Kiss from a Rose
 
「非道いですよ。
 先に行ってしまわれるなんて。
 僕がいったい、どれくらい待ったとお思いですか」

 なじると、その愛しい人は、困ったように微笑って。

「遅く……なりました。
 でも、こうして迎えに来ましたよ」

「はい。『先生』」

「……ああ。
 君は、私に逢うために、美しく装ってくれたのですね」

「え……?」

 ふと、自分の胸元に目をやると、元は白かったらしき衿が、
蘇芳に染まっているのが見えた。

『先生』の細い指が頬に触れ、軽く撫でると、
それは無数の薔薇の花片となって舞い上がった。

 くらくらと、眩暈の起こるような強い香り。
 でももう、先ほどまでの苦しさは失せていた。

 抱き寄せられ、首すじに口づけが降る。
 あの頃、あれほどまでに待ち焦がれた、唇にも――。

「いけません。感染ります」

「気にする必要はありませんよ。要。
 もう、二度と……ね」

「…………?」

「二度と、放しはしません。
 そう言ったのですよ。
 さあ。もう時間がありません。行きましょう」

「はい。先生」

 僕は、差しのべられた手を握り、歩き出した。
 快い、永遠の暗闇の中へ。


           ――――――――――――――


 ……ああ。そうだった。

 やっと、思いだした。
 僕の人生から、ごっそりと切り取られるもの。

 これが、五感を失う、ということだった。
 つい先ほどまで確かにあったものが、急速にかたちを失っていく。
 すくいあげた砂が、指の間からこぼれていくように。

 すべてが、色を失う。……また。

 力なく、僕の腕に預けられた身体。
 
 僕は、救ってやれなかった。
 いや。
 「救おうとしなかった」んだ。

 みるみる細くなっていく彼に、医者にかかることを勧めもしなかった。
 彼が、それを望まなかったから。

 喀血で、息が詰まるのを目にしながら、かき抱いていることしかしなかった。
 少しばかり、顔を傾けてやれば防げたかもしれない、と分かっていながら。
 彼が、それを望まなかったから。

 生きながら、彼の魂は半分、あちらに持っていかれてしまっていた。
 肌をあわせている時すら、彼の呼ぶ『先生』は、僕を指してはいなかった。

 さあ。
 僕は罪を告白した。

 白くなった唇を、冷たくなった舌を、むさぼるように味わった。
 彼は、僕のための毒を、遺しておいてくれたから。

 知ってたかい。要君。
 僕も、とうに――。

 胸の奥から、せりあがってきた胸苦しさに、思わず咳込むと。
 押さえた僕の掌は、あの華と同じ彩に染まっていた。
 

END