R / J  side M 
 
………………寒い。

さすがに、何か羽織ってくればよかったかな。

しっかりとした仕立ての大島とはいえ、寒いものは寒い。

衿元から冷たい風が入りこんでくるし。

いっそ帰って、土蔵の火鉢で暖をとろうか。

お餅なんか焼くのもいいな…………と思いながらも、何故かここにいる。

寒くなりはじめた薔薇の木の下。

我ながら、酔狂というほかない。

通りかかるかどうかもわからない、気まぐれな相手を待っているなんて。

しかも、会ったら会ったで、出会い頭に怒鳴りつけられるか、鼻で笑われるか……。

まったく、何であんな偉そうなガキが気になるんだか。

僕はひとり、苦笑した。

――やっぱり、帰ろうかな。

何度目かのつぶやき。

あきらめて、一歩ふみだす。

待てよ。

――そうだ。

待ちぶせなら、もっと確実な所があった。

 
倉庫の、薄汚れた扉を開く。

少しほこりっぽい空間に、どこからか薄明かりが差しこんでいる。

木箱。書き割りの木。

そして、無造作に積まれた本たち。

ポオとかカーなんかの、いわゆる本格もの。

おどろおどろしい題名の、猟奇もの、探偵もの。

そして、雑然とした中にそれだけ別に置いてあるのは…………。

見慣れた、というか装丁にまで口を出した本の数々。

――わかりやすい子だね、まったく。…………なんだか照れる。

ここは、金子君の領域なんだ。

例えるなら、僕の土蔵みたいな。

本来なら侵しちゃいけない聖域なんだろうけど、金子君もずかずか入ってくるから、
おあいこ……ということにしよう。

ここで待っていれば、きっと来るだろう。

僕には確信があった。

何故かって………………発売日だから。

原稿が出来たそばから読むくせに、必ず買ってくれるのは嬉しい。

書いた本人も覚えていない、こまごまとした所までしっかりと覚えているし。

作家冥利につきるというものだ。

まあ、ここで待つとして。

…………ただ待つのも暇だなあ。

ここにある本はほとんど家にあるし。

――あれ?

木箱のひとつから、面白そうなものが覗いている。

西欧の……羽帽子?

何かの演し物の衣装だろうか。

近寄っていって、被ってみた。

他にもいろいろとある。バイキングの帽子やら、がらくた一歩手前の小道具やら。

怪しげな付け髭とか、ぺらぺらな王冠とか。

うん。なかなか面白いじゃない。

おもちゃ箱をみつけた子供のように、心が躍った。

王冠を頭にのっけて、きどってみたりして、ひととおり楽しんだ。

鏡がないのが惜しい。……さぞや滑稽な格好をしているだろうに。

ここにもし、誰かがやって来たら、不審者としてつきだされたとしても文句は言えない。

…………などと思っていたら。

足音。

ああびっくりした。寿命が縮まるよ。

自信たっぷりなあの足音は間違いない。ようやく来た待ち人。

でも、いかにも待っていたと思われるのはしゃくだ。

とりあえず、たまたま手にしていた帽子を顔にかぶせて、寝たふりをすることにした。

 
いつまでも反応がないので、帽子の蔭から覗いてみると。

金子君は、扉を開けたまま固まっていた。

仕方がないねえ。

「あ、金子君」

いかにも、今起きたばかりというふうで、帽子を振ってみせた。

「どうして貴様がここにいる。それに、その頓狂な帽子は何だ」

「演劇部の衣装か何かだね。きっと。
 ナポレオン=ボナパルト。……どう?  似合う?」

帽子の蔭からウインクしてみせると、金子君は深いため息をついた。

心の底から呆れ果てたみたいに。

「あ、非道いなあ。ため息つかなくたっていいじゃない」

「……あのな――」

大袈裟に頭をかかえて、金子君が続ける。

「そんなことより、最初の質問に答えろ」

「え?」

「どうして貴様がここにいる、と訊いたんだが」

ああ。そういうこと。

「答えたよ」

「…………?」

「薔薇の下って寒いから。ナポレオンも、冬将軍には勝てなかったっていうしねえ」

……ほんとは、偶然手にしてただけなんだけどね。

「寒いなら、何もここにくることはないだろう。とっとと家に帰れ」

「相変わらず、つれないねえ金子君」

「黙れ」

やれやれ。

あわてて鞄に隠した紙袋の中身が何かぐらいは、もうお見通しだよ?

だから邪魔しにきたんじゃない。

腐っても水川抱月……僕をあんまりみくびらないほうがいいと思うけどね。

「大体、部外者のお前がこんな所に入りこんで、誰かに見つかったらどうする気だ」

心配してくれた……わけじゃないね。きっと。

僕がここにいると具合が悪いんだ。

じゃあ、こっちもちょっとぐらいは仕返しさせてもらおうかな。

「そうだねえ。要君でもつかまえて、事情を話してもらうかな」

要君、というところをわざと強調する。

おやおや。

面白いくらいに顔色が変わった。やっぱり、これは効くね。

どうせ、幹彦は笑ってるだけで弁護なんかしてくれやしないだろうし、

……って、そのくらいの意味なんだけどね。

この反応をしっかり楽しんでいるあたり、我ながら意地が悪い。

「不愉快だ。俺は帰る。好きにしろ」

ちょっと悪戯が過ぎたかな。

「まあまあ。そんなに怒らない怒らない。人間、余裕ってものも大切だよ?」

「貴様の場合は、余裕しかないだろう」

うん。言いえて妙だ。さすが金子君。

「嬉しいねえ。最高の誉め言葉だ」

「つきあってられん」

ええと。こういう場合は…………。

そうだ。

「帰るのかい?  どうしても?  なら、仕方ないね。
 せっかく面白いものみつけたのに」

「面白いもの?」

あ。釣れた。

「気になる?」

もったいぶってみる。これも策略のうち。

「…………まさか貴様、俺の原こ――!!」

あれ?  おまけつき?

いいこと聞いちゃった。

あわてて誤魔化そうとする金子君の視線の先を、何気なくたどる。

本の山。

……なるほどね。木を隠すなら森に、手紙を隠すなら状差しに……だね。

でもまだまだだよ。My Dear Watson……じゃなくって、My Dear光伸、かな。

これは後のお楽しみにとっておくとして。

とりあえずは、とぼけてみるかな。

「げんこ?」

「どうやら、もっといいものがあったみたいだね。
 残念ながら、違うよ。金子君、ちょっと」

ふと思いついて、さっきの箱をひっくりかえしてみる。

あった。これこれ。

珍しく素直に近づいてきた金子君の頭にかぶせて……と。

あっという間に、黒髪の美女の出来上がり。

なかなかどうして、よく似合う。

高貴な令嬢、っていわれても納得するよ。

ちょっと、目つきに険があるのが玉に瑕だけど。

「へえ、よく似合うじゃない」

この一言で、きょとんとしていた金子君が我にかえってしまった。

「一体、なんのつもりだ!」

あああ、そんなに思いっきり叩きつけなくても。

黙ってれば一級品なんだけどね。

しょうがない。

「はい。ここで文学青年の君に問題。これは何役のカツラでしょう?」

「決まっている。……ジュリエットだろう」

即座に返ってきた。このへんが金子君らしい。

君の負けず嫌いに乾杯。……下戸だけど。

「当たり。簡単すぎたかな。さっき、この帽子のあった箱の中に入ってたの見つけて、
君に似合うんじゃないかと思ってね」

「冗談じゃない。俺は女役は御免だ!」

十分過ぎるほど、似合ってると思うんだけどなあ。

凄みのありすぎるジュリエットだけど。

「ええ?  だけどさ、君じゃ駄目だよ」

「何がだ」

「君がロミオだったら、薬で仮死状態になってるの見破れないから」

「…………?」

「考えてもごらん。目覚めたら横で君が死んでるんだよ?
 そんなの最高に寝覚めが悪いじゃない。僕はやだよ」

「ちょっと待て。何でよりにもよってジュリエットが貴様なんだ!
 そもそも、それなら、誰が後追いなんかしてやるか!」

そこまで言わなくっても。

「非道いねえ。ちょっと傷ついたよ」

「知るか! 大体、筋書きとしては見破れないままなのが正しいだろう」

「それはそうなんだけどねえ」

「じゃあ、100歩譲って、貴様がロミオだとしたら、あの場面はどうなる?」

「あの場面?」

「バルコニーのだ。有名な」

「……ああ。あれね。何故あなたはロミオなの……って?」

「そうだ。お前の台詞は?」

最初は馬鹿にしていたのに、いつの間にか熱くなってる。

飽きないねえホントに。

僕は、こみあがってくる笑いを噛み殺しながら、思い浮かべた。

バルコニーにいる、美しいが生意気なジュリエット。

見上げる僕。

台詞は、簡単に思いついた。

「 『お望みなら、レイフって呼んでくれても構わないけど?
             ときに君、ちょっと僕とかけおちしてみない?』 」

よじ登って、かっさらってくのも面白いねえ。

「……………………貴様は!!!!  そんな気やすいロミオがいてたまるか!」

あれ?  お気に召さない?

「ええ?  駄目?」

「当たり前だ」

「だって、まどろっこしいから。僕だったら、さっさとさらって逃げちゃうけど」

「悲恋の名作にならんだろう、それでは」

ロミオ…………ねえ。

今思ったけど、彼は名前があるだけましだ。

嫌なことに気がついた。

で、僕はためしに、それをそのまま、ぶつけてみることにした。

「……………………で」

「?」

「ジュリエットは、僕を何て呼んでくれるのかな?」

「――――――は?」

きょとんとしている。

「気がついたら僕、君にまともに名前を呼ばれたためしがないんだよね」

「…………水川抱月」

「はぁい…………………………じゃなくってね」

やっぱり。

「他に何がある」

「僕の場合、選択肢は人より多いはずなんだけど……少なくともロミオよりはね」

「あいにくだが、俺は抱月以外は認めん」

「………………あ、やっぱり?」

ちょっとがっかり。

「レイフ、というのは悪くない名だが、いかんせん手垢がついている」

「手垢?」

「嫌な奴の顔が浮かぶ」

「ああ、幹彦のこと?」

「その名を口にするな! 験が悪い」

よっぽど、あの店での一件がこたえたらしいね。

僕は結構、楽しかったんだけど…………。

なんて言ったら、殴られるかな。

まあいいことにしよう。だって、「悪くない」は君の最上級の賛辞だって知ってるから。

「何もそこまで嫌わなくったって………………じゃあ、」

「繁、は言語道断だ。
 間の抜けた、素の貴様を指した名だからな」

繁はどう?  という前に台詞がかぶってきた。

「ひどい言われようだねえ」

「俺は事実を述べただけだ」

「…………………………」

「なんだその目は?  何か文句があるか?」

「文句じゃないけどねえ」

「ならばなんだ」

「倦怠期の妻みたいだからさ」

「……………………はあ?」

「‘おい’、‘お前’、‘貴様’…………君が僕を呼ぶときの名前」

「………………あのな。
 だから俺は、水川抱月と呼んでやっているだろう。何が不服だ?」

 
不服だね、大いに。

せめて、抱月とでも呼んでくれればいいのに。よりにもよって、フルネームだもの。

たぶん、背表紙の箔押しだ。

呼ばれるたびに、活字で聞こえる。

――遠いよ、金子君。

僕は、なにも君に、甘えた恋人みたいに呼んでほしいわけじゃない。

ましてや、レイフなんて呼んでもらえないだろうことは、よおくわかってるつもり。

……ちょっと残念だけど。

でも問題は、呼び方じゃないんだよ。

名前なんて、なんだっていい。

君が僕を、僕だけを指して呼んでくれるなら、どんな間の抜けた名前だって――。

この察しの悪いワトスンには、いちいち説明しなきゃ伝わらないのかな。

 
「あのねえ、金子君」

「何だ?」

うわあ、棘のある声。

「君はホントに、わかっちゃいないねえ」

「何がだ」

やれやれ。

「確かに、水川抱月、っていうのも僕の名前だよ? 自分でつけた名前だから、思いいれは
 もちろんあるし。……でもね?」

「はっきり言え」

「僕を呼んでくれてるのかな……と思って」

「…………は?」

ほらやっぱり、わかってなかった。

「憧れていてくれたのは、もちろん嬉しいよ。ちょっとくすぐったいけどね。
 でも、それは、本当に僕なのかな?」

「………………!」

顔色が変わった。

ようやく、気づいてもらえたかな?

……そう、思っていたら。
「うわ………………っ、ちょっと、金子君?」

「うるさい」

問答無用、とばかり強引に口づけされる。

いきなり押し倒してくるとは思わなかった。

ちょっと驚いたけど、これが君の答えだと思っていいのかな。

乗り上げた形で、金子君が見下ろした。

いつもの白い頬が、紅潮している。

目も、心なしか潤んでいる。

この表情に弱いんだよねえ。実は。

照れ隠しに、まぜっかえしてみる。

「ロミオに襲いかかるジュリエット……斬新だねぇ」

「あいにく、ここは俺の領域だ。ずかずか入ってくる貴様が悪い」

「……やれやれ、また?」

「?」

「‘貴様’」

「言葉のあやだ!」

無意識だったらしい。

「あ…………そう。努力はしてくれるわけだ。じゃあ、何て呼んでくれるわけ? ねえ」

問いつめると、しばらく考えて、

「…………………………………………考えておく」

うつむき加減で、ぽつりと呟いた。

金子君。

君、これ、わざとじゃないなら、…………罪だよ?

「期待してるよ」

もう限界だ。

僕は、勢いよく起き上がって、あっという間に天地をいれかえた。

あぜんとする金子君。

暴れださないうちに、大人しくさせないと。

「卑怯だぞ!」

「なんとでも? 最初は君の好きにさせてあげようって思ってたんだけどね」

「けど何だ」

「魔が差した…………っていうのかな。君が急に可愛く思えちゃってね」

囁き、形のよい耳に舌を滑らせる。

かすかに、金子君が吐息を洩らした。

「馬鹿にするな………………!  待て……!  きさ――」

余計なことを考える時間を与えちゃいけない。

ちょっと性急だけれど、この場合は最上の策。

というわけで、敏感なところを同時に攻めてみる。

「……も…………放せ…………っ!」

放さないよ。

あっという間だった。

僕は、残さず飲み下し、息を乱している金子君を見下ろした。

そして…………。

つれなく、押しかえされた。

…………あれ?

着物の前を、強引にはだけられる。

「おやおや、大胆だねえ」

こういうのも面白い。さて、相手はどう出るか――?

「俺だけ好きにされているのは趣味じゃない」

「へえ? そう、ふ〜〜ん」

「鼻で笑ったな…………馬鹿にするな!」

「別に馬鹿になんか……って、え?  金子君……ちょっと」

そう来たか。

僕にされたこと、そのまま返すつもりみたいだ。

お手並み拝見。

と、しばらくは余裕だったんだけれど。

…………あ、そこはちょっと…………、

まずい。

嫌なところで覚えがいいんだからねえ、この子は。

「……あ、こら、金子く……!」

直前で、放りだされるかと思いきや。

金子君が、自分から腰をおとしてきた。

「…………っ、く」

さっき、十分にならしたとはいえ、少しきつそうだ。

なるべく、辛くないように少し位置を変えてやると、息のかかりそうな距離で目が合った。

とたん、いきなり締めつけられる。

「っ、ああ!」

声をあげながら、腰をゆらめかせている。

少し煽ると。

「あ――――!  し、げ……るっ!!」

…………え?

今、何て?

金子君が、僕を呼んだ。

しかも、選んだのは「素の僕」の名前だ。

いとおしさが溢れた。

どうしようもない、感情の波。

「金子君」

「ふ…………あ――っ!」

「金子君、もっと呼んで?」

「っ、あ…………あ、し……繁……――!!」

 
無理をさせてしまった……と思った。

学生服を、細い裸身に掛けてやりながら。

金子君はきっと、自分が何を口走ったか覚えていないだろう。

でも、これまででいちばん、彼の近くまで行けた気がする。

初めて触れたような、とまどい。

……………………どうも、照れるねえ。

さて。

これから僕は、せっつかれてる原稿を上げないと。

ちょっと悪戯をしておいたけど、金子君、気づいてくれるかな。

待っていればきっと土蔵までおしかけてくるだろう。

そう思いながら僕は、そっと倉庫を後にした。

                                                 モドル