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面倒な時に来てしまったか――。 正直、そう思った。 薔薇の下にも居ない。 土蔵に上がりこんでみたが明かりもない。 母屋の方で気配がしたので行ってみればこれだ。 ほんの少し開いた障子の隙間から、座敷が覗いている。 使いこんだ丸い卓袱台に、肘をついて虚空を見つめる薄青の瞳。 それだけなら何でもないが、卓袱台に載っているのは菓子皿ではない。 主の瞳の色とそう変わらない、切子硝子の徳利と、揃いの猪口。 長篇を書き上げたばかりで、今は丁度、締切りの谷間なのだと言っていた。 大物をやっつけた後しばらくは、抜け殻のようにぼうっとしている時がある。 今がその時なのだろうか。……それにしては様子がおかしい。 確かに、あれだけの傑作をものしたのだから、無理もない。 残りの頁が少なくなっていくのが惜しくなるような、近来稀に見る筆の冴え。 真相が明らかになるまでのくだりは、俺としたことが寒気を覚えるほどだった。 本人を目の前にして感想を並べ立てたとしても、陳腐な言い回しにしかならない気がするし、 ろくに中身も理解していないのに、著者近影を見て心をときめかす女学生と大差ないような気もする。 それは、処女作から追ってきたこの俺のプライドが許さない。 水川抱月が織り上げる世界の繊細さが、薫りが貴様らなどに理解できるかと。 だがこうして熱くなると、その著者本人から茶化されるのだから始末が悪い。 しつこいほどに感想を聞きたがるくせに、口にするとあの、人を小馬鹿にしたような笑みが浮かぶ。 誰がガキだ――というのは置いておくとしても。 今日は珍しく、筆頭読者としての素直な気持ちを伝えようと、感謝の品を持ってきたのだが。 中身はもちろん………………。 これでもかと餡の入ったどら焼きに、粉で手が真っ白になりそうな豆大福、1糎食べただけで腹が一杯になりそうな羊羹。 鯛焼きなどは、「繁」の知り合いと知れるや、砂糖2倍の特製餡を尻尾までこってりと入れてきた。 しかも、頼みもしないのにおまけが1尾。 …………匂いを嗅ぐだけで、胸が悪くなってきた。 いっそ、このいまいましい紙袋を廊下に置いて、黙って立ち去ってしまおうか……と思った瞬間。 「あれ。帰っちゃうんだ」 くそ。見つかった。 「君が冷たいってことは分かってたつもりだけど……。 お酌のひとつくらいしてくれたって、バチは当たらないと思うんだけど?」 「酌なんぞするか。そもそも貴様は下戸だろう」 「たまに呑みたくなることだってあるさ。 がらでもない物思いに耽ったりしてねえ。……あ、口説くんなら今だよ」 「…………あのな」 心配して損した。 ……いや待てよ。 下戸のこいつが、酒の力を借りなければならないような心境になった――。 それも、皆の目がある居酒屋でならまだしも、こうして独りで座敷で呑んでいる。 ゆゆしき事態……とまでは言わないが、面倒なことになりそうな気がする。 俺はとんでもないところに足を踏み入れてしまったのかもしれない。 そんな不安をよそに、抱月はにやにやとこちらを見つめる。 「貴様……酔ってるのか」 「ふふん。 何なら、君も一緒に呑むかい? 金子君。 お〜〜い、そこのお兄さん、お銚子のお代わりを頼むよ」 おどけて、目の前で切子硝子の徳利をふって見せた。 いい加減にしろ……と思ったが。 何やら、ちりちりと音がする。 「?」 抱月は笑って、徳利の中身を猪口にあけた。 酒…………ではない。 赤、黄、薄緑、紫、白。 色の洪水。 橙色の一粒は、猪口からこぼれて卓袱台に転がった。 「何だこれは…………金平糖??」 「ご名答〜〜〜〜!!」 「金平糖を徳利に入れる馬鹿がどこにいる」 「え? 駄目かなあ」 「駄目に決まってる」 呆れかえって二の句がつげない。 「それに似た花器を見たことがあるが……結構値の張るものじゃないのか」 「そうだねえ。頂き物だから詳しくは分からないけど、僕も骨董屋さんで見たことがあるよ」 「…………ほう」 「うーん。ちょっとしたいい万年筆の買える値段だったねえ」 「これを作った奴も気の毒に。 まさかこんな使い方をされるとは思ってもみなかっただろうな」 ため息。 「これはもう僕のものなんだし、どう使おうと自由だよ。 主の僕が、綺麗だなあ、と思うんだからそれでいいんじゃないかい?」 「根本的に違うと思うが……」 「そうかな」 抱月は、卓袱台に転がったひとつをつまみあげると、鮮やかな彩をいとおしそうに眺め、 ぽいと口に放りこんだ。 こりこりと音をさせながら、何か考えているらしい。 「えーと」 「ん?」 「創ったものはさ、使う人の手に渡ったらその人のものなんだよ」 「当たり前だろう」 「そうじゃなくてねえ……。何て言ったらいいかな。 例えばこの器だって、誰が酒の器って決めたんだい? 別に花を生けたっていいし、何なら蕎麦つゆを入れたっていい」 「…………蕎麦つゆ…………」 それ専用に創られたものならまだしも、これは違う。 すんなり伸びた美しい造形が泣く。少なくとも、涼しげな透明感台無しになること間違いなし。 想像してみて、げんなりした。 「味噌汁を入れたっていいんだろうけど、硝子だからちょっと無理だね」 「あのな……つまりは何がいいたい」 「じゃあ、君の分かり易い例えにしようか。 君の好きな水川抱月の『樹の下にて』。 あれはそう沢山売れたわけじゃないけど、君以外にも読んだ人はいる」 「もちろんだ」 「10人いれば、10通りの読み方がある。 人によっては、あれが抱腹絶倒の喜劇だと思った人もいるかもしれないよ」 「まさか」 「そう言い切れるかい? ……まあね、もし居たら、どこをどう読んでそう思ったのか聞いてみたい気がするけど」 「………………」 「作品は受けとる側のもの。 そこから何を受けとるのか、どう受けとるかは自由さ。 そりゃあねえ、ひどく叩かれたりすれば僕だって人並みにへこみもするけどね」 「そういうものか」 「創る側が思いもしないことでもいいよ。 受けとる側に何かしら残せたら、それだけで嬉しいからねえ。 …………残り香みたいなものを」 そこまで言って、抱月は軽く笑った。 こういう笑い方には…………覚えがある。 「残り香……」 「そう」 「貴様、何か隠しているな」 「えええ? 何を?」 「…………」 無言でにらんでやると、抱月はきまり悪げに頭をかいた。 「……参ったねえ。 ガキのくせに、妙なところで察しだけはいいんだから困るよ」 「ガキは余計だ」 抱月は、目の前の猪口から赤いのを一粒つまみあげ、口に運んだ。 ぽつり、と話しだす。 「……………………………………要君がねえ、」 そらきた。 こいつが口ごもる時、次に来る言葉は決まっている。 しかし、黙って聞いてやることにした。 「ああ……要がどうした」 「僕が何気なく頭を撫でたら、こう言ったんだよ。 『月村先生と同じことをなさるんですね』ってね」 「………………」 「ちょうど幹彦もそこにいたもんだから、僕と幹彦を見比べて笑ってね」 「何かと思えば……。貴様が要だの火浦だのを気軽に撫でるのはいつものことだろう。 今更――」 「そうだよねえ。僕も最初はそう思ったけど、違うんだよねえ」 「………………?」 「僕が知るかぎり、昔の幹彦にはそんな癖はなかったからね」 「………………………………ふん」 「ちょっと思い出してね。それだけなんだけど」 「…………俺に言わせれば、貴様にもあると思うが」 「え? 何がだい?」 「決まってる。あの忌々しい奴の残り香がだ! ……うわ、寄るな。鼻が曲がる」 「あはは……ひどいなあ、そこまで言わなくたって。 あれ? もしかして生意気に嫉妬?」 「はあ? 誰が!!」 「そんな時はほら……金子君も呑むかい? 一杯」 「金平糖を一杯二杯で数えるな!!!!」 徳利の中で、金平糖がからりと音を立てた。 見慣れるとこれもまた、いいかもしれない。 少なくとも………………味噌汁よりは。 |
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