Tender  Rain

 
その日、金子光伸は、すこぶる機嫌が悪かった。

――俺に触れるな――

そういわんばかりの見えない棘が、隙間なくはりめぐらされている。

今の光伸にあえて近づくような強者はいない。

普段ならば、望まなくてももれなくついてくる火浦あずさですら――。

 
――――――――――――
 
「くそっ、俺が一体、何をしたというんだ!」

絵に描いたような、最悪の一日。

起きぬけに、足がつって七転八倒。

賄いの飯に石が入っていた。しかも、卵焼きが砂糖入り。

授業を抜け出そうとしたとたん、火浦につかまる。

ようやくまいたものの、すれちがった教授に、面倒な仕事を頼まれる。

月村と楽しげに語らう要……と、それを見てため息をつく土田を発見してしまう。

まるで、不幸の見本市だ。

そして、きわめつけ。

……出先で、気に入りの傘を盗まれた。

何かに祟られている。間違いなく。

 
しばらく、軒下で雨宿りをしていたものの、いっこうに止む気配がない。

舌うちをして、雨の中を早足で歩き出した。

細かい、冷たい雨。……どしゃ降りでないことだけが救いだ。

と。

灰色に塗りつぶされたような景色に突然、彩が添えられた。

鮮やかな紅。

そして、黒地に金の、品のいい後姿。

「……光伸さん?」

路傍の華が、ふわりとこちらをふりかえった。

「菊千代?」

「こんなに濡れて……どうなすったんです」

自然な仕草で、傘をさしかけてくる。

紅い華と見えたのは、番傘だった。

「傘を盗られた」

それは難儀な目にあいましたね、とさりげなく懐紙を手渡される。

「そういえば、すぐそこで、あの方にお会いしましてねえ」

「あの方?」

「ほら、先に光伸さんと一緒に歩いてらした、背高さんですよ。
 雨に濡れているのに、呑気に水飴をくわえたまま歩いて……」

「………………!」

そんなことをしそうな人間は、ひとりしか思い当たらない。

「光伸さん?」

「菊千代、あいつはどっちへ?」

菊千代は、黙って指差した。

学校の方角……おおかた、家に戻る途中で降られたのだろう。

――……関係ない。

このまま、菊千代と……という手もある。

……しかし。

菊千代が、艶然と微笑んだ。

逡巡しているのを見透かしたように。

す、と番傘を差し出す。

「しかし、それではお前が濡れてしまう」

「店まですぐですから、ようござんす。……お行きなさいな」

「すまん――恩に着る」

「嫌ですよ。らしくもない」

「菊千代!!」

「おお、怖。…………それじゃあ失礼しますよ」

これでまた、借りがひとつ。

つくづく彼女には頭があがらない……。

 
「背高さん」は、たやすく見つかった。

さすがに今日は冷えるので、着物の上にインバネスを羽織っている。

ただでさえ目立つ容姿。

しかも、この雨の中、傘もささずにぶらぶら歩いているのだから、困ったものだ。

道端の猫に、呑気に声などかけている。

放っておこうか……と真剣に思った。

「………………おい、」

「え?」

繁が、きょろきょろと辺りを見回した。

仕方ない。

「…………おい。そこの馬鹿」

「金子君?」

「他に誰がいる」

「おやおや。紅い番傘とは、なかなか粋だねえ。
 妓楼に居続けの旗本の次男坊……とか、そんな役どころかい? 色男」

濡れねずみながらも、へらず口は健在だ。

やっぱり、菊千代をひきとめるべきだったか……と激しく後悔する。

面倒だ。

問答無用で、傘をおしつけた。

「え?」

「貴様本体が風邪をひこうが肺炎になろうが、俺はいっっっこうに構わん。
 だが、水川抱月が急病になると次回作が読めん」

「君らしいねえ」

「使ったら、倉庫にでも置いておけ。菊千代には俺が返しておく」

「あれ? 君は?」

「じゃあな!!」

きびすをかえし、そのまま駆け出そうとした。

しかし。

「ちょっとお待ちって」

後ろ衿をつかまえられ、一瞬、首が絞まる。

「何をする!!」

「あ。ごめん。……ちょっと思ったんだけどさ」

「何だ」

「うん。どっちにせよ、同じことじゃないかなって」

「…………は?」

「だからね。
 このまま君が風邪をひいたとしたって、僕んちに遊びに来るわけじゃない? 
 それで、君の大事な水川抱月も風邪をひく……。
 次回作は当然、読めなくなるねえ……どうする?」

「……………………詭弁だな」

「一理あると思うけど?」

「第一に、俺が風邪をひかなければいい。
 第二に、風邪をひいたとしても、貴様の家に行かなければいい」

「ふうん? でもさ。
 第一に、君って結構風邪ひきやすいじゃない?
 第二に、君が水川抱月の出来たて原稿の誘惑に勝てるとは到底思えないんだけど」

鬼の首をとったような顔をしている。

確かに、完璧な切りかえしだ。……悔しいが。

「それならどうしろというんだ」

「あれ?  判らない?」

「言っておくが、男と相合傘する趣味はないからな」

「あのさ、金子君。参考までにきくけど」

「何だ」

「君、今自分がどういう状態にあるかわかって言ってる?」

にやっと笑って、繁が言った。

…………あ。

「そう。まさにこの状態を、相合傘っていうと思うんだけど?」

「議論してて気づかなかっただけだ!
 大体、勝手にさしかけたのは貴様だろう!!」

「あ、またそういうこと言う。可愛くないねえ」

「うるさい!」

「はいはい。わかったから」

「撫でるなといっているだろう!」

「うわ……君、びしょ濡れだよ。あーあ、こんなに冷えちゃって!」

「気安く触れるな! 鬱陶しい」

「こうしちゃいられないね。とっとと帰って、あったまらないと」

「………………俺は、寮に帰るんだが」

「すぐお風呂、沸かすからさ。内風呂って、ほんとに便利だよねえ」

「聞いてるか貴様」

「え? なになに? 別の方法であっためて欲しい?」

「断る!!」
 

 
金子光伸、本日の不幸の総決算。

それは、この厄介な男に出くわしてしまったこと…………かもしれない。

                           モドル