Take a bow  〜Love Profusion side B〜 
 
扉の向こうに、主が居るのはわかっていた。
そっと耳を当て、他の取り巻きの気配がないのを確かめる。

ふう、とため息。
僕はひとつ、大事なことをしなきゃならない。
それは、僕以外にはできないこと。
覚悟を決めて扉を叩くと、いつもの声で返答があった。

「やあ、幹彦」
「レイフ……」

人はこれを、無感動な声、と取るかもしれないけれど、
僕にはすこし、意外そうな風に聴こえた。
……聴こえてほしかったのかもしれない。

哀しいかな、僕の色眼鏡には、昔惚れてしまった欲目、というのが
多分に含まれているから。

「要君なら、居ませんよ。
 先程、皆と書店に行くと言って出ていきましたから」
「そう。それは残念だね」

これは、嘘。
僕はお前に。
月村幹彦に、会いに来たのだから。

「珈琲でも、淹れましょうか」
「ああ、いいよ。……苦いしね。
 せっかく淹れてくれた珈琲に、砂糖だの牛乳だのを大量に入れるのは、
 珈琲に対しても、淹れてくれた人間に対しても申し訳ない気がしてねえ」

「君は変わりませんね、レイフ」
「そうかい?」

少しばかり嬉しく思いつつ、本当に彼の目に僕など映っているのかとも考える。
やがて、幹彦の手が、隠しの煙草を取り出し、火をつけた。

……これを、待っていたんだ。
嗅ぎ覚えのある、懐かしい香り。
罪の香り。

「ねえ、幹彦。僕にも一本、くれないかい?」
「おや、珍しいですね。君がそんなことを言い出すとは……。
 かまいませんよ。確か、君の好きそうな甘い味の煙草があったはずです。
 チョコレエトの味がするとか――」

そう言って、幹彦は咥え煙草のまま、後ろの引き出しを探った。

「いいね。バニラやチョコレエトの味の煙草も興味があるけれど、
 僕は『その』煙草がいいな」
「ほう?」

眼鏡の奥の瞳が光った。

そして、思いのほか簡単に、紙巻を差し出す。
「おや。燐寸は」
「おかしいねえ。落としたかな?」

テエブルの下も覗いてみる。
「ないようだねえ……それじゃあ」
「…………?」
「幹彦、もうちょっと、近くへ寄って」

昔日の感傷に、眼鏡も邪魔だ、と外して。
僕も煙草を咥えて、火口をかさね、すうっと一息吸った。

たった一瞬のことなのだけれど。
きつい味と煙とともに、止まっていた長い時が動きだす気配があった。
あの、黄昏時の窓に差し込む光さえも、唇にふれた感触さえも覚えているというのに――。

「レイフ……?」
「ああ。ごめん。
 昔のことを、思い出していたよ。この味のせいで、ね」
「………………」

「――最近痩せたねえ、幹彦」
「なるほど、」
「え?」
「君には、隠し事もできないようですね」

当たり、だ。
大当たり。当たっちゃいけない図星に、大当たり。

「それで、どうする?
 僕はお前が、その隠しにナイフか何かを持っていて、僕を刺し殺したとしても、驚かないよ」

お前が、本当にそう、望むのであれば。
僕はそれだって、選択肢のひとつに入れてなくはないんだ。
探偵小説家・水川抱月、何者かに刺し殺さる。
昔は放蕩の限りをつくした人生だ。こんな終わりがあってもいいじゃないか。
愛した相手に手を下されるのならば。


「計画の邪魔をするのであれば、それも考えなくてはなりませんが――」

「あ、そう。
 邪魔なんてこれっぽっちも考えちゃいないよ。
 僕はただ、観客のひとりとして、お前の演劇を最後まで見届けたいだけ。
 その券を、僕にくれないかい?」

「…………いいでしょう」

「ありがとう。特等席で見させてもらうよ」

我ながら、趣味が悪い。
一人、昏い笑いをうかべつつ、煙草を灰皿で消した。

「じゃあ、僕は帰るよ」
「はい。そろそろ暗いですから、足元に気をつけて」
「お前ねえ、そういう台詞は、要君にでも言っておやり」
「……そうですね」

一度閉めた扉を開き、言い忘れたことをひとつ。

「あ、そうそう」
「どうしました?」
「これは、記念に貰っておくよ。なかなかいい意匠だね」
「レイフ! ……君は」

僕は、先程、幹彦が後ろを向いた隙にかすめとった、燐寸の箱を掲げてみせた。
瑠璃色の鳥の絵の書いてあるそれは、カラカラと音をたて、僕たちを笑っているかのようだった。
 
END