R / J   side K
 
煙草は買った。

酒も、とっておきのがまだ残っているはずだ。

そして何より…………「これ」。

今の俺は多分、これのために生きている……。

などと言ったら、言いすぎかもしれないが。

ようやく寒くなりはじめた、冬の昼さがり。

今ごろ、教室ではあのいまいましい教授が、教える気のかけらもない授業をしていることだろう。

どうせ、聞いている物好きは、よほどの生物馬鹿か土田くらいなものなのに。

……いや。例の一件があってからはその土田も怪しいか。

ともあれ俺には、あの男の授業などに出てやる気はさらさらない。

最低限、試験の時にでも出ればすむことだ。

――早く開けたい。

はやる気持ちをおさえながら、倉庫へ向かう。

途中、薔薇の木の前を通り過ぎる。

――何だ……いないのか。

ぽつりとこぼれた言葉に、我ながら愕然とした。

今、俺はがっかりしなかったか?

………………断じて違う。

俺は、「作品」のフアンなのだ。

あいつ本体に関しては、あきれ果てた、ねじくれ曲がった厄介な男だとしか思ってはいない。

特に今は会いたくない。……絶対に。

こんなものを大事に抱えて、いそいそと歩いていることを知られたら、ここぞとばかりに馬鹿に
されるに決まっている。

 
結論から言おう。

俺は、油断した。

肝腎なことを忘れていたのだ。

人の意表をつくことにすべてを賭けている……それが信条だ、ということを。

…………誰の?

それは勿論、目の前で長々と寝そべっているこの男のことに決まっている。

倉庫の薄汚れた扉を開けるなり、異様なものが目に飛びこんできた。

木箱の蔭……いつも、俺が物を書いているあたり。

その場の空気から明らかに浮いたものがあった。

本などでは何度も見たことがあるが、絶対にここにあるはずのないもの。

半円形の…………いやに時代がかった帽子だ。

その帽子が、突然持ち上がった。

「あ、金子君」

間の抜けた声。

眠い目をこすりながら、顔にかぶせていた帽子を振ってみせる。

「どうして貴様がここにいる。それに、その頓狂な帽子は何だ」

「演劇部の衣装か何かだね、きっと。
 ナポレオン=ボナパルト。……どう? 似合う?」

ナポレオン……。

俺は、深いため息をついた。

確かに、似合ってはいる。ナポレオンというよりは放蕩貴族だが。

しかし、首から下はいつもの大島だ。……無国籍にもほどがある。

「あ、非道いなあ。ため息つかなくったっていいじゃない」

「……あのな――」

どこからつっこんだらいいものか。

「そんなことより、最初の質問に答えろ。」

「え?」

「どうして貴様がここにいる、と訊いたんだが」

「答えたよ」

「…………?」

「薔薇の下って寒いから。ナポレオンも冬将軍には勝てなかったっていうしねえ」

どっと疲れる。

「寒いなら、何もここにくることはないだろう。とっとと家に帰れ」

「相変わらず、つれないねえ金子君」

「黙れ」

せっかく、新作を読もうと思ったのに。

ここなら、誰にも邪魔されないと思ったのに。

よりによって、その作者本人がわざわざ、邪魔しに来ようとは。

「大体、部外者のお前がこんな所に入りこんで、誰かに見つかったらどうする気だ」

「そうだねえ。要君でもつかまえて、事情を話してもらうかな」

にやっと笑って、言い放った。

…………もう知るか。勝手にすればいい。

「不愉快だ。俺は帰る。好きにしろ」

「まあまあ。そんなに怒らない怒らない。人間、余裕ってものも大切だよ?」

どのツラをさげて、そんなことを言うのか。

ますます、腹が立ってきた。

「貴様の場合は、余裕しかないだろう」

「嬉しいねえ。最高の誉め言葉だ」

「つきあってられん」

「帰るのかい?  どうしても?  なら、仕方ないね。
 せっかく面白いものみつけたのに」

「面白いもの?」

「気になる?」

「…………まさか貴様、俺の原こ――!!」

言いかけて、あわてて自分の口を塞ぐ。

違ったら、墓穴だ。

「げんこ?」

ふふん、と繁が笑った。

「どうやら、もっと面白いものがあったみたいだね。
 残念ながら、違うよ。金子君、ちょっと」

「?」

手招きされるまま、寄っていくと。

ばさっ。

頭の上に、何かが降ってきた。

何だこれは。

後ろに、編んだ黒髪……………………カツラだ。

明らかに女物。

「へえ、よく似合うじゃない」

繁の声に、我にかえった。

すぐさまカツラをむしりとり、たたきつける。

「一体、なんのつもりだ!」

「はい。ここで文学青年の君に問題。これは、何役のカツラでしょう?」

にやにや笑いながら、繁が言う。

この男が何を考えているかはともかく、試されて答えないのはしゃくだ。

「決まっている。……ジュリエットだろう」

「当たり。簡単すぎたかな。さっき、この帽子のあった箱の中に入ってたの見つけて、
君に似合うんじゃないかと思ってね」

「冗談じゃない。俺は女役は御免だ!」

「ええ? だけどさ。君じゃ駄目だよ」

「何がだ」

「君がロミオだったとしたら、薬で仮死状態になってるの見破れないから」

「…………?」

「考えてもごらん。目覚めたら君が横で死んでるんだよ?
そんなの最高に寝覚めが悪いじゃない。僕はやだよ」

「ちょっと待て。何でよりにもよってジュリエットが貴様なんだ!  
 そもそも、それなら、誰が後追いなんてしてやるか!」

「非道いねえ。ちょっと傷ついたよ」

「知るか! 大体、筋書きとしては見破れないままなのが正しいだろう」

「それはそうなんだけどねえ」

「じゃあ、100歩譲って、貴様がロミオだとしたら、あの場面はどうなる?」

「あの場面?」

「バルコニーのだ。有名な」

「……ああ。あれね。何故あなたはロミオなの……って?」

「そうだ。お前の台詞は?」

「 『お望みなら、レイフって呼んでくれても構わないけど?
             ときに君、ちょっと僕とかけおちしてみない?』 」

……これだ。

「……………………貴様は!!!!  そんな気やすいロミオがいてたまるか!」

「ええ? 駄目?」

「当たり前だ」

「だって、まどろっこしいから。僕だったら、さっさとさらって逃げちゃうけど」

「悲恋の名作にならんだろう、それでは」

「………………で」

「?」

「ジュリエットは結局、僕を何て呼んでくれるのかな?」

「――――は?」

突然何を言い出すんだ、この男は。

いつもの冗談だと思ったが、そうでもないらしい。

「気がついたら僕、君にまともに名前を呼ばれたためしがないんだよね」

しょげられると鬱陶しいことこの上ないので、しぶしぶ呼んでやる。

「…………水川抱月」

「はぁい……………………じゃなくってね」

「他に何がある」

「僕の場合、選択肢は人より多いはずなんだけど……少なくともロミオよりはね」

「あいにくだが、俺は抱月以外は認めん」

「…………あ、やっぱり?」

「レイフ、というのは悪くない名だが、いかんせん手垢がついている」

「手垢?」

「嫌な奴の顔が浮かぶ」

「ああ、幹彦のこと?」

「その名を口にするな!  験が悪い」

「何もそこまで嫌わなくったって…………じゃあ、」

「繁、は言語道断だ。
 間の抜けた、素の貴様を指した名だからな」

「ひどい言われようだねえ」

「俺は事実を述べただけだ」

「……………………」

「なんだその目は? 何か文句があるか?」

「文句じゃないけどねえ」

「ならばなんだ」

「倦怠期の妻みたいだからさ」

「……………………はあ?」

いきなり、何を言い出すんだ、この男は。

「‘おい’、‘お前’、‘貴様’…………君が僕を呼ぶときの名前」

「………………あのな。
 だから俺は、水川抱月と呼んでやっているだろう。何が不服だ?」

 本当に鬱陶しい。

 そしてまた、これが大の男ふたりの会話なのだから、余計に始末が悪い。

 
「あのねえ、金子君」

呆れ顔とふてくされ顔の中間のような顔。

声のトーンが一段下がった。

どうやら、機嫌を損ねたらしいことはわかる。

その焦点が、呼び名の問題であるらしいことも。

……しかし。

それなら、どう呼べばいいというのだ。

甘えた声で、「レイフ」などと呼んでほしいとでも……?

断じて御免だ。気色が悪い。

そんなものは、要にでも頼めばいい。……随分ご執心のようだし?

要なら、照れながらもそのくらいはやってくれるだろうし!

だんだん腹が立ってきた。

「何だ?」

答える声にも、棘。

「君はホントに、わかっちゃいないねえ」

「何がだ」

「確かに、水川抱月、っていうのも僕の名前だよ? 自分でつけた筆名だから、思い入れは
 もちろんあるし。……でもね?」

「はっきり言え」

「僕を呼んでくれてるのかな……と思って」

「…………は?」

「憧れていてくれたのは、もちろん嬉しいよ。ちょっとくすぐったいけどね。
 でも、それは、本当に僕なのかな」

「………………!」

そう言われて、どきりとした。

確かに、「水川抱月」は俺にとっては特別な存在だ。

あるとき、ふとあらわれ、そのまま心の片隅に棲みついてしまったような。

でもそれは、小説家としての姿だ。

現に、「みずかわほうげつ」と口に出すときに浮かぶのは、見慣れた活字の字面だ。

ならば、目の前にいるこの男は?

認めたくはない。

断じて、認めたくはない………………………………が。

が。

――ええい。どうとでもなれ。

そのとき、俺の中の何かが、音をたてて切れた。

ずい、と近づき、足を崩して座っていた繁を無理矢理、押し倒した。

「うわ…………っ、ちょっと、金子君?」

「うるさい」

長すぎるほど時間をかけた口づけ。

舌をからめとられ、危うくもっていかれそうになるが、なんとか踏みとどまった。

乗り上げるかたちになったまま、繁を見下ろす。

すでに困惑の色はなく、余裕の表情すら浮かべている…………こいつは。

「ロミオに襲いかかるジュリエット――斬新だねえ」

「あいにく、ここは俺の領域だ。ずかずか入ってくる貴様が悪い」

「……やれやれ、また?」

「?」

「‘貴様’」

「言葉のあやだ!」

「あ…………そう。努力はしてくれるわけだ。じゃあ、何て呼んでくれるわけ? ねえ」

わくわくした瞳でこちらをみつめる。

…………子供だ。ガキがここにいる。

試みに、ポチとでも言ってやろうか。今なら返事をするような気がする。

「………………………………考えておく」

「期待してるよ」

そう言うなり、繁が勢いよく起き上がり、あっという間に体勢を入れかえられた。

ふいうちだ。

「卑怯だぞ!」

「なんとでも?  最初は君の好きにさせてあげようって思ってたんだけどね」

「けど何だ」

「魔が差した…………っていうのかな。君が急に可愛く思えちゃってね」

耳元で囁かれ、ついでに舌を入れられて鳥肌がたつ。

一気に身体が熱くなる。

だがちょっと待て………………‘魔が差した’だと??

「馬鹿にするな……………………!  待て……! きさ――」

要らぬところで器用な手が、あっという間に衣服の釦を外して忍びこんでくる。

何の前ぶれもなしに、口に含まれ、空いた手が後ろを辿る。

細い指と同じくらい巧みな舌で弄られ、意識が飛びそうになる。

「……も…………放せ…………っ!」

とは言っても、放してもらえるわけはない。

ふり払おうとする手は無視され、あっという間に追い上げられた。

繁は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、これ見よがしに手の甲で口元を拭ってみせた。

そのまま、当然のように次の段階に及ぼうとする。

それが何だか、妙にしゃくにさわった。

俺は、ぐっと押しかえすと、繁の着物の前に手をかけて、勢いよくはだけた。

「おやおや、大胆だねえ」

「俺だけ好きにされているのは趣味じゃない」

「へえ? そう、ふ〜〜ん」

「鼻で笑ったな…………馬鹿にするな!」

「別に馬鹿になんか……って、え? 金子君……ちょっと」

腹が立ったので、先程繁がしたことと同じことをやり返してやった。

相変わらず、無駄にご立派なので少し、骨が折れたが。

ふと顔を上げると、眉を寄せた繁の顔が見えた。

自然に出てしまう声を、こらえようとしているらしい……そうはさせるか。

「……あ、こら、金子く……!」

いつもとはうって変わった、余裕のない表情。

これを見てやりたかった。

……妙に色っぽいのが気にくわんが。

直前まで追い上げておいて、俺は自ら腰を落としていく。

「…………っ、く」

目の前に、上気した繁の顔がある。

底まで透けて見えそうな、空色の瞳。

俺のものだ……と思った瞬間。身体の内を、ずくんと何かが走った。

「っ、ああ!」

座った繁にすがりつくような形で、自然に身体が動く。

うわごとのように、自然に声がこぼれ出てしまう。

「あ、―――!」

自分の声が、何かを叫んだ……らしい。

「……金子君」

囁きとともに何度も突き上げられる。

いつにない激しさに、何もかもが消し飛んだ。

 
さすがに、少し無茶をしすぎたらしい。

目を覚ますと、繁はいなかった。

上掛け代わりにかけてあるのが、学生服なところが、逆に淫靡な感じがする。

頭の芯がぼやけた状態のまま、のろのろとそれを羽織る。

立ち上がろうとしたとき。

いつも机代わりにしている木箱の上に、とんでもないものを見つけた。

――――俺の原稿……!!
本の山の中に隠してあったはずなのに。

…………あいつだ。

知らないふりをしておいて、盗み読むとは。

投稿するつもりで二の足を踏んでいた小説だ。……それなりに、自信もあった。

でも、「水川抱月」に読まれたとなると、話は別だ。

顔から火が出る。

あわてて原稿を隠そうとしたその時、俺は妙なことに気づいた。

原稿の頁の順が違う。

よく見れば、章の数字に線が引いてあり、横に別の数字がふってある。

見覚えのある字。「水川抱月」の字だ。

もはや条件反射のように、俺は原稿を読んだ。

第三章だったところが、いきなり冒頭に来ている。

序章がふたつに分けられ、心理描写の間にうまく差しこまれている。

「これは…………!」

驚いた。

章の順を変えただけだ。

あとは何も、手を加えていないというのに、まるで、違う原稿を読んでいるようだった。

それに、展開としても斬新だ。

今回はしてやられた。……いろいろと。

しかしいくら水川抱月といえども、人の原稿を盗み読むのは感心しない。

――――俺もやったことがあるが。

「粗悪な模造品」………………嫌なことを思い出した。

分厚い封筒に封をしながら、俺は思った。

俺は模造品にはならない。

いつか、あいつも驚くような作品を書いてみせるつもりだ。

倉庫の扉を開け、歩きだした。

ひとつは、この原稿を出してくるために。

もうひとつは、あの底意地の悪い男に、文句をつけに行くために。

モドル