、試してみたくなってね」 「……別に怒ってはいませんよ。 「さあ。僕が来たときには、もういなかったからねえ。 「そうですか」 「まあ、そうしょげないしょげない。珈琲でもいれようか?」 「自分でいれます」 「遠慮しなくていいのに」 「だって先生、これでもか、というくらいお砂糖を入れるでしょう」 「…………苦いんだもの」 言葉どおりの苦い顔をしている抱月に、要は思わず笑った。 その苦さを愉しむんですよ、といったところで、きっとわからないだろう。この人には。 「笑ったね。非道いなあ」 そういいつつ、つられたように彼も笑う。 |
「――随分と、楽しそうですね」 笑い声に、低く柔らかな声が重なった。 「……月村先生!」 「おや、幹彦。遅かったねえ」 「ここは、私の部屋ですが?」 顔色ひとつ変えずに言う。 「そうですよ、水川先生。 「要君ならば、構いませんよ」 「あ、非道い」 「そんな意地悪を言っては、水川先生がお気の毒ですよ、先生」 「意地悪…………ですか?」 「はい、意地悪です」 「私は、真実を言っただけですが……そうですか――」 |
新しいことを学んだばかりの子供のような目。 椅子に座ってもまだ、不思議そうな顔をしている。 要はその瞬間、自分よりずっと歳上なはずの彼が、いとおしく思えた。 ふわりと、後ろから包みこむように抱きしめて、軽く口づけする。 そして、囁いた。 意地悪は、いけませんよ――と。 |
普通なら幼いころに知るはずのいろいろなこと……。 当たり前のことが、こぼれおちてしまっているのだ。 それが、抱月の言う「欠落」の一部なんだろう、と要は思っている。 それを完全に埋めることはできない。 でも、ほんの少しだけでも伝えることができれば、と。 |
「いけないことなのならば……すみません。レイフ。悪いことをしましたね」 「それでいいんです」 「いいかもしれないけどね……要君。ちょっと気味が悪いよ」 「そうですか?」 「うん。かなり」 抱月は、居心地悪そうに苦笑した。 |
「……そうだ。月村先生、お渡ししたいものがあったんです」 「ほう。何でしょう?」 要は、紙袋を差し出した。 中から現れたものは、立派な装丁の洋書だった。 濃紺の表紙。 箔押しされた金文字――。 「………………!」 「これは……」 「前、探していらしたでしょう? 新種も載っている、蝶の原色図鑑です。 「これを、私に?」 「はい。気にいっていただければ嬉しいんですが……」 「有難うございます。要君」 |
「…………えーと、ごめん。ちょっと、用事を思い出した。 また寄らせてもらうよ、幹彦」 「はい」 「え? 水川先生、もうお帰りになるんですか? 何か御用があったんじゃ――」 「うん。あったんだけど……忘れちゃった」 「それなら仕方ありませんね。じゃあ、思い出したらまた……」 「またね、要君、幹彦」 いやに大きな紙袋を抱えて、抱月はそそくさと部屋を出ようとした。 「重そうですね。そこまで、半分お持ちしますよ」 「有難う。要君……でも、いいよ。かさばるだけだから」 「でも……ほんの少しだけでも」 「……あ!!」 要が手をかけたそのとき。 大きな音をたてて、紙袋が破れ…………。 床に、色の洪水。 数えきれないほどの飴玉と、チョコレエト。 そして、本。 その中には、見覚えのある、ぶ厚い本が混じっていた。 「あ〜〜あ。紙袋、ってのがまずかったねえ」 「すみません、水川先生」 「いいよ。お菓子は紙にくるんであるから全部無事だしね」 「……そうじゃなくて」 「え?」 「この図鑑、ですよ」 「あ…………あはは、それね。綺麗だから買ってみたんだけど」 「水川先生!」 「……ばれちゃったなら、仕方ない。 「でも――」 「やれやれ。まさか、二冊きりの本を僕たちが買い占めてこようとはね。凄い確率だ。 ため息をつきながら、抱月が言った。 本は一冊あれば十分です……などと、さらりと言うかもしれない。 そう、二人同時に思っていたとき。 「……頂きましょう」 思わぬ言葉が返ってきた。 「え? 本当に?」 「私は嘘はつきません」 「あ。そうだったね。そういえば。……二冊あると、きっと便利なこともあるよ。 「そんな。水川先生じゃないんですから」 「確かに、お菓子はないね」 そう言って、抱月は笑った。 散らばった飴玉を拾い、新しい袋に入れると、急いで家に帰っていった。 用事があったというのは本当だったらしい。 いつも通りの――締切が近づいている、という用事ではあるが。 |
「要君」 「はい。何でしょう。月村先生」 「あれで、よかったのですか?」 「……え? 何がです?」 「先程、要君の言ったことを、私なりに解釈してみたのですが……。 「…………?」 「それに基づいて、レイフの本を受けとってみたのですが」 「…………まさか」 「ええ。意地悪、にならないようにと――」 真顔で言っている。 彼なりに、考えぬいた上での結論なのだろう。 要は、吹きだしそうになった。 「意地悪」という、子供の使う言葉があまりにも似合わなかったから。 要の言葉の意味は一応、伝わっていたらしい。…………一応。 「はい。正しいと思います」 「それはよかった」 「……でも、これは水川先生には秘密ですよ」 「わかりました」 |
幹彦がもし、本心からでなく、義務として受けとったのだとすれば……。 何としても、抱月には隠しておかなければ。 ……それこそ、気の毒すぎる。 机の上に並んだ二冊の本を眺めながら、要はため息をついた。 |
END |