……Not my lover,

 
面白くもない授業ばかりだ。

皆、よくも真面目にやっていられると本気で思う。

体調が悪いから、と一言言い残し、堂々と教室を出る。

長年の経験が、演技に厚みを持たせている……などとは、さすがの俺でも思わない。
騙される奴が、馬鹿なのだ。
不思議なことに、一番騙しやすそうな土田は、そう簡単に騙されてはくれないのだが。

倉庫へ向かう途中、ふと足をとめた。

今日はメートヒェンはいるだろうか?

今の時間なら、薔薇の世話をしているころかもしれない……と。

そう思ったのが、そもそもの間違いだった。

 
いったい、何なのだ。これは。

よれよれの和服に、玉蜀黍のヒゲのような色のだらしなく長い髪。

……をもつ物体が、無造作に足元に転がっている。

「……おい、……おいこら」

しゃがんで揺りおこすのも面倒だ。足にあたったのを幸い、つま先で軽くこづく。

「………………」

寝言とすら言えないような声がした。

「お得意の狸寝入りか?」

「……僕は、『おい』なんて名前じゃない」

まったく……子供か。

「それは失敬。ならば、ちゃんと名で呼ぶとしよう…………繁ちゃん?」

「君って子は、本っっ当に、可愛げがないね」

「あんたが、あんまりにガキっぽいことを抜かすからだ。
 ガキにふさわしい呼び方をしてやっただけだが?」

「可愛くないね。この間、さんざんガキ呼ばわりしたの、ま〜だ根に持ってるんだ?
 それこそガキなんじゃない?」

鬼の首をとったような顔をして、ふふんと笑う。

そんな、人を小馬鹿にした表情も、妙に決まって見える。

英国の血が半分入った、銀幕の役者のような姿。

はなはだ不本意ではあるが、端正な顔だちなのは認めざるをえない。

「あ……金子くん? 悪いね〜〜。もしかして傷ついたかな?
 すまないね。僕は所詮、三文小説家だから、どうも語彙が乏しくてね。
 ……ほら、何だっけ。『水川抱月の粗悪な模造品』だし」

ぐっ。

それを言われると痛い。

「意地が悪いな」

「君には負けるよ」

 
心躍るような展開、巧妙なトリック、どんでん返しの結末。
猟奇、奇怪でありながら、いつもどこかに美しさが仕掛けてある。
子供だった自分に初めて、媚薬めいた退廃の味を教えてくれた……。

小説家、水川抱月。
何年も前から好きで、すべての作品を追い続けてきた。

……それが。

こんな底意地の悪い男とは思いもよらなかった。

「だいたいな、貴様が正体を明かそうとしないから――」

「いつ気づいてくれるか、とわくわくしてたのにねえ」

「もういい!!」

「どうして君は、そんなに怒りっぽいんだろう?
 そして、意味もなく偉そうなのは、誰に対しても?」

「うるさい! 生まれつきだ。
 それよりいいのか? こんなところで油を売っていて」

たしか、締切りは明後日……と聞いたはず。

「うーん。そこをつかれると痛いねえ」

「……ということは」

「最初の数行は出来たよ? まったくやってないわけじゃない」

「終わってないなら同じだろう!!」

「え……? 痛い、……痛いって。金子くん乱暴!」

「問答無用だ!」

「判った。判ったからそうひっぱらないでって。ちゃんと歩くから」

 
どうしてこうなるんだ、と思いつつ、抱月を家に連行する。

「君、立派な担当さんになれるねえ」

「俺はこんな小説家だけはごめんだ。雑誌に、白紙の頁を作る気か?」

「それも面白いね。水川抱月謹呈・備忘録用上質紙一挙15頁!!
 いっそ、巻頭特集とか」

「…………」

「切り取り線をつけて、使いやすいようにして……今晩のおかずの買物
 一覧を書いてもらう――これはいいね。初めて僕が人様の役にたつ」

「冗談もたいがいにしろ。人がどれだけ新連載を楽しみに――――っと」

「え? え? 今なんて言った?」

「何でもない!! いいから早く書け!」

「嬉しいねえ。金子くんがそこまで楽しみにしていてくれるっていうのは」

くそ。また弱みを握られた……。

 
「でもねえ」

「…………?」

「どうもね、こう、ひと味足りないんだ。
 だいたいの筋立ては出来てるんだけど……うーん」

「ひと味?」

「何ていうのかな。
 西瓜とか、僕の好きなお汁粉とかに、塩をひとつまみ入れると美味しいよね。
 そのぐらいの、ひと味」

うーん、とひとしきり唸って、薄暗い天井を眺めている。
たしかに、あれだけの文章を綴るのは骨が折れるだろう。
ネタが浮かばないこともあるだろうし。

「山椒とか、塩のひとつまみ……。
 甘いだけじゃなく、こう、ぴりっとするような……ほんのり苦味も欲しい」

わけのわからないことをつぶやいて、ひとしきり目を泳がせる。

そして。

「あ」

目が合うや、だしぬけに声をあげた。

「あった」

「何が」

「……塩」

「は……? 何を言って……――んんっ!!」

いきなり唇を奪われた。

金子光伸、一生の不覚――が、この男相手だと何度あるのだろう。

巧みに口腔をなぞられ、舌を吸われる。

……まずい。これはまずい。

力の抜けかけた腕で何とか押しかえし、息を継いだ。

「待て」

「ここまで来て何……?」

「……西瓜も汁粉も、塩を入れたらかえって甘くなる」

「あはは……そうだった! でもほら、甘いの大好きだし」

「はぐらかすな! ちょっと待て――!!」

「待ったは一回だけだよ。もう駄目」

いつの間にか、開襟の釦が外されていた。

意地悪く微笑んだその唇が滑り、胸にたどりつく。
次の瞬間、ちりっと痛みがはしった。

「…………!」

軽く、歯をあてられた程度だと判っていても、つい声が洩れてしまう。

含み笑いの唇で、今度はひどく優しく扱われ、不覚にも涙が零れた。
その涙を、長い指ですくいとり、わざと目の前で舐めてみせる。
さりげない仕草が、妙に艶めかしく思える。

「……やっぱり、甘くはないね。塩だから」

「くだらん軽口はもういい……」

つぶやいた自分の声が、変にかすれている。

「ふうん? じゃあ、どうしてほしい?」

本当に底意地が悪い。

「君が素直になるのって、この時くらいだからね。
 ……降参する?」

「誰が!!」

「あ、そう。じゃあ、このままでいい?」

「っあ!!」

すでに兆しているそれを、つっと指でなぞられ、全身の血が逆流した。

「僕も天邪鬼だから……ききわけのない子は好みだったりするんだよね」

相変わらず緊張感のない声が続ける。

と。

いきなり身体を裏返され、思わぬところに舌が這う。

「嫌……だ! 止せ――や……あ……っ!!」

「ここ」

「……っ、ん!」

何度か肌をあわせただけなのに、もう覚えてしまっているらしい。
妙なところで器用な男だ。

「あと、ここ」

「ひ……っ!」

神経の集まっているところを、長い指でひっかかれ……、
悔しいが、陥落させられた。

「まだ、こっちに触れてもいないのに……。
 負けを認める?」

「今回だけは……譲る」

苦笑しつつ、抱月はゆっくりと身体を重ねてきた。

 
――――――――
 
高い、あかりとりの窓から差しこんでいるのは、朝日だろうか。

こんなに強い光が当たっては、本の背表紙がやけてしまうのに……。

そう、ぼんやりと思いながら、ようやく気づいた。

ここは……水川家の土蔵!!

あの後、知らぬうちに眠りこんでしまったらしい。

「やあ。もう昼だよ。よく眠っていたねえ」

「昼?」

「うん。昼」

この身体中の痛みの元凶は、悪びれもせずに言った。

「君が眠ってしまってから、妙に筆が進んでねえ。
 やっぱり、塩は大事だね」

「……って、原稿、上がったのか?」

「うん。お蔭様で」

「原稿は?」

「今、郵便で出してきたところ」

「何で俺に黙って!!」

「ちょっとした、意趣返し」

「意趣返し、だと?」

「金子君、こないだ投稿した小説、見せてくれなかったから」

「そんなことを根に持って……」

「僕はこう見えて、かなりねちっこい性格でね。
 年寄りだから」

「……………………貴様ああああ!!!!」

「痛い! 金子君乱暴!」

「うるさい!!」

 
抱月が原稿を「必ず」見せてくれるようになったのは、その日からだ。
 
END