Stray cat
 
昼日中でもなお、明るくはない空間。
薄汚れたその壁と、少々埃っぽい感じは、もうひとつの隠れ家を思わせる。
違っていることはといえば、あの倉庫の何倍もの本と、それ以上の雑多なものがあるということ。
雰囲気作りのためか、それとも何かの資料に使ったのか、得体のしれないあの瓶には……何のことはない、買い置きのべっこう飴やら黒飴やらが入っている。
穏やかならぬ物の破片でも入っていそうなあの壷には、湿気をきらう干菓子が。
漢方の薬棚めいた抽斗には、蝋燭の買い置きと胡麻煎餅が。
こんな、人生にはこれっぽっちも必要のないようなことまで覚えてしまった。
下手をすれば、寮の抽斗に入っている自分の荷物の場所よりも正確に覚えているのではないだろうか。
そんなに足しげく通いつめていたのか――――彼は小さく、ため息をついた。

すべては何もかも、この土蔵の主のせいにほかならない。
水川抱月。
幼いころから、恋心にも似た淡い憧れを抱きつづけてきた……稀代の小説家。
小説の出来以外に関しても、「世にも稀なる」存在であることは、出会ってから知った。
…………身をもって思い知った。
たしかに、この世のどこを探しても、こんな人間は他にはいない……あらゆる悪い意味において!
 
彼…………金子光伸は、読んでいた本を閉じると、わざと音をたてて脇へ置いた。
どうも雑念が多くて、読書をする気になれない。
雑念のもとは、他にもある。
さっきから、目の前をちらちらうろうろ、歩きまわる小さな生き物。

「………………おい!」
「うわ、吃驚した」
「吃驚したも何もあるか! 何なんだそれは」
「これ? 見てのとおり、猫だけど?」
「猫はわかってる。俺が知りたいのは、何故そんなものがこんなところにいるかということだ! いちいち説明させるな」
「…………だからさ」
「……………………」
「ついてきちゃったんだって。薔薇の下で岩永さんから逃……じゃなく息抜きをしてたら、ほら。何となくね」
「何かやっただろう」
「……土田君から貰った、おかかおにぎりをちょっと」
「まったく。食い物をやればついてくるに決まっているだろう」
「冷たいね。見るからにお腹をすかせているものの前で、一人だけむしゃむしゃ食べられるかい?」
「あのな…………うわ、近づけるな!…………!」

抱月は、子猫を無造作にひょいと持ちあげて、頭の上にのせようとする。
すんでのところでよけた金子は、もといた壁際に避難した。
苦手、というほどではないが嫌いなのだ。

「こんなに可愛いのに。ふかふかであったかいよ? ほら」
「いいから、こっちにけしかけるな!」
「可哀想に。君、嫌われたらしいよ。大きな図体をして、心が狭いねえ金子君は」
「放っとけ!」
 
毒づいている間にも、抱月は自分の髪の房で猫をじゃらしたり、床に寝転がって猫に話しかけたりしている。
「本当に可愛いねえ、君」
「……おい」
「何だい? まさか猫相手に焼餅?」
「…………違う! 猫の名は何にしたんだ」
「え?」
「名だ。飼うんだろう」
「そうだねえ……。何だろう」
「はあ?」

名を訊いたのはこちらなのに、逆に聞きかえされてしまった。
まだ、決まっていないのだろうか。

「…………うーん。 『にゃー』とか、『みー』とか、そんな感じかな?」
「決めていないのか」
「この子にはもう名前があるだろうけど、僕は知らないだけだよ。親猫にどう呼ばれていたかなんて」
「……………………?」
「僕には、名前をつける権限はないし、この子の自由を奪う権限もないよ。
 ここに居たければ居てかまわないし、出ていきたければそうすればいい。
 もともと野良猫だったんだから、自分で生きて行く術も知っているはずだしね。
 僕の元から姿を消したくなったとき、つけた名前は邪魔になるだろう?
 ……そんなものなら、最初から要らない」

さらりと、抱月が言った。
咄嗟に何を言っていいものか、金子にはわからなかった。
そしてそのまま、言葉の接ぎ穂を失ってしまう。

「………………邪魔をしたな」
「帰るのかい?  じゃ、気をつけてお帰り」
「………………」
 
 
――――――――
 
 
まともな挨拶もせぬまま土蔵を後にしてきた金子は、いつものように倉庫に向かう気も起こらず、
そのまま寮へ向かった。
寮の廊下ですれ違った土田に、「あの人は菓子以外もちゃんと食っているのか」と尋ねられ、
腹立ちついでに「俺が知るか!」と吐き捨てる。
       
       ――土田君から貰った、おかかおにぎり……

勝手に、餌付けでもなんでもすればいい。俺の知ったことか……。
いっそ、要のところにでも行こうかと思ったが、あいにく授業の終わる刻限だ。
今頃は月村教授とよろしくやっていることだろう。面白くもない。
苛々している。その原因も、嫌というほどわかっている。
だからこそ、余計に苛々がつのる。……悪循環。
 
猫に焼餅……そんなつまらないものじゃない。
ある意味、もっとずっと莫迦莫迦しい不安だ――。
金子は、自室の机につっぷしたまま、ため息をついた。
 
俺もまた、野良猫の一匹にすぎないのか。
名前をつける必要もない、ただひととき、戯れに通り過ぎていくだけの。
傍にいても拒まない。その代わり、去るときも何とも思わない。
そんな出会いを、あの男は今まで何度繰りかえしてきたのだろう。
あるところまではずかずかと土足で入ってくる癖に、そこからは決して触れてこようとしない。
それはある意味、手管なのだろうし、あいつの本音でもあるのだろう。
「一生に一度の恋」で、すべての情熱を使いはたした、とでも言うつもりか……反吐が出る。
 
「俺の気がすむまで」俺の物でいる――あの言葉は、ただの遊び人の気まぐれか?
悪いが俺は、愛人契約を交わしたつもりはないぞ。
契約を交わしたのはただひとつ。要のしもべの一人となることだけだ。
…………莫迦莫迦しい。
 
「くそっ。何でこの俺がこんなことを思い悩む必要がある? まったくもって不愉快だ」
ひとり虚しく毒づくと、金子は上着を机の上に放り、着替えもせずに寝床に転がった。
 
 
――――――――
 
 
翌日。
くだらないことを考えているくらいなら、と出てみた授業は、いつもながらの内容だった。
以前の授業でやった頁を、繰りかえしやっていることに気づかない教授も教授だが、試験の範囲が
せばまるといって指摘しない……どころか手放しで喜んでいる学生も学生だ。
休憩時間の喧騒に紛れ、金子は抜け出した。
こんな時に、月村教授の授業など受けていられるか…………と。
 
…………だが。
裏口から上手く抜け出したつもりが、そこには罠があった。
 
薔薇の根元にだらしなくねそべっている、トウモロコシ色の物体。
見覚えのありすぎる、大島を着たその姿。
よりにもよって、今最も会いたくない相手がそこにいた。
いっそ、わざと踏みつけていってやろうか……と思い、大人げないと思いなおす。
目の前であからさまに進路変更をしたあげく、知らん顔で立ち去ろうとした金子に、
「薄情が服を着て歩いてる……っていうのは君のことだね」
地面から呼び止める声。
声ばかりではない。その手は、金子の足首をしっかりとつかんで放さない。
「…………怠惰が大島を着ているのよりはましだと思うが?」
一瞬にして凍てつく空気。抱月の顔に貼りついた笑みが、更に温度を下げている。
「へえぇ。最近は、『サボタージュ』ってのは怠惰のうちには入らないのかい?」
抱月は、ここぞとばかりに揚げ足をとる。つくづく、人の苛立ちのツボをおさえた男だ。
 
「いい加減に放せ。……貴様こそ、こんなところで何をしている?」
わざとらしく、掴まれていた足首の埃を払いながら、金子が尋ねる。
「何って……うららかな日差しと、抜けるような青空に誘われて――」
「ほお〜〜〜お」
見上げると、ちょっとつつけばどしゃぶりになりそうな暗雲が重くのしかかっている。
珍しい青空もあったものだ。
「何かいいネタでも落ちてやしないかと出てきたわけだよ」
「ほう。それで?」
「見ての通り。こうやって薔薇の下に寝そべって、思索に耽ってたとこ……」
うそぶいたその台詞にかぶせるように、盛大な腹の虫が鳴いた。
「朝からそうしていたとすれば、もう来月掲載分のひとつやふたつ、構想はできているんだろうな」
「まあね」
「………………ほう?」
「ただ――」
「ただ?」
「思うにね、あれは真理だね」
「何のことだ」
「『腹がへっては戦はできぬ』」
「………………はあ?」
「こう、ひとつ何か浮かぶとするよ。……あ、これは何かに使えそうだ、って一言とかね」
「………………?」
「でもお腹が減ってると、どうも集中力が続かないんだよねえ。例えるなら、そうだね。
 目の前で壊れていくしゃぼん玉というか、掌で溶けてなくなる淡雪というか……。
 ふわふわしてて頭くらいあったはずの綿菓子が――……ああ、余計にお腹がすいてきた」
「…………で?」
「今ごろはもう、岩永さんはいないかもしれないけど、家に帰ってもトミさんいないだろうし、
 お財布は忘れてきちゃったし?」
「つまりは、何がいいたい」
「……せっかく浮かんだネタが、勿体ないなあ、ってね。
 ついでに言うなら、この薔薇の蔓に妙に気に入られちゃったみたいで、動けないんだけど」
よく見てみれば、金の髪の一房が蔓に絡まっている。
「こんな場所に考えなしに寝ころぶからだ」
「やっぱり薄情だねえ君。……もういいよ。別の通りがかりの人に頼むから。
 あ、つ〜〜ち〜〜だ〜〜く〜〜ん!」
抱月が、金子の背後に向かって手をふった。
「何?」
思わず金子がふりかえると、そこには誰もいない。
「あはは。面白いほど簡単にひっかかるねえ」
「人が手を貸してやろうと思えば! 俺はもう知らん。一生そうしていろ!」
「はいはい。……じゃあね」
ひらひらと手をふる。
 
莫迦にするにもほどがある、と金子が見捨てていこうとした瞬間、再び背後から声がかかった。
「あ。そうだ、金子君」
「何だ」
「言い忘れてたんだけど、君さ。ちょっと、声おとしたほうがいいよ」
「はあ?」
「場所を選べってこと。……幹彦の教授室の扉ってさあ、実は案外薄いんだよねえ」
「………………!」
「いやね。昨日の午後、要君とお愉しみらしい声を聴いちゃってね」
「きさ――」
「お相伴にあずかろうとも思ったんだけど、丁度そこへ真弓君も来たから、無粋なことはやめようかっ  て話になって」
「なん……だと?」
「いやあ、外から聴いてるだけでもなかなかどうして。
 見えぬ月を愛でるのも、それはそれで趣があっていいもんだよねえ。どのへんをどうされてるのか
 なんて考――」
「いい加減にしろ貴様!」
「ふふん」
「笑うな!」
「手を貸す気になった?」
「わかったから黙れ」
「ついでに何か奢ってくれる、なんて気はない?」
「どうしてそうなる」
「ここでひとつ、水川抱月に恩を売っておくのもひとつの手かもしれないよ?」
「…………………………悪くないな」
「決まりだね」
 
 
――――――――
 
 
「こんなわりに合わない話があるか! 何で俺が――」
水川邸への帰り道。
金子はずっと悪態をつきつつ歩いていた。
結局あの後、蔓に絡まった髪をほどくのにさんざん苦労したあげく、蕎麦にあんみつまで奢らされるという、今年一番の貧乏くじをひかされたのだ。
「まあまあ。来月分の出来たて原稿、一番に読ませてあげるから」
「当たり前だ」
「そんな大威張りでいわれてもねえ……」

「そうだ。あの猫はどうした?」
「え? ああ。どっかいっちゃったねえ。そういえば」
「つくづく、いい加減な奴だな。……あの猫も災難だ」
「へえ。珍しいねえ。君らしくもない」
「茶化すな! もしも俺があの猫だったとしたなら――」
「………………?」
「たとえ一日きりだったとしても、名前のひとつくらいつけんか、と怒鳴りつけてやるだろうな。
 それが無理なら、一生残る爪痕のひとつやふたつ刻んでやるくらいのことはする」
「…………ふうん。随分と激しいねえ」
意味ありげな笑み。
「物のたとえだ!」
「声、ひっくり返ってるみたいだけど?」
「うるさい!」
 
どうせ野良猫なら、せいぜい鮮烈な記憶に残るくらいの野良猫になってやろうじゃないか――。
そううそぶくなり、金子は足を速めた。
 
                                                      END