Sweet Sacrifice |
水川家の台所では、野菜を刻む規則正しい音が響いていた。 通いの家政婦が流感にかかって寝込んだ。 その夕方、腹をすかせた家主が薔薇の根元に倒れていたのを金子が見つけ、 急いで土田を派遣したのだった。 「つ〜ち〜だ〜くん♪ いい香りだねえ。今日の晩ご飯は何?」 「鯵の干物と、蕗の煮付け、里芋の煮っころがしに、大根の味噌汁だ」 「土田君の手料理はどれも美味しいから、楽しみだねえ。……ところでさ。 作家友達に聞いた話なんだけどね。 かの文豪はさあ、洋行から帰ってきてから、胃弱なのにこってり物好きになって、 すき焼きばかりを所望するらしいよ」 「ほう、それで」 「夫人もしたたかな人で、それならばと、音をあげるまですき焼きばかりを 食べさせ続けるみたいだよ」 「つまりはそれで何がいいたい」 「たまには、肉もいいなあ、ってね」 「たまにならいいが、毎日出すほどは余裕がないだろう」 「あ、言ったね。そりゃあ、文豪と僕とは、収入の差は比べるべくもないけどさあ。 食べたいなあ……すき焼き」 「………………………………」 「すき焼きすき焼きすき焼きすき焼きすき焼きすき焼きすき焼きすき焼き…………好き」 「耳元で囁くな! 包丁を使っているんだぞ! 手元が狂うだろうが! ああもう……分かった。善処しよう」 「ありがとう! 土田君! そういうとこ大好きだよ!」 そしてその翌日の夜。 水川宅の座敷には、思いがけぬ客が数名、集まっていた。 「で……………僕は少なからず期待していたわけなんだけれど、 どうして、こうなったのかなあ? 説明、してくれない? 金子君」 「だから! 何度も言ったろうが! 土田は親戚の誰とかやらが急病で、故郷に帰った! すっ飛んで帰る時、この書きつけを俺に押しつけてな。 くれぐれも頼む、と何度も念を押していた。 ついでに言うと、要も居たほうが抑止力になるだろう……と訳のわからんことを言っていたので 連れてきたら、 胸糞悪いおまけがついてきた、というわけだ」 「胸糞悪くて申し訳ありませんね。しかし要君を『抑止力』呼ばわりして、 自らの埋め合わせにつきあわせるとは、いささか……、いえ、 かなり見過ごせない」 「ほーら、聞こえてるよ、金子君。幹彦は、耳がいいんだから。 すき焼きは、みんなで食べたほうが楽しいしねえ。 こうなったら、残りの二人も呼んじゃおうか?」 「ああ、あずささんと真弓さんなら来ませんよ。 僕がお誘いしたんですが……金子さんがあずささんを独語でからかったら、 それが通じなかったらしくて、 情けない、僕があずさをたたき直す、って……」 「あはは。相変わらず、あの二人は仲がいいねえ」 「本当ですね」 「せっかくのいい牛肉なんだから、来ればいいのに」 「お・れ・が・払ったんだがな!」 「堅いこと言わない。これが水川抱月の明日の著作の血肉になるんだよ〜〜〜」 「やめろ。何だか生々しい」 「いつもの著作はほぼ、甘いものから出来ているんだけどねえ」 「それも情けないが」 「あとは問題は」 「…………?」 「え〜〜。ゴホン。挙手を願います。すき焼き、食べたことある人〜〜」 全員、無言で手を上げる。 「そうだよねえ。じゃあ、すき焼き、自分で一から作ったことある人〜〜」 上げられた手が、全て下される。 「ええ〜〜? 一人もいないわけ? やっぱり、自力でやるしかないか」 「土田の書きつけには、何か書いてなかったのか?」 「あるにはあるんだけどねえ。土田君、ご親戚のことで慌ててたこともあってか、 お料理の『上級者向け』でねえ。『割り下』はたぶん文脈でタレのことだと思うけど、 肝心のところで、『適宜』としか書いてなかったりで……。 お婆さまがやっていたのを見ていたくらいだけど、僕なら少しわかるかもしれない……。 だけど、それだと関東風になっちゃうかなあ」 「わかった! こうしていても始まらん! 繁、『適宜』はお前に任せる!」 「え、いいの?」 「材料を刻むのは……要は危ないから座っていてくれ。指でも切られたらたまらない。 仕方ない。俺と繁が一番器用そうだ」 「何だかんだ言って、君、仕切るよねえ……」 「適宜以外の調合は、月村教授、お願いします」 「わかりました。書きつけ通りに行えばいいんですね。では、メスシリンダーは? 乳鉢は何処に?」 「〜〜〜〜〜〜〜!」 「金子君、おさえて!」 「月村先生、こっちに、計量カップと大さじ小さじがありますから!」 「えっと……ネギと、しいたけと――」 「繁、言ってるそばから包丁を持つ手が逆だ!」 「君ねえ……。今更、何を言ってるの。水川抱月の黄金の左手は包丁も持つんだよ?」 「ああ、そう言えば貴様は左利きだったか……。わかったから振り回すな!」 「レイフ――――」 「はいは〜〜〜い♪」 「適宜が混在していて、私ではわかりません。調合の助手をお願いします」 「もちろんかまわないよ、幹彦」 「こんぶだし。みりん、大さじ6、醤油、大さじ6、酒……」 「そうそう。あとお砂糖大さじ2。そしてお砂糖。それからお砂糖……まだ全然足りないよ、もうちょっと」 「全然足りませんか。では、砂糖。砂糖、砂糖、砂糖、砂糖……このくらいですか?」 「お砂糖、こんな感じだね。これを混ぜれば割り下のできあがり」 「砂糖が溶けませんね。……いわゆる飽和状態、ですか」 「そこを何とか溶かすのが、コツだってお婆さまが言ってたような……」 「なるほど、家庭の味とは、化学を超えた不可思議なものということですか」 「要く〜ん、すき焼き鍋の準備は出来た? じゃあ、牛脂を溶かして……と。 野菜班! 遅いよー!」 「貴様が途中で放り出したのが悪いんだろうが! 豆腐と卵も持ってきたぞ」 「ありがとう。じゃあ、ネギとかお肉を、ちゃっちゃと焼いてっと、はい。割り下登場」 「うわっ! 何だこの異臭は?」 「何だか、美味しそうなにおいがしますねえ、水川先生」 「そうだねえ、要君」 「いや、違う! 断じて違う! これは、俺の知ってるすき焼きの香りではない!」 「うるさいなあ、食べたくなければ、食べなければいいよ。ほら、お豆腐、入れちゃうよ」 「いや……肉を買ったのは俺だし、そういう意味ではなくてな。 何を入れた?」 「何って……材料どおりだけど? はい、幹彦。卵につけて食べるんだよ」 「甘くて、美味しいですねえ!」 「要君が美味しいと言うのなら、そうなのでしょう」 「………………今、牛肉が、ジャリっと言ったぞ! 何だこの尋常ならざる砂糖の量は! 下のほうなど、みたらし団子のタレになりかけているぞ! ……貴様だな! 繁!」 「うるさいよ、金子君、黙ってお食べ」 「食べ物を粗末にする人は嫌いですよ」 「ああ。要君は、やはり礼儀正しいですね」 「よく平気な顔をして食えるな。 貴様ら三人、味覚が死んでいる…………ありえん! 視神経……というか、眉間をつんざく甘さ……だ……ぞ……!!」 言うなり、金子は倒れた。 それから三日三晩、彼は高熱を出して寝込んだという。 見舞いに行った土田の話によると、 「もうしばらくすき焼きは食いたくない」 「『適宜』という言葉は、金輪際使ってくれるな」 という謎のうわごとを口にしていたとのことだ。 |
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