Spiral |
ひとりの人間の目を通してのみ、見える世界。 「彼」の感覚を通してのみ、感じることができる世界――。 子供が生まれて初めて見る世界というのは、きっとそれくらいに眩しく、 鮮烈なものなのだろう、と思う。 曇った眼には、もう決して見ることの叶わない世界だ。 そう。 月村幹彦という男はある意味、ひどく純粋なのだ。 疑うことを知らず、また、自ら拒むということもしない。 そこにあるものを、出来事を、選択することなく受け入れる。 ただ受容して、受け流す。 そこには、なんの感慨も温度も生まれない。そういう男だった。 彼の目の前をただ流れすぎていく、色のない風景の中に、かつての自分もいた。 幸せの只中にいた僕は、それに気づきもしなかったのだけれど。 ――要君から、謝るようにと言われましてね。 ――彼の目を通して見た君は、そういう人でしたので。 「要君が」「要君の」…………。 全てにおいて淡白だった彼の口から、幾度となく繰り返されるこの名前。 「計画」があるのだと聞かされたあの夜から、うっすらとわかってはいた。 ここまで幹彦の心をとらえて放さない彼、五感にも等しいとまで言わしめた彼とは一体、 何なのだろう。 そしてその「五感」は、幹彦をこの先、どう変えていくのだろう。 学生時代の自分が決して踏みこめなかった領域に、彼はいるのだ。 埋めることの出来なかった欠落も、彼ならばあるいは……いや、きっと。 「水川先生? どうかなさいましたか?」 「…………レイフ?」 不思議そうに見つめる、二対の瞳。 教授室に漂う珈琲の香りに、ふと我にかえる。 「…………え? ああ、何でもないよ。このビスキュイ、美味しいなあって思ってね」 「和泉堂のビスキュイですよ。先生、お好きかと思って……用意しておいてよかった」 「へえ、あそこの、高いんじゃないのかい? 悪かったねえ」 他愛ない会話でその場をつくろいつつ、笑みをつくる。 「本当に美味しいですよね、月村先生」 「…………そうですね。要君」 いつになく和らいだ幹彦のまなざしが、彼に向けられている。 それを受け、要もまた微笑む。 ごく自然なそのやりとりを横目に見つつ、少しばかり苦すぎる珈琲をすする。 この奇妙な「腐れ縁」。 千々に乱れる感情がある。 だが同時に、妙に冷えた眼で見つめる自分がいる。 ……あるいはそれは、作家としての好奇心であるかもしれない。 幹彦の「計画」はどうやら、成功しつつあるらしい。 月に蝕まれていく、陽の光。 そのようにみえて、実は月もまた日に隷属しているにすぎない。 陽の光なくしては、月が輝くことはかなわないのだから。 この病んだ心には、陽の光はあまりに清冽にすぎる。 哀しいかな、昏い水面には、毒を孕んだ月の光こそが美しく映ってしまうのだ。 互いに影響しあい、共鳴しあい、彼らは一体何処へ行くのだろう。 そして僕は…………。 「要君」 思い出したように、呼んでみる。 「はい?」 彼は、いつもの調子で明るく答えた。 出会ったころと何も変わらないようにさえ、見える。 幸福な――錯覚。 久方ぶりに出会った友人とその生徒が、昼下がりのひとときを楽しんでいる。 わだかまりのひとかけらさえなく……。 そうであったなら、どんなに楽だろうか。 「何ですか? 水川先生」 「………………おいで」 要君は、ちらりと幹彦を見やると、ためらいもなくこちらへ来た。 腕を開いてうながすと、僕の膝の上に腰をおろしてくる。 柔らかなその髪を撫で、そっと抱き寄せた。 唇を重ねるでもなく、他の何をするでもなく。 ただ……抱きしめた。 幹彦から離れ、元に戻ってほしいなどという虫のいい願いはない。 自分自身、もう元へは戻れないのだから。 僕たちはもうすでに、後戻りはできないところまで歩いてきてしまったのだ。 道は、どこまで続いているのかわからない。 目の前にひろがるのは、崖かもしれない。それでも……。 この愛おしい同胞を扶けるのは、僕の役目だ。 嘘だけはつかない幹彦が、初めて愛しいもののためにしていること――。 それを信じてみるのも悪くない。 喜んで手を貸すよ。そして、見届ける。 どうせなら、最後まで。 絶望の果てにさえ、何かがあるのだと思わせてくれる彼のために。 「………………レイフ」 幹彦の声が尖っている。面白いくらいに。 彼を嫉妬させるなんていう芸当ができるのは、要君だけだろう。 「いいだろう」 まるで子供だ。 これ見よがしにもう一度、ぎゅっと抱きしめる。 「ちょっと……水川先生」 「いつもずっと幹彦と一緒にいるんだもの、 たまには僕に貸してくれたって、バチは当たらないと思うよ」 「貸すって――」 「要君は、物ではありませんが?」 「確かに、物はこんなに抱きごこちよくないしねえ」 「水川先生!」 「はいはいはいはい! わかったよ。何も二人して目くじら立てなくったって……。 僕はここでゆっくりビスキュイを頂いてるから、二人で心ゆくまでいちゃいちゃ しておいで」 いい加減にしておかないと後が怖い。 僕はことさらなごりおしそうに、要君を放した。 「……まったく」 「僕はこの隅っこで一人寂しくビスキュイをかじってるから」 「わかりましたよ、繰りかえさなくても。まったく。子供みたいにいじけないでください」 要君が苦笑した。 「だってさ――」 反論しようとしたその時。 扉を叩く音がした。 「はい、どうぞ」 いつもの調子で幹彦が答える。 「要は……………………どうして貴様がここにいる?」 ご挨拶だ。 要君を誘いに来たらしい彼――金子君は、ずかずかと部屋に入ってくるなり 不機嫌な顔をした。 要君のすぐ隣に腰を下ろしている幹彦を見やり、更に事態は悪くなる。 「開口一番それかい。非道いねえ、僕がここにいちゃいけないみたいじゃないか」 「ああ。そのとおりだな」 「……え?」 「さっきそこで、青い顔をした編集者とすれちがった」 「あ、ああ…………そのこと」 「誰かを探しているようだったが?」 「え………………え〜〜と。息抜きだよ息抜き」 「ほう。随分と長い息抜きがあったものだな」 嫌味な視線をこちらに投げ、金子君はわざとらしくため息をついた。 本当に可愛げがない。 いつぞやのように、怪しげな薬でも盛ってやろうか……と思う。 「…………というわけだ。正直俺は、この男が何処でどうしていようとかまわん。 が、水川抱月の原稿が遅れるのだけは耐えられんのでな。悪いが、連れ帰らせてもらう」 腕をがっしりとつかまれ、強引に立たせられた。 「君のせいで、せっかくの平和な午後が台無しだよ」 「黙れ。俺は原稿のためなら、編集に魂も売る」 「裏切り者」 「いつ俺が貴様の味方になった」 「そんなこと言うんなら、君の隠れ家、あずさ君に教えちゃおうかな〜〜?」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!! この卑怯者!」 「どっちが」 結局、挨拶もそこそこに、幹彦の教授室を後にすることになってしまった。 無粋きわまりない彼もまた、要君を扶ける者の一人。 頭の回転が速く、口も達者な彼はいつも、こうして現実にひきずり戻してくれる。 そう。……否応なく。 妙に勘が鋭くて、要君になら通用する小技も効かない。何かと厄介だ。 感傷的になる隙すら与えてくれない。 それは時にうっとうしくもあるし、助かることもある。 ……大きな声では言えないけれど。 要君と幹彦とをとりまく、「同胞」たちの奇妙な関係。 二人に魅入られた者たちの描く螺旋。 その果てにあるものが何かは……まだ誰も知らない。 |
END |