PAPER MOON | |
皓い月。 銀の砂。 さらさらと零れ落ちるそれは、砂なのか。 あの月が落とす光なのか。 遠く近く、寄せてはかえす波の音。 寄せてはかえす翳の波――――。 |
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かなしい、愛しい夢の余韻。 心細くなって、要は傍らに眠る肌に手を伸ばした。 ――が。 温もりはそこにはなかった。 「――……先生?」 まだ、夜明けには早いはず。何処へ行ってしまったのだろう。 素足のまま、彷徨い出る。 もとより、この別荘はそう大きなものではない。すぐに、正解の扉をさがしあてた。 書斎。 壁一面に本棚が据えられ、水の底のように静まりかえっている場所。 まだ空の棚は残っているのに、床に積む癖はなおっていない。 あの教授室を思い出して、要は小さく笑った。 あちこちに積まれた本の山を崩さないようにしながら、奥へ進んでいく。 窓の傍らの書き物机の脇に、彼は居た。 椅子に腰掛け、読みさしの本を膝に置いたまま、彼は眠っていた。 「……………………しょうがないな」 こんなところで眠っては、身体に障るだろうに。 そうっと膝の上の本をとりあげて、膝掛け代わりの毛布を掛ける。 少しでも楽なようにと、眼鏡を外した。 意外に長い睫毛。 はらりと、額にかかった前髪。 うすく、形のよい唇。 こんなに、綺麗な人だったのだ……。 机の薄あかりに照らし出されたその寝顔を眺めながら、要はため息をついた。 長い間、教授としての顔に見慣れていたせいで、未だにどきりとする。 あどけない……ともいえるような無垢な表情。 学生時代はさぞや……と思わせるような、儚げな風情。 皓い月。 銀の砂――。 言いようのない不安にかられて、要はそっと、白い頬に手を伸ばした。 そして、その温もりに安堵する。 ……また少し、痩せた。 鋭角的な顎の線に指を滑らせながら、思う。 口づけたい。 抱きしめたい衝動を抑えて――。 額に、薄い瞼に、羽根のような口づけを落とした。 「要君」 彫像が、口をひらいた。 「すみません。起こしてしまいましたね」 「眼鏡を……返していただけますか」 「…………嫌です」 「困りましたね。これでは、君がよく見えませんよ」 「それなら――」 「………………?」 「それなら……もっと近づいて見てください…………僕を」 囁きに応えるように、腕が背にまわり、引き寄せられた。 髪を撫でられ、その指が耳の後ろを通って衿元へ滑る。 少し開いていた衿に手がかかり、静かにはだけられ、胸に唇が触れる。 歯をたてられ、息が乱れた。 もう片方の手は、薄い布地ごしに、ゆるゆると煽ってくる。 「…………せん……せ――」 「何ですか、要君」 まるで、授業で質問を受けたかのような、何気ない声。 どこまでも静かなその声が、憎らしい。 こちらばかりが昂らされるのは、少し悔しい。 「僕も……してもいいですか……?」 「おや」 「先生?」 「どうぞ。お好きなように」 静かにそう言った。いつもと同じ、抑揚の少ない声。 「それじゃあ駄目なんです」 「駄目、とは?」 「ならばやめます……、そう僕が言ったら、先生はやめるんですか?」 「それが君の望みなら」 「先生は?」 「………………?」 「僕が聞きたいのは……幹彦さん、あなたの望みなんです」 「………………」 「先生は、どう望んでいらっしゃるのか――それが聞きたい」 「難しい質問ですね」 彼はそう言うと、少し困ったような顔をした。 確かに、彼にとっては難しいことなのかもしれない……でも。 「はっきりとはわかりませんが――」 「はい」 「君を手放すというのは、不可能なことです。 どのような形であれ、君に触れていたい。君と繋がっていたい。 ……これでは、答になりませんか?」 「いいえ……十分すぎるほどです」 先生は、狡い。 面と向かってこんなことを言える人なのだ。 でも、言われたほうはどうすればいい――? 「要君? 泣いているのですか?」 どう答えていいものかわからず、要はただ、唇をかさねた。 椅子に座った彼に、凭れかかるようにして。 舌をからませ、息苦しくなるほど時間をかけて。 離れた瞬間、かくりと膝が折れるままに、彼の前に跪いた。 そして、前をくつろげて探りあて、含む。 底のないような、静寂。 まるで密やかな儀式のように手の中のものを育てあげながら、要は時折、彼を仰ぎ見た。 ――窃み視た。 「…………っ」 ほんのわずかの息づかいの乱れが、嬉しい。 「先生……」 「はい……要君」 さらさらと零れ落ちるそれは、砂なのか。 月が落とす光なのか。 儚げな眸の光を見たとき、要はまた不安にかられた。 掬い上げても、指の間からさらさらと零れていってしまう時間。 留めおくことのできない、月の光。 「先生!」 置いていかれる――。 閃光のように、不吉な予感が駆け抜けた。 「どうしました?」 「なんでも…………ありません」 一刻も早く、この不安を埋めたい。 確かな温もりを、熱さを感じたい。 要は、育ちきったそれに、自ら腰を落とそうとした。 「要君……そのままでは、君が辛いですよ」 「いいんです」 「では――せめて、これをお使いなさい」 そう、机の抽斗から軟膏を取り出し、手渡してくれる。 「今夜の『花喰ヒ鳥』さんは、随分とお優しいんですね」 「さあ……それはどうでしょう」 彼は、小さく笑って要の言葉をかわし、指先に軟膏をすくいとった。 「…………つめ……た――!」 「直に馴染みます」 今のような関係になる前も、何度かこうしてもらったことがある。 今になって思えば、あれは、ゆるゆると時間をかけて焦らされていたのではないか。 薔薇の下のあの晩を、鮮やかに思い出すように。 自ら、その続きを求めるように。 しかし、無慈悲な彼は、接吻をすら許してはくれなかった。 それが今では、どちらも……こんなに容易に叶う。 「つきむ…………せんせ……」 「要――」 天鵞絨の声音に、そっと肌を撫で上げられながら、要は彼にしがみついた。 無意識に腰を揺らめかせ、溺れる者のように救いを求めてすがりついても、足りなかった。 遠く近く、寄せてはかえす波の音。 寄せてはかえす翳の波――――。 「翳」はもう、手の届くところまで来ている。 銀の砂粒は、零れゆくばかり。 「………………っあ、あ、あ……あ……ふ――……もう」 それでも、放したくない。 零れ落ちる砂の、一粒のこらず。 月の光の、一筋のこらず。 この腕の中に、留めておきたい――この愛しい、誰よりも無垢な人を。 |
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気づくと、要は元の寝台に寝かされていた。 薄あかりの中、覚えたばかりの慈愛に満ちたまなざしが要をみつめていた。 「すみません……また、先生に無理をさせてしまいました」 「そんなことはありませんよ」 「もう、夜が明けてしまう。少しでも眠らないと。昼には水川先生がいらっしゃるんですから」 「レイフが?」 「ええ……。さすがは探偵作家さんです。電話で開口一番、『見つけた』って」 「名も名乗らずに?」 「もちろん。あの声を聞けば、すぐにわかりますけどね」 「確かに」 「さあ。もうひと眠りなさってください。そろって眼が赤くては、水川先生が妬きますよ」 そう言うと、彼はやわらかに微笑んだ。 もう間もなく訪れる、朝の光のような笑みだった。 |
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