Waltz |
くしゃっと丸められた紙が宙を舞った。 後ろ手に投げられたそれは、屑籠のふちに当たって床に転がる。 枚数にすれば、あと四分の一ほどなのだ。 しかしどうも、うまくいかない。 筆がのらないというか、文章が流れないというか。 ――ここまでくれば、大概はうまくいくのに。 いっそ、土蔵を抜け出して姿をくらましてしまおうか、と何度も思った。 糸口がみつかるかどうかは別として、気分転換くらいにはなるだろう。 編集の岩永は嘆くだろうけれど。 締切破りはいつものこと。あの、恨みがましい目には慣れている。 実際、背後にいるのが彼なら、何やかや理由をつけて抜け出したりもできたろう。 が。 ……………………が。 苛々とペンを弄びながら、背後の男に台詞を投げた。 「で? いつまで居座るつもりだい? お前は」 「居ちゃ悪いか」 即座に、答えが投げかえされた。 「悪いよ。資料が見つかったなら、もう用はないはずだろう。 「稀代の大作家の創作の邪魔、とでも言うつもりか」 「ご名答……その通り、だよ。橘。 「ふん。……なら、言わせてもらうがな、水川」 「………………」 「残念だったな。俺は知ってる」 「へえ? 何を」 「天下の水川抱月は、会話をしながらでも原稿が書ける」 「………………!」 「その左手が動いているのを、俺は何度も見た。 橘は、冷たく言い放った。 本当に、この男は苦手だ。 |
この男――橘省吾。 学生時代を共に過ごした。不本意ながら。 何年かドッペっているという話を聞いたことがあるから、実際は少し年上になる。 青春を謳歌していた……とはいいがたい僕の学生時代――の後半。 ごっそりと持っていかれてしまい、虚ろになった僕の心に、彼はするりと滑りこんできた。 手を差しのべるのではなく、突き放す。 壊れかけたものなら、いっそ粉々にする。 それが彼のやり方だった。 踏みにじられ、蔑まれる。 かと思えば、急に優しく、甘い言葉を囁かれる。 …………僕は、それに溺れた。それが、毒の甘さであると知りながら。 檻の中で、気まぐれな飼い主に飼われていたようなものだ。 与えられるものが例え苦痛であったとしても、離れては生きてゆけない。 だが彼は――何も告げずに、姿を消した。 欧州へ旅立った橘は、数年後、日本に帰ってきた。 趣味の写真の腕を磨き、ついでにデザインの技術をものにして。 あっという間に下絵を描き、挿画の体裁にしたりもする。鮮やかなものだ。 思えば昔から、橘は器用な男だった。 実際、僕の処女作の装丁の原案を出したのも彼だった。 …………まあ、出版されて間もなく、姿をくらましてしまったのだけれど。 そんな手ひどい目にあわせておきながら、何くわぬ顔で再び現れたのだ。 何かと理由をつけては、こうして家を訪れる。 時間やこちらの都合などはおかまいなしに、ずかずかとあがりこむ。 これで怒らないほうが不思議というものだ。 |
…………ちょっと待った。 昔のことなんか思い出してる場合じゃない。原稿原稿。 「どうした? また筆が止まってるようだが、俺の気のせいか?」 嘲笑を含んだ気怠い声が、追いうちをかけてくる。 「本当に煩いねお前は。僕にだってうまくいかないことぐらいあるさ」 うまくいかないことのほうが多い。 ……この男が絡むと特にそうだ。 「言っただろう。とっととお帰り」 「やれやれ。とりつくしまもないとは、このことだな」 ふう、とわざとらしくため息をついてみせ、橘は続けた。 「おおかた、自称筆頭フアン殿が来る――そんなところか? 水川?」 背中を這い上がってくる、低い囁き。 「何言って…………橘?」 「いい加減、負けを認めたらどうだ。今日のお前には、勝ち目はない」 「まったく――」 すぐ後ろで、橘の吐息を感じた。 続いて、思いもよらない感触。 束ねた後ろ髪に噛みつかれたようだ。 一気に髪が解かれ、背に流れた。 ついふり向くと。 「やっと、こっちを向いたか」 髪を束ねていた紐の端を口に咥えたまま、橘はにやりと笑った。 ……普段は、気障なほどに自分を演出しているくせに。 時々、わからなくなる。 「どうする? 負けを認めるか?」 「…………仕方がないねえ。今日のところは」 「相変わらずだな」 「いいけどね。本当に金子君が来たらどうする気だい?」 「決まってる。見せつけて反応を愉しむ」 「お前ねえ」 「だいたい、お前はあいつに甘すぎるぞ。飼い猫の躾くらいはきちんとしたらどうだ」 「あいにく僕は、気位の高い半ノラが好みでね」 「気が合うな。………………俺もだ」 ぐい、と髪をつかまれ、ひきたおされる。 昔、さんざん覚えこまされた強引なくちづけ。 舌を探りだして噛みつかれ、身体が勝手に熱くなる。 衿を割る、橘の指。 「………………!」 首すじから鎖骨にかけて――がりっとひっかかれた。 肌に傷がつき、うっすらと血が滲む。 それを、ゆっくりと舐めとりながら、橘が喉の奥でひくく笑った。 「っつ、痛!」 橘の指は滑り、胸の紅みに爪をたてた。 そのままつねられる。 「い…………っ!」 びくん、と身体が跳ね、勝手に涙がこぼれる。 満足げに見下ろしていた橘が、肩口に歯を立てた。 「…………た……ちばな!」 「何だ」 「……い……たいって。どうしてお前はいつもこう――」 「お前の望みどおりにしてやっているだけだが?」 「望み……だって? 誰が………………ひっ!」 立ち上がりかけたところを、指で強く弾かれた。 声の出ないほどの痛みを味わったばかりの場所を、橘の舌がなぞりあげる。 「あ…………ああ…………っ!」 軽く歯を当てられ、かすれた悲鳴をあげる。 「腰が浮いているぞ。水川」 「…………え……?」 「いい加減に、認めろ」 「絶対に……嫌だ……ね」 「可愛げのない奴だ」 「可愛くなくてけっこう。 「へらず口を封じるのが先決か」 いきなり、口の中に入りこんできた橘の指は、上顎の裏、舌のへりを執拗に狙ってきた。 時折、唇を犯すかのように抜き挿しされる指。 指だけで蕩かされ、気がつけば夢中で舌を絡めていた。 湿った淫靡な音をたてるのも、唾液が糸を引くのも構わずに。 「物欲しげな表情だな」 嘲笑をまじえて、橘が呟いた。 その声までが、背筋を走った。 しかし悔しいので、指に軽く噛みついてやる。 「………………ふん」 かすかに、顔をしかめたきりで、橘は指を抜きとった。 「容赦はいらないらしいな」 「おや。容赦、なんて言葉知ってたのかい。橘……いやあ意外意外」 意地悪く笑ってやる。 「後悔するぞ。水川」 「……ふうん? そりゃあ楽しみだねえ」 数分後…………後悔、した。 ――…………ほんのちょっぴりだけ。 |
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「おい。上がるぞ」 いつものように、土蔵の二階に上がる。 遠慮、なんて文字は俺にはない。こと水川抱月に関しては。 しかし。 「よう」 迎えたその声は、思っていたものと違った。 男は、本棚にだらしなくよりかかり、煙草をふかしている。 俺の特等席に! 「貴様!!」 「……しっ。水川が起きる」 気障に親指で差した先には、仰向けに転がった繁の姿があった。 傍の文机には、今書きあがったばかりらしい原稿。 ……前言撤回。 寝転がってるのは繁じゃない。水川抱月だ。 「そいつを読みにきたんだろう、熱烈なる筆頭フアン殿」 「黙れ」 「ふふん」 「……塩では効かなかったか」 「あいにく俺は、悪霊でもナメクジでもないんでな」 「それよりもっとタチが悪いな……貴様は」 余裕しゃくしゃくの笑み……こいつは苦手だ。 繁の友達だかなんだか知らないが、いつぞやは「最中」に部屋にずかずか入ってきた。 そんな無粋な奴は、月村ひとりで沢山だ。 もう二度と来るな、と塩を一袋お見舞いしたのに、まだこうして図々しく出入りしている。 「そう噛みつくな。仮にも目上の人間には礼儀正しくするものだぞ」 「はっ、笑わせる。 誰が目上だ! 貴様なんぞに言われる筋合いはない」 「ほぉぉ〜〜う。俺を敵に回すつもりか…………後悔しないか?」 「してたまるか!」 「そうか……残念だな」 「はあ?」 「筆頭フアン殿は、水川抱月の著作は――?」 「もちろん、全巻持っているが? 「さすがさすが。だがな――」 「何だ。はっきり言え」 「水川繁、の著作はどうだ?」 「…………何?」 「俺の手元には、作家水川抱月が生まれる前の幻の作品がある。 「……………………!!」 「ついでに言うなら、作家水川抱月の知られざる学生時代のポオトレイト……なんて 「何で貴様がそんなものを持っている!」 「さあな。 「冗談じゃない!!」 「とっておいても二束三文にもならん物だし、欲しがる物好きもいないし?」 「ここにいる!!!!!!」 「…………空耳だな、おそらく。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」 「何が言いたい? ……無礼なガキ」 「……………………くっ」 「ん?」 「甚だ、はっなっはっだっ、不本意だが!!!!! 「そんな謝り方があるか。つくづく躾がなっていないな」 「俺だって、謝りたくなどない! 貴様などに屈服するなど反吐が出る。 「…………ガキ」 「何??!!」 つかみかかろうとすると、橘がふと横に目をやった。 「……水川。起きたか」 「え……………………っ、??」 一瞬の隙をついて…………唇を奪われた。 …………………………金子光伸、一生の不覚。 対・水川抱月以外で初めての、だ。 「………………!!」 腕をつかんで引き寄せられ、強引に舌を絡められる。 ……何だこれは。 膝立ちになっていた身体から、力が抜ける。 そこで、我にかえった。 何とかふりほどき、顔面に拳をお見舞いしようとした……が、難なくよけられてしまった。 「くそっ、何をする!!」 「なかなかどうして……だな。 さすが、あいつが仕込んだだけはある」 「…………っ、覚えてろ」 「ほお。幻の作品集はいらない、というわけだ」 「…………ぐっ」 「怒るな怒るな。 「は……? 何を言ってる」 「抜けがけは紳士の美徳に反する……これで借りは返した」 「…………何のことだ」 「さあな?」 やっぱり、この男とは相容れない…………その時俺は、そう思った。 |
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…………で。 僕はいったい、いつ起きたらいいのかな。 実はずっと起きてる……んだけど。 そう。金子君が来たあたりから。 寝たふりをきめこんで、二人の掛け合いを聞いてたら、起きる機会をのがしちゃって。 だって…………ねえ? 面白いから、もう少しこのまま寝たふりしてようかな。 |
密やかなる観客は、そっと寝がえりをうった。 …………必死に笑いをこらえつつ。 |
END |