The master

 
ふたつの音が絡みあう。

頁を繰る音。

紙の上を滑る、ペンの音。

時々止まり、思い出したようにまた。

甘い、休日の空気がゆっくりと流れていく。

読んでいる本からふと顔をあげると、いつもの背中。

珈琲でもいれてきてやるか――。
珍しくそう思って、腰を浮かせかけたとき。

ペンの音がとまり、抱月が大きく伸びをした。

 
「お待たせ。……終わったよ」

「随分と早いな……珍しく」

「珍しく、は余計だよ」

ここからは、筆頭読者の特権だ。

いつものように出来たて原稿に手を伸ばす。

……と。

「ちょっと待った」

「………………は?」

「これは……おあずけ」

ふふん、と笑って、抱月が原稿をとりあげた。

「話が違う――!」

「なにも君に読ませないって言ってるわけじゃないよ」

「それなら何で……」

「倉庫、学院、土蔵――金子君……君、外に出るっていったって夜じゃない。
 カビが生えるよ」

「人の勝手だろう」

「君にしろ僕にしろ、たまには虫干ししないと。
 …………というわけで、とっとと準備する!!」

「勝手に決めるな…………おい!」

「はいはい。 この原稿も連れてっていいから」

「……………………まったく」

 
――――――――
 
初夏の日差しが眩しい。

乾いた風が、さらりと頬を撫でていく。

なだらかな草地に腰をおろし、目の前を流れる川を眺める。

ここへ誘った張本人は――

草の上に長々と寝そべって、鼻歌なんぞ歌っている。

家から持ってきたものは、茶の入った水筒。
途中でビスキュイと新聞を買って、着いたのがここだ。

辺りに他に人は見あたらない。

静かなのはなによりだ、と封筒から原稿用紙を出して広げる。
もちろん、風にとばされないよう、しっかりと綴じてある。
紙の白さが眩しいが、すぐに慣れるだろう。

必ず、予想の一歩先を行く展開。
こう来るだろう……と思うと、必ず肩透かしをくらわされる。
それが悔しくもあり、同時に楽しみでもある。
今回はどう予想を裏切ってくれるのか、と。

ひきこまれるように、あっという間に読み終えて。

ふ……と視線だけ、横に寝そべる男に向けてみる。

  「水川抱月」。

  寝そべって新聞を読んでいる 「水川繁」…………。

 
「…………何、見とれてるんだい、金子君? 惚れ直した?」

「……………………?!」

「さっきから、じっとこっち見ちゃってさ。
 このビスキュイが欲しいのかい?  しょうがないなあ。
 少しならあげるよ。 ……はい。あーん」

「要るか! そんなもの」

「あはは」

「……まったく。貴様のいったいどのあたりに
 こんな文章を書く素が入っているのか知りたいもんだ」

「え?」

「未だに、貴様が水川抱月だということが信じられんというんだ」

「やれやれ。僕も随分とみくびられたもんだね」

「いかんせん、普段の行いが悪すぎる」

「いつもながら非道いねえ、君は。
 君がそうして呑気に原稿読んでる間にも、僕はちゃんと仕事してたっていうのに」

そう言うと、稀代の探偵作家は、大袈裟にため息をついた。

「…………仕事?」

「そう」

「新聞をひろげて、寝そべっているのがか?」

「そのとおり」

「出まかせを並べて、煙に巻くつもりだろうが、そうは――」

「本当に疑り深い子だね君は。
 そんなことで物書きを目指してるなんて嘆かわしいよ」

「何だと……?」

「いいかい。
 机にへばりついて筋を練ってるだけが作家だと思ったら大間違いだよ。
 むしろそれ以外の時間こそが、いい機会なんだから」

「………………」

「何か音楽を聴いてるときだって、お風呂に入ってるときだっていい。
 頭の中は何をしようと自由なんだからね。
 現に今だって――」

抱月は、大威張りで新聞を広げてみせた。

「金子君。この新聞を見て、どう思う?」

「これといって面白い記事もない、何の変哲もない紙面に見えるが?」

「そう? 僕はここから、いくつか鍵を拾ったよ」

「…………?」

「例えば……ここ」

「尋ね人?」

「この、尋ね人と記事の主の関係を、短い文章から推理してみてごらん。
 これでまず、ひとつ短篇ができる。
 それと……これ」

「原色・新植物図鑑…………山野草の部3巻、刊行?」

「何気なく咲いてる花一輪……
 それがすべての謎を解く鍵だったとしたら……?」

それから、と抱月は新聞をめくり、喜々として次の頁を指し示す。

「ここなんかはどう?」

「…………読者からの投稿か。
 駅で、見知らぬ男から親切にされた、名も告げずに去った……
 礼がしたい? ほう。美談だな」

「この記事で、どういう行為が人の心を揺るがすかがわかる。
 それをわざとひっくりかえして……」

「ひっくりかえす?」

「例えばだよ。これがもし、
 美談とみせかけたよからぬ大計画の序章だったとしたらどうだい?」

「………………」

「新聞はね、案外馬鹿にならないもんだよ。
 いろんな事件の氷山の一角が顔を覗かせてることもある」

「なるほど…………『赤髪連盟』か」

「ご名答」

「まったく……いつもそんなことを考えているのか?」

「まあ、いつもってわけじゃないけどね。
 何かがひっかかるといいな……って、網を張ってはいるけど」

 
いい風だね、

眩しい陽の光に、手をかざしながら抱月が言った。

いつものように、なつっこく笑う。

幸せそうにビスキュイをほおばる姿も、いつもと変わらない。

しかし。

この男は、「水川抱月」でもある……。

研ぎすまされた一面を、時折ちらりとのぞかせる。

 
「で?」

「…………?」

「この水川抱月が、直々に手の内を明かしてあげたんだけど」

「だから何だ」

「…………講義料」

「はあ?」

ぐいっと引き寄せられ、唇を重ねられる。

舌を絡ませられ、逃れようとして暴れると、口づけは額にも降った。

「………………!!」

ようやくふりほどく。

目の前に、会心の笑みを浮かべた相手。

「…………誰かに見られたらどうする、この馬鹿!!」

「その点では抜かりないよ。
 ほら。ここから見えるところには誰もいない」

「見ていなかったからいいという問題でもないだろう!」

「あはは。 ま、今のが前払い」

「前払い?」

「あと半分は、家に帰ってからでいいよ」

「ちょっと待て貴様!!」

 
認めたくはないが…………こいつは、間違いなく水川抱月だ。

今更ながら思う。

もしや俺は、とんでもない人間を師に選んでしまったのではないか、と。

 
END