My Precious |
「駄目です」 優しげな空気をまとったまま、青年は答えた。……きっぱりと。 いつものように柔らかく微笑んではいるが、よく見ると目だけは笑っていない。 あの師にしてこの生徒あり――さすがに、一筋縄ではいかない。 しかし、ここで退いては、後にさしさわる。 すでに地に堕ち、泥にまみれつつあるもの……なけなしの「オトナの威厳」すらも危うい。 一度背を向け、しばし視線を宙に泳がせて。 くるっと向きなおり、とっておきの笑顔を投げかけてみる。 「…………ね。どうしても、駄目かい?」 「駄目ったら駄目です」 第一の作戦、見事に失敗。 「要君のけち」 頬をふくらませて毒づいた。 すでに「オトナの威厳」は品切れ。再入荷は当面、望めそうにもない。 「どうとでも言ってください」 相手はとことんつれない。 ――やれやれ、ご機嫌ななめの要君を扱うのは、幹彦を腹の底から笑わせるのと同じくらい 骨が折れるよ。 心の中で、そっとこぼす。 「何かおっしゃいました?」 「え? いや、何も言ってないよ」 ……ちらっと、思いはしたけどね、という本音は地中深くに埋めておいて。 「もういい加減、機嫌直してくれないかい? 要君。謝るからさ」 「……………………」 「かーーーなーーーめーーーくん? おーーい。聴こえてる?」 「なついたって駄目ですよ! そんな暇があったら、お仕事なさってください。 毎度毎度、先生が雲隠れするたびに、岩永さんに泣きつかれるのは僕なんですから!」 「でもさ。要君、僕がせっかく逃げてもすぐに見つけちゃうじゃない。 よし、今日は逃げ切れた! と思ってもすぐに見つかっちゃうんだもんなあ。 僕、自慢じゃないけど、かくれんぼは玄人はだしだったはずなんだけど」 「かくれんぼに玄人なんているはずないでしょう。 先生の行かれるところなんて、お見通しですよ。伊達に………………っあ!」 要君を片手で抱き寄せ、結わえた髪の先でうなじをくすぐった。 そのまま顎の下を、つうっと辿り、鎖骨のくぼみを弄る。 同時に、耳の裏をそっと舐めあげ、柔らかな耳朶に軽く歯をあてた。 「伊達に…………何?」 くすくすと笑いながら、吐息とともに囁く。 すると、面白いほど簡単に、要君の声に熱がこもった。 「ん…………っ、せん…………せい、卑怯――」 「……卑怯? 何が?」 「非道いのは君だよ、要君。知ってるよ。隠したのは君だってね。白状おし」 「知りま……せんよ」 「おや。そんなことを言うの」 衿から指を滑りこませ、小さな突起をとらえて強めに弄った。 「…………っ」 息をつめる気配。僕は、我ながら意地が悪い。 そして。 「おーい。今の聞いてたかい、幹彦? 嘘をつく子には――」 「…………!」 「おしおき……だよねえ?」 喉の奥で低く笑い、腰の線に沿って下に、指を滑らせていく。 「………………ん、」 かろうじて肩にひっかかっていた着物をはらいおとし、滑らかな背を舐め上げると、 要君が小さく声をあげた。 すでに力の入らない膝が折れ、床に崩れそうになっている。 それをやんわりと後ろから支えてやりながらも、しっかりとは抱きとめてやらない。 先走りに潤され、手を上下させるのが楽になってくる。 時折、先をいじめてやると、その動きに翻弄され、がくがくと震える細腰。 弾んでくる息。 次第に、僕の腕に身体の重みを預けてくる。 「正直に言えば、許してあげなくもないよ?」 「言う…………もんですか!」 「強情だね。そうこなくっちゃ」 前を責める手の動きに変化をつけながら、細い肩に軽く歯をたてる。 「っあ!」 同時に、解放されたがっているそこを強く握って、封じてしまう。 「い……やだ、……せんせ――放し……!」 「いいよ。その代わり、お言い」 「ん…………っ」 「さあ」 甘い声で撫であげながらも、しっかりと握った先を爪の先で煽る。 要君の背が、びくんと跳ねた。 「………………、の中、です」 「え?」 「月村せんせ……の旅行……鞄の、…………んんっ! なか…………!」 「ようやく白状したね」 「…………あァ……ッ!」 可愛らしい犯罪者は、僕の腕の中で静かに果てた。 ―――――――――――――――― 「要君? ……あれ。嫌だなあ。怒ってる? まるで僕が意地悪したみたいじゃない」 「意地悪、なさったんじゃありませんか」 「人聞き悪いねえ。もとはと言えば、君が僕の大事なもの隠すからいけないんだよ」 「まさか水川先生、ご自分には一切非がない、なんておっしゃるんじゃないんでしょうね?」 「そうは言ってないさ。僕もほんのちょっとは反省してるから、ほら! こうやって珍しく真面目に原稿片づけてる」 「珍しく…………じゃなくて、それが普通なんです。お仕事なんですから」 呆れかえったように、要君はため息をついた。 僕の手元には、事の元凶。 ちょっとこじゃれた缶で、表面には、横たわる乙女の白い裸身。 描かれたものが女神などではなく娼婦だからと、物議を醸した絵画だ。 この意匠も好きだけれど、僕がもっと好きなのはこの中身だ。 my precious――わが愛しきもの。 僕は缶にほおずりして、呟いた。 「要君も非道いよねえ。これがないと、僕の筆が進まないの知ってるくせにさ」 「ちょっとしたおしおきです」 「にしても……」 「………………?」 「予想通りだったなあ」 「何がです?」 「君があの部屋に隠すだろうってことは、容易に予想がついたってこと」 「じゃあ、ご自分で探されたほうが早かったんじゃありませんか?」 「え? 嫌だよ。そりゃあさ。おおむね想像はつくよ。 でも、あの部屋引っかき回した後片づけるのを考えると、眩暈がするからね」 「………………まったく」 「それにさ」 「?」 「いい息抜きにもなったし」 ここぞとばかり、会心の笑みをうかべてみせる。 「ですから! 片手間や息抜きに人を使わないでくださいと何度言ったら――」 「まーーた、そういうつれないこと言う」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 「要君?」 「…………わかりました。息抜きも出来たし、大事なものも先生の手元に戻った。 ということは、今目の前に何の問題もないということですよね。 そのわりには、手が止まっているように見えるんですが?」 「うわ。要君の意地悪」 「二時間後には岩永さんがいらっしゃるっていうのに、 ぎりぎりまで放っておいた先生が悪いんでしょう」 「はいはい。…………いちいちごもっとも」 「まったく」 「まあまあ。そう怒らない怒らない。 同じ人生なら、笑って過ごしたほうが得だよ?」 「その台詞、今の先生からだけは聞きたくありませんよ」 僕は、愛用の万年筆を置いた。 腕を組み、せいぜい難しい顔をして――。 そっと…………傍らの愛しの缶を開けた。 「思うにね、君には人生の余裕だとか潤いだとか、そういうものが足りないね」 「なんですか急に」 「…………つまりね、」 今だ。 僕は、要君の腕をとらえて引き寄せ、唇を奪った。 「………………ん!」 甘い。 文字通り、甘いくちづけ。 「………………こういうこと」 口移ししたのは、秘蔵の舶来チヨコレエト。 日本のものにはない、情け容赦のない甘さ。 「…………これはちょっと、甘すぎますよ」 「そうかい? たまにはいいと思うけど?」 「それはまあ、そうですけど」 「正直だねえ」 「……おあずけ!――来週分の原稿を、岩永さんにお渡ししてからです!」 「あ。やっぱり? ごまかしきれなかったか……」 「当然です」 極上の笑み。 この笑みで、何本もの手綱を握っているから怖ろしい。 彼の前では、愛しの缶の乙女も霞んでみえる。 いけないいけない。 チョコレイトの洋酒に酔ったかな。 ほろ酔いついでに、気のきいた言い回しのひとつも浮かぶといいのだけれど。 僕の詩神は、絵の中ではなく背後で、笑みを凍りつかせている。 苦笑しながら、僕は原稿用紙の升目を埋めていった。 |