Reserved seat |
魂まで抜けていきそうな長いため息をつくと、抱月はペンを置いた。 今日はひどく冷える。 さすがに火鉢を入れても寒いからと、土蔵で書こうとするのを止めたのは正解だった。 珍しく筆が進んだらしく、卓袱台に広げた原稿用紙は、いつの間にか結構な枚数になっていた。 脇に置いてある小皿には、もう何も載っていない――つい先程、餡餅をひと山、作ってやったばかりなのだが。 茶でも淹れてきてやろうか……。 繕い物の手を止め、立ち上がろうとすると。 大島の袖からのぞく白い腕が、おいでおいでをした……ふりかえりもせずに。 何か用事があるのかと思ったが、何も言わないところをみると、そうでもないらしい。 とりあえず、抱月の傍に腰をおろし、繕い物の続きを始めようとした。 すると。 「あーー…………駄目駄目。そこは僕の場所だよ」 座る場所がまずかったかと脇へずれようとすると、抱月は寝ころびざま、俺のシャツの端をつかんで止めた。 「おい」 抱月という男は、時々何をしたいのかわからないことがある。 繕い物の途中だ。下手をすれば針が刺さるだろうに。 「ねえ、土田君」 「どうした」 「繕い物なら、いつでもできるよ。 それよりさ、いつも繕い物やら皮をむいてるじゃが芋やらに占拠されてるその場所、 今だけ僕に空けてくれる気はないかい?」 「………………場所?」 「うん。君の膝」 一瞬、言葉につまった。 「――――あのな」 「何だい?」 「どうしてあんたは、真顔でそんな台詞が吐けるんだ」 「さあ。どうしてだろうねえ」 くすくすと笑いながら、こちらを見つめる。 「まったく」 「でも、ひとつだけ言えることは……誰にでもこんなこと言ってるわけじゃないってこと」 軽く目配せすると、抱月は俺の手から繕い物をとりあげ、空いた「場所」に頭をのせた。 あっという間の、驚くほど自然な動きだった。 そして、「してやったり」と書いてあるような笑み。 ………………仕方ない。 この笑みには、未だかつて勝てたためしがないのだ。 繕い物はあきらめ、しばしつきあうことにする。 「たまには、こういうのも新鮮でいいだろう? こんなに近くから君の顔を見上げるのなんてそんなにな……………………くもないか」 もっと近い時のほうが多かったっけ――と意味ありげに笑う。 とたん、その「時」のことが鮮やかに蘇った。 腕の中で、跳ねる鼓動。上気した頬。誘う眼。軽くひらいた唇からのぞく、熱い舌。吐息…………。 「土田君? 顔が赤いよ?」 確信犯の笑みが、甘くくすぐる。 「だから……あんたはどうしていつもそう――!!」 「だって君って、揶揄うと楽しいし?」 「………………」 「あ。黙っちゃった……。たまにはいいじゃない。朝から机にはりついて、一篇書き上げたんだよ? ちょっとは息抜きさせてくれたって罰は当たらないと思うんだけどねえ」 「ならば、隣に布団を敷――」 「ここがいい」 きっぱりと言い切った。 「男の堅い膝など、そう寝心地がよいとも思えんが」 「そうでもないよ」 人の膝を占領して、抱月はすっかり上機嫌だ。 「……そうか」 「ここで、土田君が子守唄でも歌ってくれたら、もっといいんだけど」 「俺は歌わん」 「……思い浮かぶねえ」 「……? 何がだ」 「優しい君のこと、弟妹を寝かしつけながら歌ってあげたりしたんじゃないかい?」 「……昔はな」 「へえ、やっぱり!!!」 抱月の瞳が輝いた。 言わなければよかった、と心の底から後悔してももう遅い。 「昔のことだ。最近は……寮歌ぐらいなものか」 「子守唄にはいささか不向きだけど、いいね。懐かしいよ」 「そんなものか」 「歌っていうのは、歌そのものだけじゃなく、その瞬間に見ていたものも思い出されてくるからね。 ストームなんかも楽しかったねえ。切り込み隊長やって、騙しうちで先輩の部屋を襲撃してやったり してね。華々しい戦果をものにしたもんだよ」 「戦果?」 「主に、先輩秘蔵の酒やら、いかがわしい本やら。そんなぶんどり品だね。 その日の夜は英雄扱いだったっけ」 「物騒な後輩もあったものだ」 「あはは。でも楽しかったよ」 「だろうな」 もちろん見たことはないが、容易に想像がつく。 この外見に、人当たりのよい性格だ。さぞや、華々しい学生生活を送っていたことだろう。 …………あんなことがあるまでは。 「僕は……後悔はしていないよ。 今にして思えば、もっといい方法があったろうとは思うよ。 でもあの時の僕には、あれが精一杯だった。 あのころがあって、幹彦に出会って、あんな別れ方をして……。 そのうちのどのひとつが抜けても、現在のこの僕は存在しないんだ。不思議じゃないかい?」 「そうだな」 「幹彦のことがなければ、僕はきっとこの家は借りなかった。 そうしたら、土田君、君にも会えなかったかもしれないね」 「………………」 「何もかもがよりあわさって、今が出来ている。だから君も、今を大事におし。今こうして――」 抱月の手が、ほんの一瞬だけ俺の頬に触れた。 名残を惜しむように、離れる。 「――こうして君と、なにげないひとときを一緒にいられることも、二度とは手に入らない儚い幸せかも しれないからね」 一瞬、空色の瞳が逸らされた。 想いを噛みしめるようにゆっくりと伏せられ、再びひらく。 ほんの一瞬が、ひどく長く感じられた。 「…………俺は、そうは思わん」 「どうしてだい?」 「儚いものにするかどうかは、当人が決めることだ。それに――」 「それに?」 「よりあわさって出来た未来に、今のこの時が関わっているのならば、俺はきっと後悔しない」 口をついて出た言葉だった。 しかし、これを聞いた抱月は、目を丸くしている。 「へえ…………驚いたねえ」 「何がだ」 「口下手だ、不器用だ、なんて言う君が……なかなかどうして」 「………………?」 「そんな殺し文句を口にするなんてさ」 「ころ…………俺はただ…………!!」 「あはは。そういうところがまたいいねえ」 「………………!!」 「はいはい。大人しく寝るから。 ちょっとばかり重い繕い物だと思って、この膝、もうしばらく貸しておいておくれ」 やはり疲れていたのだろう。しばらくすると、抱月は寝息をたてはじめた。 このままでは寒いだろう、と思いつつも、掛けるものを取ってくるわけにもいかない。 仕方なく、先程まで縫っていた抱月の浴衣をたぐり寄せ、糸を歯で切って針をよけた。 そして、起こさないようにそっと掛けてやる。 無防備な寝顔を眺め、規則正しい寝息を聞いているうち、こちらも眠くなってきた。 なにげない、かけがえのないひとときは、こうして過ぎていった。 |
END |