Sticky and Sweet |
僕は、蔦のからむ塀をぼんやり見つめていた。 いつもなら、学院の……というか、訳知りの誰かが乗り越えてくるはずの塀。 そろそろ秋も終わり。 木枯らしが木の葉を舞い上げていく。 今年は、特にいろいろとあったから……本当に、いろいろあったから。 幹彦のおかげで、沢山の歳若い知り合いができた。 そして、要君は、扇の骨をまとめる釘、という名の意味そのままに、 皆を繋いでいる。 そういえば……要君が言ってたっけ。 そろそろ、大事な試験の日だって。 あの金子君でさえ、すり抜けられない……単位にかかわる試験があるって。 僕はというと……長編を珍しく早く仕上げちゃったもんだから、 こうして手持ち無沙汰に……。 そうだ。手持ち無沙汰なくらいなら、「あれ」をやってみよう。 僕は、裏庭に七輪を持ち出して、炭をおこした。 いい塩梅になったところで、大きな専用おたまを載せ、 粉砂糖とざらめと、あと水を少し。 ごりごり、と音を立てながら、すりこぎで砂糖を溶かしていき、 沸騰してきて、大きな泡から小さな泡になりはじめたところをみはからって、 火からおろし、ふくらし粉を少し。 あとは、時間との勝負。 そのまま混ぜていれば、できあがり……のはずだったのに。 おばあ様が、あんなに簡単に作っていた、黄金色のそれは、できなかった。 何だか、洋食屋の店先にある食品模型の、ソオダのように、 透明なままの、硬くてべたべたした何か。 「僕が作りたかったのは、べっこう飴じゃなくて、カルメ焼きなんだけどなあ……」 それから、時間を変えたり砂糖の量を変えたりしていろいろ試してみたけれど、 出来るのは、べっこう飴もどきの甘いかたまりか、あるいはかたまりすらしないか。 僕は意地になって、何度も試作品という名の失敗作を積み上げていった。 「………………っくしょん!!」 まだ丹前を出すには早いけど、薄い大島の衿からふきこむ冷たい風にやられたらしい。 気のせいか、喉まで痛くなってきた。 乾いた、嫌な咳が出る。 もっと早くあきらめておくんだった。 そう思い至ったときには、遅かった。 「……繁? おい!!」 来ないと思っていた金子君の声がした。 後で聞いたところによると、僕は真っ赤な顔をして、ざらめとふくらし粉の袋の間に 倒れていたらしい。 気がつくと、母屋の布団に寝かされていて――。 金子君が、かかりつけの先生を呼びに走ってくれて、僕の隣には土田君がいた。 「つちだ……くん?」 自分の声とは思えないような声がした。 つづいて、咳の連続。 いいから寝ていろ、と僕の額をおさえつけた土田君の掌は冷たかった。 もっと冷たい、絞ったてぬぐいが額に載せられ、熱まで出していることを知った。 そこでいったん、僕の意識はとぎれ、次に気がついた時には、横に金子君がいた。 どうやら、医者はもう帰ったらしい。 「まったく……。もう冬になろうというのに、そんな薄着で外にいる莫迦がいるか」 「今回ばかりは……反省してる」 「七輪まで持ち出して、できん料理でも作ろうとしたのか」 「料理? 違うよ」 「カルメ焼き、か」 土田君の声がした。 例の道具……おたまとすりこぎを持って、部屋に入ってきた。 「さっき眠っているとき、ずっとうわ言で言っていた」 「何て?」 「『カルメ焼き、食べたい』」 「何だそれは。お好み焼きの親戚か何かか?」 「違う。でかい砂糖の結晶だ」 「落雁なら俺も知っているが」 「根本的に違う」 思うに金子君は、子爵の子息だから、そんな下賤な食べ物は詳しくないんだろう。 土田君が説明しても、ぴんとこないようだった。 「百聞は一見にしかず。そんなにうまいものなら、作ってくれ」 「うまいものかどうかは、人によるが……。わかった」 「え? 土田君、作れるのかい?」 ガラガラ声で追いかけようとすると、また、寝ていろ、と押し戻された。 「分かったよ。寝てるから。縁側まで七輪を持ってきて、そこで作ってくれるかい?」 仕方ない、と、土田君は、炭をおこし直して、手際よく準備を整えた。 ごりごりごり、とざらめのこする音が聞こえてきて、そのうち、音が変わる。 そうしてかなりの時間、すごい速さでかき混ぜると、重曹をぱらり。 これでもか、とかき混ぜると、ある瞬間に、ぐいとすりこぎを引き上げた。 それと同時に、ふくらみ、かたまっていき、「あれ」ができた。 たまご色に輝く、カルメ焼き。 土田君は、最後にもう一度、おたまの底をあぶると、皿の上にそれを載せた。 「すごい! 完璧だよ。僕が何度やっても、べっこう飴にしかならなかったのに」 「要領はわかった。そんなもの、俺にだってできる」 「そうか」 金子君の負けず嫌いが頭をもたげ、土田君のやったようにやってみせた。 ところが……。 いっこうに、固まる様子がない。 べっこう飴以前の、水飴のできそこないみたいのが、できあがった。 「何が悪かったんだ……? 何か秘訣があるのか?」 「勘だ」 「……あのな! ちっとも説明になっとらんぞ」 「繁は、かき混ぜるのが遅すぎる。もっと本腰を入れてかき混ぜればいい。 金子は、火からおろすのが早すぎる」 僕たちはきっと、料理の神様でも見るような顔をしていたんだろう。 土田君が、きまり悪げに視線をそらした。 「僕が治ってから、ご教授願うとして、それ、頂いていいかい?」 「もう少しよくなるまで、おあずけだ。 こんな砂糖のかたまりを食えば、口の中の水分が全部吸い取られるぞ」 「だってそんなに美味しそう……げほごほ、なのに」 「貴様は、あと一歩で肺炎になるところだったらしいぞ。 さっき、医者が言っていた」 「肺炎?」 「長編を書き終えて、体力が根こそぎ持っていかれているときに、 外でこんなものを焼いていれば、肺炎にもなる」 風邪ぎみかな……? と思ってはいたけど、まさかそこまでとは。 僕は、茶箪笥にしまわれる、完璧なカルメ焼きを目で追いながら、 少しばかり反省した。 「体力が根こそぎ……ね。それより気力の問題かな」 「気力?」 「僕は、カルメ焼きのできそこないをかき混ぜながら、いろんなことを 考えてた。逝ってしまった幹彦のこと、要君のこと、 あの二人が連れてきた、君たちのこと」 「どうした? 弱音とは珍しいな」 「弱音も吐きたくなるさ。 僕が、うちの塀を越えてあの薔薇の下に行かなければ、 要君に、幹彦に会わなければ、今ごろはどうしてただろうってね。 それまでの僕は、そりゃあ、荒れて誰彼かまわず身体を重ねたことも あったけど、ずっと独りだった。それでも平気だった。 でも、今は――」 「………………」 「時々、怖くなるんだよ。 人と深いつながりを持つことは、すなわち、つらい別れがあるということだから。 だから、その前に、僕は消えてしまおうと……」 「繁?」 「この家の中のもの、みんなすっからかんにして、英吉利に帰ったらどうなるかな、 とか。まあ、おばあ様を独りにはしておけないから、もうしばらくはできないけれど」 「繁……」 「そんな莫迦なこと、考えるくらい、心が弱ってた」 喉がからんで、しばらく咳が止まらなくなった。 僕の咳がおさまるのを待って、土田君が、もう一度手ぬぐいを絞って額に載せてくれた。 「くだらんな」 金子君が、吐きすてるように言った。 「ああ、くだらん」 土田君が唱和する。 非道いなあ。僕は、決死の思いで胸のうちを語ったのに。 「つらい別れを恐れて、出会いを拒むような者は、誰といようと独りだ」 「え……?」 「金子の言うとおりだ。粥でも作ってやるから、つまらんことは考えず、今は少し眠れ」 「ここに泊まりこんでやるから、有難く思え」 君たち、試験はいいの、と訊くのは野暮だと思った。 七輪の火を消して外に出し、戸を立てる音がした。 まだ部屋に残る、甘い香りの中、僕はしばし眠ることにした。 この二人がいる間は、こうして恩着せがましく見守っていてくれる間は、僕は独りではない。 そう。きっと、これからも。 |