The Third man

 
――どうして、こんなことになったんだ……?

頭がまわらない。

 
ここは、水川家――母屋の座敷。

新しいレコードを手に入れたので、蓄音機を借りにきたのだ。

気の利いた音楽でも聴きつつ、美酒を愉しもうかと思っていたのも束の間。

そのどちらも、愉しむ余裕はなくなった。

いわく。

君だけが、そんな贅沢な時間を過ごすのは納得がいかない――と。

……ひらたく言えば、またネタにつまっているということだ。

 
「いい加減に……しろ、きさ……ま…………っ」

「いいじゃない。たまにはこうして、音楽を聴きながらってのも」

「違う……! 俺を息抜きに……つかう、なと…………ア、…………!」

「なになに? 聞こえないなあ〜〜、音楽がうるさくって」

「………………もう終わってる」

「あれ? そう?」

わざとらしく、そらとぼける。…………こいつは。

音楽を奏で終えた針が、ぷつんぷつんと音を立てる。

その合間に。

「…………しっ」

「え? 何? 金子君」

「誰か来る」

裏庭のほうから、かすかに砂利を踏む音が聞こえる。

「本当だ。誰だろうねえ、今時分」

「誰でもいいから放せ」

「やだよ」

「何を馬鹿な……こんなところを見られたら……………!」

「大丈夫」

「何が大丈夫なものか…………放せ、……うご……くな!」

「表の門と玄関は、君がうるさく言うから閉めてあるよ。
 だから、裏の塀を乗り越えて来たんだろうねえ。
 となると、考えられるのは――」

「…………っ、ん!」

「泥棒か、訳知りの困った知人か……のどちらかだね」

冗談じゃない。

何とかふりほどいて逃げようとするが、腰をとらえられていて動けない。

せめて声を聞かれることのないよう、口を塞ぐ……そのくらいのことしかできない。

「こういうのもなかなか新鮮だねえ」

呑気なことを言いつつも、わざとらしく執拗に弱点をついてくる。

……つくづく、意地の悪い男だ。

「…………! …………っ!」

限界だ……と思った瞬間、急に目の前の障子が開いた。

「みずか……………………っと。とりこみ中か」

一瞬、空気が凍った。

目の前に立ちはだかった男は、さして驚いた様子もなく、きまり悪げに頭を掻く。

あろうことか、その場にどっかと腰を下ろすと、何事もなかったように煙草をくわえた。

「橘。…………時分時と濡れ場は遠慮するもんじゃないかい、普通」

「気にするな。見慣れてる」

「…………お前ねえ」

顔を上げた拍子に、男と思いきり目が合ってしまった。

短髪の、いかにも一癖ありそうな…………だがまあ造作は悪くない部類の男だ。

橘と呼ばれた男は、くわえ煙草のまま、意味ありげににやりと笑う。

あまりのことに停止していた思考と羞恥とが、一瞬にして押し寄せてきた。

「嫌だ……見るな……! ………………!!」

「……! こら、金子君、そんなに――」

思わず締めつけてしまい、結果、自らを追い上げることになってしまった。

自分の手の甲に歯をたてて声を殺す。

指が勝手に、畳をかきむしる。

「しょうがないねえ……まったく」

繁の手が、前に滑りこんできて、あっという間にのぼりつめ――、

「……っ、や……だ!  も――!」

その波が引かないうちに中に叩きつけられ、また達かされた。

散らかったシャツの上に崩れおち、しばらく動くこともままならないのをいいことに、
ここぞとばかりに繁が頭を撫でてくる。

混乱していて、ふり払うことさえ忘れていた。

「――――――で?」

気まずい沈黙を先に破ったのは繁だった。

「お前は何しに来たんだい……こんな時間に」

「そう露骨に嫌そうな顔をするな」

「するさ。せっかくのいいところを邪魔されたんだからね。
 ……ごらん、金子君。これが悪い大人の見本だよ」

「………………ほう。……で、俺はどっちを見ればいい」

なげやりに答えると、橘が吹きだした。

「非道いなあ。金子君。君、憧れてくれてたんじゃなかったっけ?」

「貴様は、その左腕と、腐れていない部分の脳があればそれでいい」

「うっわ、そりゃないよ。いくら何でも」

「何でもいいからどけ!  ……重い」

橘は、まだ笑っている。つくづく、無礼な男だ。

「見てて飽きないな。まったく。
 ところで、さっきの質問の答えだが――」

橘が、隠し持っていた風呂敷包みを取り出した。

三段重ねの重箱……らしい。

「何だい? これ」

「いいから、開けてみろ」

「…………うわ」

甘い匂いが広がった。

重箱に、みっしりとぼたもちがつまっている。

それが三段。……ゆうに、四十個くらいはあるだろう。

見るからに甘い。勘弁してくれ。

「親戚におしつけられた。要らないなら持って帰るが――?」

にやりと笑う。

「……え〜〜〜〜〜っと。………………よく来たねえ、橘!!!!!」

繁の目が輝いた。なつっこい、満面の笑顔…………現金なやつだ。

「今、お茶でも入れてくるよ」

「………………俺が行く」

「え? でも、君――」

「……こんなところにいるよりはましだ」

シャツを羽織り、だるい身体を無理矢理起こして台所に向かった。

 
――――――――――――
 
「随分とまあ…………毛色の変わった愛人をものにしたもんだな」

「愛人? 相変わらずお前は。失礼なことお言いでないよ」

すでに口のはしにあんこをつけながら、繁が憤慨した。

「失礼……? どっちに対してだ?」

「どっちもさ。金子君はそんなんじゃないよ」

「恋人、なんていうつもりじゃないだろうな」

「どうだろうねえ?  彼は、水川抱月の自称フアン筆頭、だし?
 人気探偵作家の卵、だし? ……微妙なところだね」 

「純真なフアンが……さっきの様子からいって、そうも言い切れんが……、
 お前の毒牙にかかったってわけか……気の毒に」

「た〜ち〜ば〜な! つくづく失礼な男だね、お前は。
 人聞きの悪い……それじゃ僕がまるで――」

「諦めろ。昔の行いが悪すぎた」

「…………それを言われると痛いねえ。
 まったく、お前には嫌なところばかり見られる」

「気にするな。俺の趣味だ」

「……悪趣味の極み、だね」

「まあ、安心した。
 いつぞやのように、壊れたお前を見ているのは、面白いが辛いからな」

「底意地が悪いのは変わってないねえ、橘」

「お前には負けるさ」

「はいはい。否定はしないよ」

「お前が選んだだけあって、一筋縄ではいきそうにないが、あの熱心なフアン殿を
 せいぜい大事にしてやることだな」

「……言われなくてもそうするよ。
 なんせ、昔の誰かさんにそっくりだし、ちゃんと妬いてもくれるし、
 何も言わずに急に消えたりもしないからね」

「ふふん」

「……………………それにしても、お茶、遅いねえ」

わざとらしく視線をそらしつつ、繁がつぶやいた。
 

 
――――――――――――
 
そのころ、水川家台所の片隅では。

無造作にシャツを羽織った青年が、目当ての物を見つけ出していた。

「………………あった」

ほくそ笑むその手には、大袋の塩。

おそらくトミさんの買い置きだろう。有難い。

…………そして。

ほどなくして、水川家の玄関先「だけ」、一面の銀世界となった。

「時ならぬお客様への、心ばかりのおもてなし」のために――。

モドル